十四.獄中の真実(一)
「……玲穎なら、そこには居ないぞ」
ハッと息を呑んだ春海が、慌てて檻の中を振り返る。かすかな月明かりに浮かぶのは、引っ立てられた時に着ていたままの襖裙を身に着け、長い黒髪を乱して座り込む人物だ。だが、皇太子に促されるようにゆっくりと顔を上げたのは、玲穎とは似ても似つかぬ──額に傷のある男だった。
「背格好の似ている宦官を、身代わりにしていた。お前が、今夜にも玲穎を始末しに来るであろうことは、想定していたからな。──自ら火中に飛び込んできてくれて、礼を言う」
吐き捨てるように告げ、直謙は自分の背後に向かって腕を伸ばした。官服を纏い、近侍のふりをしていた玲穎が、恐る恐る夫の手を取り前に進み出る。彼は隣に並んだ玲穎の肩を力強く抱き寄せ、茫然自失状態の春海を冷たく見下ろした。
「影廠に連行される直前、玲穎は私に全てを語ってくれた。清寧殿でのあのやり取りは、お前たち黒幕を引きずり出す芝居だったわけだ。……残念だったな。犯人が愚かで、こちらは助かったよ」
いつになく好戦的な物言いの直謙に戸惑い、玲穎は彼の横顔をそっと見上げた。その理由を、肩を抱く手に痛いほどに込められた力に見出すことは、自惚れだろうか。
『そなたは私が守ると言っただろう。……話してくれ。そなたを苦しめてきた、全てのことを』
誰かの言葉を信じよう、信じたいと思ったのは、生まれて初めてのことだった。琴華公主の手引きで、朝議の直後に夫と対面した玲穎は、俯きながら文字通り「全て」を告白した。
事態を把握した彼は、急ぎ、父である端明帝と一計を案じた。そうして、玲穎を犯人と断じた「ふり」をした影廠が彼女を連行し、公衆の面前で罪を告白させたのだ。なお、影廠が女官の証言をもとに、玲穎を疑っていたことは事実であったので、際どい時期ではあった。
現実を受け止められないのか、宦官に拘束された春海は湿った床に跪いたまま、玲穎を凝視している。そんな彼女に、直謙は嘲るような言葉を投げつけ続けた。
「そして、樹琉もこちらで保護している。……殺したつもりだったか? 生憎、仮死状態を装う薬には、いくつか心当たりがある。
あれも全て吐いたぞ。現帝陛下の対外施策に不満を持っていたお前たちが、後宮で騒ぎを起こして、俺に皇位を諦めさせようとしたと。あいつも、それに協力していたとな」
玲穎はそっと目を伏せ、殺気立った侍女の眼差しから逃げるように俯いた。
東大陸の覇者・礼国。その第四代皇帝、革世帝──在位中は景清帝と呼ばれた──蘇 昇寂は、前王朝に倣うような斬新な改革を、次々に推し進めた。しかし、当時の民の拒絶は激しく、後を襲った端明帝は即位後すぐに、人心安定のための軌道修正を余儀なくされた。
ただし、彼の娘が隣国に嫁いだことを契機に、風向きは変わりつつあった。
端明帝もまた、この七年、中庸政策から明確に舵を切り、穏やかな改革路線に航路を変更した。それは恐らく、次代の直謙皇太子にも受け継がれていくことだろう。
それを不満に思っていたのは、朝堂の第三派閥として燻っていた面々だ。
彼らは旧態依然の制度の中、安穏と怠惰に暮らすことに慣れきっていた。改革に同調する先進的な王家、均衡を支える現実的な趙家の影に隠れることを良しとせず、「礼国の永久の安定」を免罪符に、旧習に固執し続けた。
玲穎の朱家もまた、その派閥の一員だった。
事態は、まだまだ健勝な現帝が息子への譲位を表明した時、大きく動いた。想定よりもかなり早い代替わりに焦った彼らは、かねてから温めていた計画を実行に移す決意をした。
「皇太子・直謙を廃し、自分たちにとって都合の良い皇子を帝位に──」
その実行犯として選ばれたのが、いつかの日の為にと皇太子の閨に送り込まれていた、玲穎だった。
玲穎は、輿入れ前夜、実の父から掛けられた言葉を胸の内で反芻する。
『母を救いたければ、私の指示に従うように。──皇太子を籠絡して閨で操るか、いっそ奴の喉に短刀でも突きつけられれば良いのだがな。頭でっかちのお前に、そのような才も度胸もあるまい。
その時が来たら、我々が策を授けてやる。お前はせいぜい、なけなしの女の能力を振り絞って、皇太子の同情でも惹いておけ』
(お母様……)
玲穎の母は、実母の不貞の結果、生まれた娘だった。派閥の繋がりで身売り同然に朱家に嫁がされ、長年妾として虐げられてきた。
それでも、母は玲穎を常に愛し、守ってくれた。幼い彼女が書物に手を伸ばすたび、「玲穎は賢いわね」と喜んでくれた。
母の血縁上の実父の名は、行 浩然といった。十四年前、国家反逆罪を犯して一族を滅ぼした、行 岳栄の叔父にあたる人物である。「母が行一族の血縁だとばらされたくなければ、大人しく従え」と脅され、玲穎は従わざるを得なかったのだ。
玲穎は何としてでも、母を守りたかった。人生を諦めたような笑みを浮かべる母を、これ以上、不幸な目に遭わせたくなかった。
一方で、夫の誠意に、信頼に応えたい気持ちも確かに芽生えてしまっていた。だから、ずっとずっと苦しかった。本当のことを打ち明けて、懺悔してしまいたかった。
唇を噛み締める玲穎をちらりと見下ろし、直謙は底冷えのする声で春海の罪を糾弾した。
「……皇族を直接手に掛けるのは、容易ではない。俺は長年、玲穎を誤解していたし、彼女もお前に責められつつも、積極的には行動しなかった」
自分が夫に軽視されていたことは分かっていたし、一人の女として間違いなく自信をなくしたものの、同時にほっとしてもいた。近付けなければ、何かを仕掛けることも出来ない。だが、朱家の企みとは別に、「側妃」として落ちこぼれだった玲穎を、春海はひたすらに蔑んだ。
複雑な気持ちのまま、のらりくらりと逃げ続けていた玲穎だったが、あの日、春海を通じて齎された父の指示に絶望した。
「……ゆえに、お前たちは、皇太子妃たちを狙うことにした。即位前から妻を守れず、統率も出来ないような軟弱な男に、掌中の珠を嫁がせたがる貴族はいまい。俺の支持を失わせ、孤立させるのが狙いだったか。
当初、お前たちは、毒殺の実行を玲穎に命じた。……だが、なかなか首を縦に振らない彼女に焦れて、まず玲穎自身に毒を盛った」
あの時、玲穎が軽症で済んだのは、あれが警告だったからだ。「次は母親の番だぞ」という。けれど、自分の代わりに苦痛にのたうち回る毒味役の姿に、玲穎は目の前が真っ暗になる思いだった。




