浮気の花束
ベレスフォード伯爵領を覆っていた黒い雨雲が消え去り、突き抜けるような青空から強烈な太陽が降り注いでいた。
日差しが雨に濡れた大地を乾かし、恵みを与える。
しばらくラドクリフ子爵家に滞在していたフェリシア・ド・ノアイユは窓から入ってくるまぶしい陽光を見て、そろそろ帰ることを考え始めていた。
自分の手を見る。爪の間に入り込んだ泥がまだわずかに残っていた。
担っていた仕事は配給の食事を手渡す係だ。泥に直接触れたわけではなかったが、あの状況だ。泥は至る所に存在した。気づかぬうちに爪に入り込んでいたのだ。
ただ、フェリシアはこの汚れを美しさを損なうもの、とは思わなかった。
思い出すのは現場での出来事だ。
着たこともないような粗末な服を着て、会話もしたことがなかったような現場で働く平民と言葉を交わした。
彼らも、口々にフェリシアのことを褒め称えた。その言葉を思い出す。
美人だ、綺麗だ。おい、とんでもない美人が飯を配ってるぞ! こんな綺麗なお嬢さんに渡してもらうとやる気が出るってもんだ。飯が百倍美味く感じる。
フェリシアは美人だと言われることなど、聞き飽きるほどだ。社交界で向けられる賛美の方が、はるかに洗練されている。
けれど、あの泥まみれの現場で投げかけられた剥き出しの言葉は、何故だかフェリシアの胸の奥深くにまで突き刺さった。
本当に、嬉しかった。
この喜びの理由がフェリシアには言語化できない。
同じ言葉のはずなのに、どうしてこんなに響くのか。どうしてこんなに嬉しいのか。
ただ、わかったこともある。
あの場所で、誰もがジギスムントと、アネッタを信じていた。
不思議だった。ジギスムントはまだわかる。その場で誰よりも多くの土嚢を力強く運んでいたから。
けれどアネッタはほとんどあの場に顔を出さなかったのだ。
それなのになぜ、と最初は思っていた。
けれど、工事に必要な資材が絶え間なく送られて来る。配給の材料が遅れず確実に届く。
それらの手配を行っているのがアネッタだ、と調理を担当していた平民の女性に教えられた。
結局、堤防の修復が終わるまで、工事が滞ることは一瞬もなかった。
あの場所で自分は小さな歯車だっただろう、と思う。けれど、その小さな歯車の回転が大きな仕事に繋がっていることを目の当たりにして、フェリシアの胸中には奇妙な達成感があった。
その達成感を表現する言葉を、フェリシアは知っていた。
この場所は、美しい、と。
そう思ったのだ。
「フェリシア様。この度はご協力誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。おかげ様をもちまして無事堤防の修復も完了いたしました」
朝食の場でアネッタが頭を下げる。
フェリシアはどういたしまして、と返事をしてから意を決して続ける。
「こちらこそ、貴重な経験をさせていただきました。……ひとつ、私の過去の言動を訂正させてくださいませ。貴女を美しくない、と言ったのは私の不明の致すところでしたわ。ジギスムント様が仰った通り、貴女は美しい。無礼な言動を謝罪いたします。申し訳ございませんでした」
「……謝罪を受け入れます、フェリシア様。けれど、私こそフェリシア様に謝罪をしなければいけません。私は、フェリシア様は現場仕事などなさらないだろう、と思っていました。そしてお引き受けくださった後も、きっとすぐに逃げ出すだろう、と思っていたのです」
フェリシアはそうだろうな、と思いながら黙って先を促す。
「一部の者にはフェリシア様が伯爵令嬢としての権力を振りかざして何らかの要求をなさった場合、仕事を途中で投げ出した場合の対応まで指示しておりました。フェリシア様を勝手に決めつけていたのです。恥ずべき偏見でございました。本当に、申し訳ございません」
結局フェリシアは最後まで身分を明かさず、不平不満をひとつ漏らすことなく仕事を終えていた。
「良いわ、アネッタ様。私も謝罪を受け入れましょう。あの現場で、私の誇りだけは貴女が計算できなかった、そういうことでしょう」
「はい、そう思います。……現場の者たちは別の言葉を使っておりましたが」
その返事がフェリシアの好奇心を刺激する。
「そう。……彼らはどのような言葉で、私の誇りを称賛してくださったのかしら」
「はい、とても根性のあるお嬢さんだ、と多くの者が言っておりました」
フェリシアは目を丸くして、根性、根性、と何度か繰り返す。
「私、根性がある、などと言われたことは初めてですわ!」
そして堪えきれないといった様子で声を上げて笑った。
頬をバラ色に染めて笑うフェリシアにアネッタは思う。
ああ、フェリシア様は本当に、眩しいほどに美しい。
「フェリシア様の根性のおかげで本当に助かりました。重ねてお礼申し上げます」
そう言って笑顔を見せたアネッタを、フェリシアは正面から見る。
やはりだんご鼻で、鼻は上向きで鼻の穴が見えていた。
それでも、フェリシアはもう、アネッタが美しくないとはまったく思わなかった。
フェリシアは最後に泥汚れの残る手を差し出した。
アネッタはインクの染みがついた手で差し出された手を握った。
◇
ベレスフォード伯爵邸の書斎の窓からも、雨上がりの力強い陽光が差し込んでいた。
この日、伯爵邸の書斎では、長男マクシミリアンが重苦しい沈黙を纏って机に向かっていた。
そこへ、未だ泥の匂いを漂わせたジギスムントが、無造作に足音を立てて入ってくる。
「兄上、堤防の状況は安定した。アネッタの手配のおかげで、明日には本格的な補強工事に移れる。……それで、改まって何の相談だ? 報告ならあとで――」
「ジギスムント。……私は、フェリシア・ド・ノアイユ伯爵令嬢にプロポーズをしようと思っている」
マクシミリアンの絞り出すような声に、ジギスムントは一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐにいつもの不愛想な表情に戻って鼻を鳴らした。
「……何を今更。あの泥だらけの現場で、兄上が魂を抜かれたような顔で彼女を見つめていたのは、あの場にいた全員が知っているぞ」
「そう言われると返す言葉もないが……」
マクシミリアンは、普段の余裕をどこかに置き忘れたかのように、所在なげに指先を動かした。
「彼女は社交界の至宝だ。引く手あまたの令嬢が、私のような辺境の男の求婚を、本当に受けてくれるだろうか」
ジギスムントとしてはこのような兄を見たことがない。
マクシミリアンはいつだって、伯爵家嫡男としての責務を立派にこなし、ジギスムントにとっても自慢の兄だった。
僅かとはいえ、こういうことに関しては自分が先達だ。なにせアネッタを射止めた成功者として兄より先に進んでいる。
ジギスムントは少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「兄上はどうして彼女を求めたいと思ったのだ?」
「それはもちろん、あの工事現場での彼女を見たからだ。あのときのフェリシア嬢を私は心底美しいと思った。だから……」
「それならば、それを正面からぶつけるしかあるまい。夜会で彼女を見初めたというなら、さっさと諦めた方がいい。王都には兄上より口の上手い男も、身分の高い男もいくらでもいる。だが、あの現場でなら話は別だ。兄上が一番いい男だろう。自信を持て」
「どういう褒め方なのだそれは」
不服そうにしているマクシミリアンの肩を、ジギスムントは力強く叩く。
「俺の成功体験から言わせてもらえばな、兄上。……あのようなしっかり自分の芯を持つ女性は、飾らない真実しか受け取らぬのではないか? 兄上が惚れたのは、あの泥だらけの女神だろう? ならば、それをそのまま口にすればいい。……まあ、あのお嬢様に断られたら、兄上は立ち直れないほどに落ち込みそうだからそこは心配だが」
「お前、自分は首尾よく成功したからと言って……少しは兄を励ましたらどうだ」
「あとは、やはり花だ。俺のときに正装をして花束を持って行くように言ってくれたのは兄上ではないか。俺のときはそれで成功した。あれこれ考えるよりも、それが良いのではないか?」
ジギスムントの言葉にマクシミリアンはしばらく考え込んでいたが、ひとつ頷いて背筋を伸ばした。
「……うん、吹っ切れたよ。私は、彼女を、生涯をかけて守り抜く覚悟を決めた」
マクシミリアンは立ち上がり、その瞳に一人の男としての静かな情熱を灯した。
◇
フェリシア・ド・ノアイユは自領に戻るにあたって、ベレスフォード伯爵家に挨拶を行うため立ち寄った。
すぐに戻るつもりではあったが、マクシミリアンに丁重に引き止められ、応接室に通された。
ジギスムントはフェリシアとは入れ違いにラドクリフ子爵家に向かったらしい。
フェリシアにとって不思議な関係性の二人であった。二人でいるときの空気感は恋人同士のそれといってよいものだったように思う。
しかし、いざ領地で問題が起こると、それぞれが別々に行動していた。フェリシアは現場ではジギスムントと、子爵家ではアネッタと顔を合わせていたが、どちらからも相手の様子を聞かれたことは一度もなかった。
恋人とは、相手とひと時も離れがたい思いを抱くものではないだろうか。あるいは、離れている間は相手がどうしているか気になって仕方がないのが、世間一般の恋というもののはずだ。
それなのに、あの二人にはそれがない。
別々の場所にいても、相手の動向を知らなくても、あの二人は通じ合っているようにも思えるのだ。
そんなことを考えていると、応接室の扉を開けてマクシミリアンが両手に抱えるほどの花束を持って現れた。
「ノアイユ伯爵令嬢フェリシア様」
彼の持つ花束に目をやると、色鮮やかなアジサイである。
彼女にとってこのような経験は初めてのことではない。求婚だろうと予想したが、それにしては持っている花が相応しくない。
疑問に思いながらも、立ち上がって応じる。
「はい」
「私は、ラドクリフ子爵領の堤防修復現場に赴き、貴女を見たときから貴女の美しさに心を奪われたのです。この花が、私の誠意です。どうか私の妻になっていただきたい!」
「…………」
やはり求婚であった。
しかし、差し出されたのは色鮮やかなアジサイ。移り気や浮気という意味を持つ、プロポーズにまったく相応しくない花だ。
(……な、何かしらこの男。私と結婚した瞬間から、堂々と浮気を楽しむつもりだと宣言しているの……!?)
だが、フェリシアにはひとまずそれ以上に気にかかることがあった。
「あの現場で、ですの?」
「はい、実は工事の進捗を確認するため私もあの現場にいたのです」
「あの現場で私を見初めた、と仰るの? 王都の夜会でお会いしたときではなく?」
その言葉にマクシミリアンは一瞬怯む。
もしかして気を悪くしたのだろうか。
それでも、弟の言葉を信じて、自分の真実をぶつけるしかない。
「はい。あの場で、粗末な服を着て、泥に塗れてなお、貴女は美しかった。私はその美しさに惹かれたのです」
「そう、ですか……」
フェリシアは考え込む。
社交の場で、美しく飾り立てた自分ではない。
あの曇天の下で、粗末な服を着た泥まみれの自分に美しさを感じた、という言葉はあの現場でかけられた言葉と同じように、フェリシアの胸を刺した。
嬉しかったのだ。
これまで届いた求婚は、何かと理由をつけて断ってきた。今回もそうすることはできる。
けれど。
いつかは誰かを選ばねばならないのだ。フェリシアとて、いつかは結婚をしたいとは思っている。
それならば、この今までにないほどに激しく刻まれる胸の高鳴りを最優先に選んでも良いかもしれない、と考えた。
それに、小生意気ないけ好かない、容姿には恵まれていないけれど美しい、あの子爵令嬢と義姉妹というのも悪くないかもしれないと、そんな考えも頭に浮かんだ。
とは言え、それはそれとして。
「お答えする前に一つ聞きたいことがあるのですが」
「もちろんです。なんでしょう?」
「そのアジサイの花束は、私と結婚した後は堂々と浮気をするぞ、と宣言なさっておられるのですか?」
「は……?」
フェリシアの問いにマクシミリアンは完全に固まってしまった。
答えられないマクシミリアンに、アジサイは美しい花ではあるが求婚には向かないことを伝える。
「どうして、その花を選ばれましたの?」
「あ……、そ、それは。その。弟が、自分のときは、それで成功したのだから、兄上もそうするとよい、と……」
普段あれほど明晰なマクシミリアンがしどろもどろに言い訳をする。
その様子を見て、フェリシアは考える。
「ジギスムント様がアジサイの花で求婚をした、と言うのは事実ですのね? しかしアネッタ様が贈り物に必要な知識をご存じないとは思えません。それに気づけば、必ずジギスムント様へお伝えになる性格でしょう。マクシミリアン様……ジギスムント様に担がれましたね?」
その言葉に、マクシミリアンはついに足元から崩れ落ちた。もはや、完璧な跡継ぎとしての格好を取り繕う余裕すら残されていない。
そして求婚の現場であることが頭から吹き飛んだかのように、必死に声を張り上げた。
「ち、違います! 私は浮気などしません! 貴女だけだ!!」
そのあまりにも飾り気のない叫び。
フェリシアは思わず、鈴を転がすような声を上げて笑ってしまった。
ひとしきり笑ってから、フェリシアはマクシミリアンを立たせ、優しく両手を差し出した。
マクシミリアンは泣きそうになりながら、その両手にアジサイの花束をそっと乗せる。
社交界で贈られる洗練された薔薇や詩作は、どれも完璧で、けれどどこか空虚だった。
けれど今、目の前にあるのは、弟に担がれた男が大真面目に差し出す、浮気の花束だ。
その不器用な必死さが、フェリシアにはたまらなく嬉しかった。
「マクシミリアン・ド・ベレスフォード様。フェリシア・ド・ノアイユは貴方様の求婚をお受けいたします。幾久しく、よろしくお願いいたします」
マクシミリアンは今度は間違えなかった。
その最上の返事を聞いた瞬間、大真面目な男は両手を広げ、花束ごとフェリシアを強く抱きしめたのだった。




