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鏡のない部屋







 ベレスフォード領を叩く雨は、夜になっても勢いを増すばかりだった。

 ラドクリフ子爵家の質素な応接室。窓を打つ激しい雨音だけが響く中、社交界の至宝フェリシア・ド・ノアイユは、目の前の現実に打ちのめされていた。


「……信じられませんわ」


 フェリシアは、差し出された温かい茶を一啜りもせず、対面に座る令嬢を凝視した。

 アネッタ・ド・ラドクリフ。事前に聞いていた通り、華やかさとは縁遠い令嬢だ。


「貴女のその鼻、だんご鼻だし上向きで、正面から見るとまるで豚のようですわ。私には、美しいとは思えません」


 フェリシアの言葉は、悪意というよりは、あまりに理解し難い現実を前にした者の困惑だった。

 しかし、アネッタは傷つくどころか、どこか遠くから届く増水した川の音を聞くような冷静な眼差しで、静かに頷いた。


「はい、仰る通りです。私もそう思います。……ノアイユ伯爵令嬢は、私などよりもずっと、眩しいほどにお美しい」

「……!? ならば、どうして! ジギスムント様は私にハッキリと、私よりも貴女の方が美しい、と仰ったのよ!」


 叫ぶフェリシアの瞳には、かつて夜会で見せたような自信はなく、ただ自分の美への努力や取り組みを全否定されたことへの、子供のような怯えと混乱が滲んでいた。

 怒れる伯爵令嬢を前に、アネッタは心臓が跳ね上がるような衝撃を覚え、同時に自分をそこまで誇ってくれたジギスムントへの、胸を締め付けられるような愛おしさを感じていた。

 きっと以前の自分であれば、向かい合って座った時点で俯き、劣等感で圧し潰されていたはずだ。

 けれど今は違う。


フェリシアの言葉が正しいことも、自分では分かっている。

 それでも、ジギスムントの言葉もまた嘘ではないと信じられる。


 確かに自分はフェリシアの言うように美しくない。けれど、ジギスムントが言うように美しい。


「はい。けれど、ジギスムント卿は、それを美しいと仰ってくださいました」


 アネッタは机の上に広げた、細かな数字が書き込まれた報告書を指先でなぞった。そこには、現在の備蓄食糧の推移と、万が一堤防が決壊した際の避難経路、そして招集すべき人員のリストが、細かな数字で整理されていた。


「私は政務ができます。税の計算も、こうした雨への備えも。……ジギスムント卿は、私の仕事も、この手の汚れも、領民を守るための輝きなのだと……美しいと、そう仰ってくださったのです」


 フェリシアは息を呑んだ。まさか言い返されるとは思っていなかったのだ。

 そのとき、泥にまみれた重い足音が廊下に響いた。

 扉が開き、雨合羽を脱ぎ捨てたジギスムントが、凄まじい気迫で入ってくる。


「アネッタ! 堤防の第三区域が危ない。作業員たちを一度引かせたが、このままでは――」

「ジギスムント卿、ご安心ください。すでに予備の土嚢と補強用の材木は、下流の資材置き場に集積させてあります。雨が小康状態になる機会は必ず来ます。即座に工事を再開できるよう、人員も組み直しました」


 アネッタが迷いなく指示書を差し出すと、ジギスムントの険しい表情が、一瞬で深い信頼のそれに変わる。

 彼はアネッタのインクで汚れた手を、壊れ物を扱うように、けれどもしっかりと握りしめた。


「……やはり君は最高だ、アネッタ。君がいてくれれば、俺は迷わず戦える」


 その光景を、フェリシアはただ立ち尽くして見つめていた。それは、社交界の男たちがフェリシアの白い手に口づけを落とすような、形だけの甘い儀礼ではなかった。


(ああ、そうか……。私が気づいていなかった美しさとは、こういうことだったのね)


 美しさという名の価値の物差しが音を立てて砕け散った。

 自分には、この泥にまみれた献身は理解できない。

 しかし。

 彼女の中にある自律と自立心が、ただの敗北感で終わることを拒んだ。

 このまま黙って引き下がるのは、美しくない。




「……アネッタ様」


 雨が激しく、フェリシアは子爵家に一泊していた。

 翌朝、雨がようやく小降りになった頃。一晩中眠らずに被害の報告を受け取り続けていたアネッタの元へ、フェリシアが歩み寄った。

 ドレスの裾は少し汚れ、完璧だった髪もわずかに乱れていたが、その瞳には昨日とは違う、清々しい光が宿っていた。


「……ノアイユ伯爵令嬢?」

「私に何かお手伝いはできませんか?」


 問われ、アネッタは二度、三度と目を瞬かせた。

 そうして、考える。正直、人手は足りない。しかし、相手は社交界で最も美しい華である伯爵令嬢なのだ。


「できます。雨が小降りになっているこの機会に、急ぎ決壊した堤防を修復します。修復は作業員の男手が担いますが、ほとんど不休で作業を進めますので、食事も絶え間なく交代で取らねばなりません。現場で泥だらけになりながら作業員に食事を配給する。ノアイユ伯爵令嬢ができる、とお考えでしたら是非お手をお貸しください」


 泥だらけになりながら働く。もちろん、フェリシアにそのような経験はない。

 一瞬言葉に詰まったフェリシアに、アネッタは容赦なく続ける。


「けれど、できないとお考えでしたら。恐れ入りますが雨が小降りになったときを見計らってノアイユ伯爵領にお戻りください。それが、最も助かります」


 どうせお前にはできはしないだろう、と言われた気がした。

 目の前の生意気な子爵令嬢に腹が立って仕方がない。

 けれど、フェリシアは黙って引き下がるのは美しくない、ともう思い定めていた。

 ならば、出すべき答えはひとつしかなかった。

 一瞬声を詰まらせたフェリシアは、それでも逃げなかった。


「やらせていただきますわ」


 その言葉に意外そうな表情を見せるアネッタ。

 そこがまた気に障った。

 やはりこの女は、どうせフェリシアが逃げ出すだろう、と考えていたのだ。

 逃げてたまるか、と思った。負けてたまるものか、とも思った。

 なぜなら、私の方が美しいのだから。


「わかりました。ありがとうございます。それでは、そのドレスは現場に向きません。私のもので恐縮ですが、服をお貸しいたしますので着替えてきていただけますか。サイズが合わなければ腰紐で調節してくださいませ。準備ができ次第出発をお願いいたします。私は別の場所で資材の搬入手配を行ってまいりますので」


 アネッタの部屋でシンプルな服に着替えるフェリシア。

 今まで一度も着たことがないような粗末なものだ。

 アネッタの部屋には当然あるはずの鏡が一枚も置かれていなかったため、その服を着た自分の姿を確認できない。

 しかし。


 どんな粗末な衣装を着たとしても、自分は美しいだろう、と。

 フェリシアは思った。




 ◇




 降り続く雨は小康状態に入ったものの、ベレスフォード伯爵邸の執務室には、依然として緊迫した空気が満ちていた。

 長男マクシミリアンは、次々と運び込まれる領内の被害報告に目を通していた。幸いなことに、人的被害は今のところ出ていない。

 ジギスムントが現場で指揮を執っている治水工事が、未完成ながらも盾として機能し、家屋や畑が濁流に呑まれるような壊滅的な被害は防がれていた。

 

「……やはり、ラドクリフ子爵領の対応が群を抜いているな」


 代官たちの報告書を並べれば、一目瞭然だった。他領の代官たちがパニックに陥り、言い訳混じりの報告を寄せる中、ラドクリフ領からの報告だけは、冷徹なまでに正確な数字と、完璧な次手が記されていた。物資の手配、避難の段取り、そして決壊した一部の堤防に対する、信じられないほどの迅速な再建着手。

 マクシミリアンは、アネッタが能力を十全に発揮し、采配を振るって、現場を統率している姿を想像した。


(一体、どのような魔法をかけているのだ。……この目で確かめねばなるまい)


 ラドクリフ子爵領で、アネッタの采配と現実に動いている現場を、伯爵領全体を指揮する自分が実際に確かめることが、必ず復興を早め、今後発生するかもしれない被害を軽減する役に立つはずだ。

 彼は早速馬車を用意させた。




 ぬかるんだ道を越え、ラドクリフ領の堤防現場に到着したとき、マクシミリアンは自分の目を疑った。

 そこには、彼が想像していた決壊した堤防の修復作業中の現場とはおよそかけ離れた光景が広がっていたのだ。

 雨はひとまず降りやんでいたが、空には重い曇天が広がっている。その下で多数の作業員が泥だらけになりながら、崩れた堤防を一度切り崩し、新たな土嚢を築いている。

 そこはいい。問題は人だかりができている休憩用の広場だ。

 マクシミリアンが考えていたよりも多くの人員がいるのは、おそらくアネッタの手配だろう。交代で休憩を取りながら常に工事の手が止まらぬよう采配されている。見事なものだった。

 時間さえかければ、誰でも同じ采配はできるかもしれない。だが、この迅速な対応はアネッタだからこそ成し得たものだ。

 今は小康状態ではあるが、いつまた雨が降ってくるかわからないのだ。ここでの修復が、大災害を小さな被害に抑えることができる。

 休憩用の広場に建てられた配給用のテントからは、煮物の良い匂いが漂ってきていて食欲をそそる。

 配給を受け取った労働者は思い思いの場所で食事に食らいついていた。

 だが、食糧配給を受ける列が一列しかないのはどうしたことか。二列三列に並ばせた方が効率が良いだろうに。これは珍しいアネッタの采配ミスだろうか、と一瞬考えた。

 列の先頭。正確には作業員に食事を手渡ししている女性を見て、マクシミリアンは愕然とした。

 粗末な服を身に着けている。雨が降っていたときから作業していたのだろう。足元だけではなく、衣服や髪にまで泥が跳ね飛んでいるのがここからでも確認できる。

 にもかかわらず、堤防修復の工事現場において、圧倒的に輝かしいまでの美しさ。


 ——フェリシア・ド・ノアイユだった。


 彼女が、他の女性が用意した配給を、手ずから作業員に渡している。「お疲れ様です」「ご苦労様ですわ」そんな言葉とともにフェリシアから配給を受け取った作業員は大喜びだ。


「すげえ美人だ」

「あんなに綺麗な人見たことねえぞ」


 そんな労働者たちの会話が聞こえてくる。

 現場を見ても、マクシミリアンには何が起こっているのか理解できなかった。

 呆然とその場を見つめていると、マクシミリアン様! と声をかけられた。

 工事現場を統括している壮年の男で、以前他の現場でジギスムントに紹介されてから、マクシミリアンとも顔見知りだ。


「どうされました? 今は大丈夫ですが、雨が降ってきたらここはまた危険になりますよ」

「雨が落ち着いたので現場を確認に来たのだ。しかし、これはどうしたんだ?」


 マクシミリアンが配給用テントに目を向けながら問う。


「ああ……。アネッタ様のご紹介でお手伝いに来た方ですね。いえ、最初は普通にいくつか列を作って配給を配っていたんですが、ものすごい美人が手渡しで飯を渡してくれるってんで、全員彼女の列に並ぶようになってしまいましてね。今はあの状態です。マクシミリアン様はご存じの方ですかい?」


 もちろん知っている。伯爵令嬢だ。しかし、現場監督の彼が知らないとなると、彼女は身分を明かすことなくあの場で働いているのか。

 現場のことだけを考えるなら、その方がありがたい。伯爵令嬢が来たとなればどうしても彼女に気を使わざるをえなくなる。その分、工事は遅れる。

 だからノアイユ伯爵令嬢は、あえて身分を隠し、働いているのか。

 良く見れば、彼女が連れて来ていた使用人も粗末な服を着て作業を手伝っている。

 マクシミリアンは心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。

 現場を確認し、学びに来たということも頭から吹き飛んだ。

 ノアイユ伯爵令嬢フェリシアのあまりの美しさに、心を奪われていた。


「兄上じゃないか。他の場所は大丈夫なのか?」


 半ば呆然としていると、ジギスムントもマクシミリアンの元にやって来た。

 頭から足元まで泥にまみれている。


「あ、ああ。幸い今のところ大きい被害は出ていない。しかしやはりラドクリフ子爵領はさすがだな。対応が早い。それで様子を見に来たんだ」

「なるほどな。ここもどうにかなりそうだ。資材も到着したし、作業員の士気がとにかく高い。雨がまた降り始める前に応急処置はできそうだ」

「士気が高い……。あれか」


 もう一度フェリシアに目を向けて、言葉をこぼす。

 ジギスムントは大男には似合わぬ、少し拗ねたように、それでも頷く。


「ああ……まあ、あれだ。見たこともない美人から食事を受け取れるというので、みんな喜んでな。正直驚いた。見てくれの美しさが役に立つこともあるんだな」


 弟のそんな言葉に、マクシミリアンは思わず失笑した。


「お前、ノアイユ伯爵令嬢がお前の婚約者を悪く言ったのを根に持ってるな?」

「いや、別に。どうして兄上はそう思うんだ?」

「目が完全に曇っている。お前は、あれを本当に見てくれの美しさだと思うのか」


 ジギスムントは反論しようとして、思い止まった。

 

「工事はまだ途中だ。兄上の相手はできないが、アネッタの仕事の結果をじっくり見て行ってくれ」


 それだけを言って、駆け出してしまった。

 そんな弟の態度に声を上げて笑ったマクシミリアンは、もう一度フェリシアに目を向けた。

 彼女に声をかけようかと考えて止めた、身分を隠し泥に塗れながら働いている彼女の矜持を汚すことになってしまうから。

 マクシミリアンは現場監督の方へと向き直り、そして改めて工事の進捗や工事に入るまでのアネッタの采配の内容などを聞き取るのだった。






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