野山の花なら、そこにあるだけで美しい
フェリシア・ド・ノアイユはノアイユ伯爵家の末娘として生まれた。姉と兄がひとりずついる。
末っ子でもあり、父母や兄姉から惜しみなく愛情を注がれ、蝶よ花よと育てられた。
生まれ持った容姿、たっぷりの愛情、そして本人の努力。
それらが合わさった結果、現在フェリシアは社交界で最も美しい華とまで呼ばれるほどに成長した。
生まれ持った容姿はあるにしろ、フェリシアはそれだけで美しさを維持できる、とは考えていなかった。
野山の花であれば、それはただそこにあるだけで美しい。
フェリシアは、自分の美しさを生まれつきのものだとも考えていなかったのだ。
言葉遣い、マナー、立ち振る舞い、教養。美しくあるために必要だと思うものは、何でも身につけた。
幼い頃から毎朝姿勢を正して歩く練習をし、夜会で恥をかかぬよう何冊もの礼法書を読み込んだ。
甘やかされて育った末娘でありながら、彼女が自律と自立心を身につけていったのは、そのためだった。
ある夜会での出来事である。
フェリシアはここ最近では経験したことのない屈辱を味わった。
ジギスムント・ド・ベレスフォードに完全に無視されたのだ。
フェリシアが夜会に出ると、そこには人だかりができる。身分が上であれ下であれすべての男が、皆フェリシアと話したがった。
フェリシアに挨拶をし、美しい、麗しい、可憐だ。そういった美辞麗句を溢れんばかりにフェリシアに与えた。
それが、当然だと思っていたのだ。
なぜなら、自分は誰よりも美しいから。
美しさを称賛しない男などいない。そう思っていたのに。
ジギスムントは社交界では珍しい、無骨な魅力を持つ男だった。女性に言い寄られてもまるで関心を示さない態度が、かえって令嬢たちの心を煽っていた。
フェリシアはジギスムントにはまったく興味がなかったが、挨拶に来れば社交界には珍しいタイプの男がどんな反応を見せるか、観察してやるつもりだった。他の男たちのように、自分の前で膝を突き、その無骨な口から、美しさを賛美する不器用な美辞麗句を吐き出させてやるつもりだったのだ。
しかしジギスムントは夜会の主催者には挨拶をしたようだったが、フェリシアと群がる男たちの群れには一瞥もくれず、用意された料理を適当に摘まむと、夜会も半ばという時間にさっさと帰ってしまった。
ジギスムントは、フェリシアを無視したつもりすらなかった。ただ彼の視界に、彼女が入っていなかっただけなのだ。
フェリシアにとっては違った。フェリシアは彼の態度を自分が無視されたように受け取ってしまった。
今やフェリシアの元には王族や王子すらやってくるのだ。
自分の美しさに絶対の自信を持っていたフェリシアにとって、ジギスムントの態度は屈辱的であった。
何としても、自分を無視したあの男に、自分の美しさを認めさせなければいけない。
そのためにはどうしたら良いかをフェリシアは考えた。
会って一言でも話せば、ジギスムントも自分の美しさを認めて他の男たちのように称賛の言葉をおくってくるはずだ。
そう思えば、会えないことなど問題ではなかった。会う機会を、自分で作ればいい。
フェリシアは両親に頼み、ジギスムントに婚約の打診を行った。
フェリシアに甘い両親はフェリシアが良いのなら、とすぐに言うとおりにしてくれた。
これで会える、と思っていたのだ。
会って、自分を無視したあの男から称賛の言葉を引き出しさえすれば、フェリシアは満足するはずだった。
その後は、会ってみたら思っていたのとは違ったとでも言って、婚約を成立させなければ良い。
ところが、ベレスフォード伯爵家から断りの返事が来たのだ。
まさか、と思った。
フェリシアは自分からの婚約の打診を、断られるなどということがあると、まったく考えてすらいなかった。
どんな男でも当然のように喜び、感謝し、その申し出に飛びつくはずだった。
間違いないのか、と何度も父に確認するが、間違いなく断りの返事が来たと言われてしまい、愕然とする。
信じられない事実をつきつけられ、ようやく何故、という疑問がわいた。
聞けば、他の女性との婚約が成立したから、と言うのだ。
一度はそれで納得した。フェリシアは他の婚約に割り込んで男を奪うような趣味はない。
そういうことであれば、フェリシアとの婚約を泣く泣く諦めるということもあるだろう。そう思いかけた。
しかし、詳しく聞けばジギスムントの婚約が成立したのは、フェリシアからの申し出があった後だというのだ。
その上ジギスムントの相手がラドクリフ子爵令嬢らしい。
相手の家格が劣るということは、フェリシアにはどうでもよかった。下級貴族や平民であっても、磨き上げられた本物の美を持つ者はいる。それは当然だ。
しかしラドクリフ子爵令嬢の噂をフェリシアは知っていた。彼女と見合いをしたことのある男から聞いたことがあったのだ。
男が言うには、ラドクリフ子爵令嬢はだんご鼻で、しかも骨格が上向きだから正面から見ると鼻の穴が見えてしまうような不美人だった、と言っていたのだ。
許せない、と思った。
夜会で自分を無視したあの無礼な大男は、自分の婚約の申し出に対して、美しくもない令嬢と比べてフェリシアを選ばなかったのだ。
何故なのか。どうしてなのか。理由がまったくわからなかった。
念のため知り合いにも確認した。
返ってきた答えは、やはり同じだった。
ただ、彼女の評判自体は悪くはなかった。控えめで、礼儀正しい。若干堅苦しいところはあるが、悪い人間ではない、と言うのがフェリシアの友人たちの評価だった。
彼女をそのように評した友人たちですら、容姿に関しては美しくない、というのが共通見解だったのだ。
幾ら考えてもフェリシアには理解できなかった。
ラドクリフ子爵令嬢が選ばれて、自分が選ばれなかった理由が。
思い余ったフェリシアは、ついにベレスフォード伯爵領に向かうための馬車を用意させた。
ベレスフォード伯爵家に先触れを出し、両親にも宿泊の許可を取り、ジギスムントに会うためにベレスフォード伯爵家に向かった。
◇
ベレスフォード伯爵領を包む空は、数日前から低い雲に覆われ、重苦しい雨が絶え間なく降り続いていた。
それはかつて、数千人の領民の家を奪った大水害の予兆を思わせる、湿り気を帯びた嫌な雨だった。
そんな中、一台の豪華な馬車が、ぬかるんだ道をものともせず伯爵邸へと滑り込んできた。
中から現れたのは、社交界で最も美しい華と謳われるフェリシア・ド・ノアイユである。彼女は、長旅とこの悪天候の中でも、一筋の乱れもない完璧なドレスと、自律によって磨き上げられた凛とした立ち振る舞いを崩していなかった。
「ノアイユ伯爵令嬢、ようこそおいでくださいました。このような悪天候の中、我が家のような辺境へ足をお運びいただけるとは、この地がまるで王都の宮廷のように華やぐ心地です」
出迎えたのは、ベレスフォード家の長男マクシミリアンだった。彼は、まさに完璧な貴族という仮面を貼り付けたような、淀みのない所作で頭を下げる。
フェリシアを社交界の至宝と呼び、凡百の貴族が口にするような美辞麗句を惜しみなく注ぐマクシミリアンの対応に、フェリシアは内心で安堵した。
(そう、これが正しい対応だわ。あの大男だけがおかしいのよ)
「お会いできて光栄ですわ、マクシミリアン様。……それで、ジギスムント様は?」
「あいにく弟は、この雨を案じて治水現場の確認に出ておりまして。しばらく、私がおもてなしをさせていただきます」
翌日、ようやく泥にまみれた作業着姿で帰還したジギスムントとの対面が叶った。
フェリシアは、挨拶もそこそこに、胸の中でずっと燻っていた問いを、氷のような声音でぶつけた。
「ジギスムント様。単刀直入にお伺いしますわ。……どうして、私との婚約をお断りになりましたの?」
だが、対面したジギスムントの瞳には、社交界の男たちが浮かべるような、フェリシアの美貌に対する感嘆も下心も、ひとかけらも存在しなかった。
彼はまだ乾いていない上着を脱ぎながら、事もなげに応じた。
「他の女性――アネッタとの婚約が決まっていたからだ」
「しかし、私からの申し出が届いたとき、まだ貴方たちの婚約は正式には成立していなかったはずですわ。貴族の家としての格も、持参金も、私の方が条件は良かったはず。……少しは天秤にかけようとは思わなかったのですか?」
ジギスムントは一瞬だけ、不思議そうな顔をしてフェリシアを見た。その瞳は、嘘のない言葉しか認めない、静かで深い眼差しをしていた。
「……まあ、そうだが。考えるまでもないだろう」
「何故!? 私の方が、ずっと美しいのに!」
フェリシアの叫びは、彼女がこれまでの人生で積み上げてきた、美しさという名の価値を守るための悲鳴だった。最初に身分と持参金の話を持ち出しはしたが、フェリシアにとってもそんなものはどうでも良いことだった。そんなもので勝とうが負けようが、自分の価値に変わりはない。
しかし、ジギスムントが口にしたのは、残酷なまでの考え方の違いだった。
「いや。ノアイユ伯爵令嬢より、アネッタの方が美しいと思うが」
その場が凍りついた。マクシミリアンが「おい、ジギスムント、何を……」と慌てて割って入ろうとするが、ジギスムントは止まらない。
自分の婚約者を攻撃されて、紳士的に対応できるほどジギスムントは温厚ではない。フェリシアの完璧に整えられた容姿を冷徹に見据えた大男は、その無骨な口から、容赦のない鋭い棘を放った。
「お前は確かに、見てくれは綺麗だ。だが、俺が求めているのは飾るための花じゃない。雨が降れば領地の数字を弾き、泥を見れば自分で現場に出る。俺は、そういう女が好きなんだ。……俺にとっては、アネッタが一番美しい」
フェリシアの耳には、ジギスムントの言葉の半分以上は入って来なかった。
彼女の頭の中を支配するのは、ジギスムントが放ったたった一言。
アネッタの方が美しい。
それだけだった。
窓の外で激しさを増していく雨の音すら、今の彼女には聞こえない。完璧に作り上げてきた世界を、泥まみれの次男坊に一瞬で粉砕された社交界の女王は、ただただ絶望的な静寂の中で硬直していた。




