アジサイの花束
フェリシア・ド・ノアイユは社交界で最も美しい華、と謳われるノアイユ伯爵家の令嬢である。
ノアイユ家からの書状を確認したベレスフォード伯爵は、首を傾げる。
「間違いなくジギスムントへの縁談の申し込みのようだ」
「なぜ、俺に? 兄上の間違いではないのか? そもそも会ったこともないのだが」
現場主義のジギスムントは社交に疎く、フェリシアの顔も名も知らなかった。
兄マクシミリアンにも婚約者は決まっていない。まして次男の自分に縁談が来る理由など、まるで思い当たらなかった。
「父上の方には何か事前にお話などはなかったのですか?」
と、マクシミリアンが尋ねる。
「いや、まったく無かった。私も戸惑っている。どうしてジギスムントに……」
頭をひねってもまったく心当たりがないのだから、答えが出るはずもない。
とはいえ、一番の当事者であるジギスムントは悩むでもなく答えを出した。
「考えるまでもない。父上、断りの返事を出してください。俺は顔も名前も知らないような人と結婚する気はありませんよ。ましてや、たったいま求婚の許可をいただいたところだ。俺としては一刻も早くラドクリフ子爵令嬢に婚姻の申し入れを行いたいですね」
息子のきっぱりとした口調に頷きつつも、念のためといった様子で伯爵は確認を取る。
「うむ……。ノアイユ伯爵令嬢は大変な美人だが……良いのだな?」
「興味がありません」
そんな次男の態度に苦笑しつつも「わかった、断りの返事を出しておこう」とその意思を尊重する伯爵。
「それで、どうするんだ。早速ラドクリフ子爵を呼び出すか?」
「いや、こちらから申し込むのだし、俺が直接ラドクリフ子爵邸に赴こうと思う」
「そうか、お前ならそう言うと思ったよ。では私は書状を整えておこう。出発は明日の朝で良いな?」
「ええ、お願いします」
いつになく上機嫌な弟に、マクシミリアンは釘を刺す。
「ラドクリフ子爵令嬢に直接求婚するのは良いんだがな。まさかとは思うが、いつもの服で行くつもりじゃないだろうな」
「……そのつもりだが、駄目なのか?」
「駄目に決まっているだろう。泥のついた麻のシャツと革ズボンでプロポーズされる令嬢の気持ちを考えろ! しっかり正装して、花束のひとつでも持っていくんだ。求婚と言うのは、そういうものだ」
とは言ったものの、マクシミリアンも決して経験豊富という訳ではなかった。
ベレスフォード伯爵夫人が王都に社交に出ているタイミングというのも良くなかった。
結局男所帯三人で「せっかくなら、大ぶりの見栄えがする花が良いだろう」「そうだな、小綺麗なバラなどより、あの手毬のようにどっしりと力強い花の方が、ジギスムントの体躯にも似合う」などと、大真面目に話し合って選んだのは、よりにもよってアジサイの花束だったのである。
レイルザード王国には、男の浮気についてこんな教訓めいた話がある。
何代か前の国王が若い頃の浮気を妻に恨まれ、歴代の王が眠る墓に入れてもらえなかったというのだ。
女は一生浮気を忘れない。王の二の舞になりたくなければ身を慎め。
王国の男なら誰もが知る話である。
それなのに男三人がアジサイを選んだのは、ベレスフォード伯爵家痛恨の失敗である。
翌朝、ラドクリフ子爵邸の玄関に現れたのは、見事な刺繍が施された重厚な正装に身を包んだジギスムントであった。
普段の泥にまみれた麻のシャツ姿とは対照的に、磨き上げられた革靴が廊下を鳴らす。
伯爵家ともなれば、普段は滅多に袖を通さずとも、彼に誂えた婚礼用の礼服くらいは用意してある。
その正装に包まれたジギスムントの表情はどこか窮屈そうで、今にも刺繍だらけの布地を弾き飛ばしてしまいそうだった。
その腕に抱えられているのは、瑞々しく咲き誇る、大輪のアジサイの花束である。
「――ジギスムント卿……!? そのようなお姿で、一体何事でございますか」
出迎えたアネッタは、驚きのあまり、いつもの「だんご鼻」を隠すために俯くことすら忘れて、彼を凝視した。
ジギスムントは、緊張で強張った顔のまま、アネッタの正面に立った。
そして、この場所に来るまでに何度も心の中で繰り返した台詞をアネッタに伝える。
「アネッタ殿。……単刀直入に言う。俺の妻になってほしい」
静寂。背後で控えていた父ハインリヒ子爵の持っていたティーカップが受け皿とぶつかる音が響く。
伯爵家からの突然の訪問、そして求婚である。
さすがのアネッタも混乱した。
なぜ、どうして、という疑問が頭の中を巡る。それでもアネッタの口から最初に出て来たのは、なぜでもどうしてでもなく、確認だった。
「……卿。いま、何と仰いました? 貴方は、私のこの顔を……不美人だと笑われるこの鼻を、ご覧になった上でのことですか?」
アネッタの問いに、ジギスムントは淀みなく答えた。
「ああ、見た。それがどうした。俺は、君の能力が好きだ。心底、尊いと思っている」
「え……?」
「世間では顔や性格がきっかけで人を好きになるらしい。ならば、俺が君の能力と君の仕事に惚れたとして、何の問題がある? 俺は現場で土を運び、君は執務室で未来を計算する。そんな関係になれたら良い、と思ったのだ」
その言葉に、アネッタの心は喜びであふれた。
父が自分の仕事を、本当に価値あるものとして見てくれているのか。それはずっと分からなかった。
そんな自分の仕事をたった一度しか会っていない男が認めてくれた。
色気も飾り気もない。けれど、偽りがないことだけは直感的に分かった。
(正面を向けば、鼻の穴が覗いてしまう。だから私は、ずっと下を向いて生きてきた)
だが、目の前の男は、その鼻を笑うどころか、見ようともしていなかった。
ただ、彼女がインクで汚した指先と、積み上げてきた数字の輝きを見つめていた。
アネッタは、その色気も飾り気もない言葉と態度に、自分の歩んできた道がすべて報われたような気がした。
それで、答えは決まったようなものだった。
アネッタは振り返り、背後で立ち上がって呆然としていた父に話しかける。
「お父様、お聞きの通りです。ジギスムント・ド・ベレスフォード様より婚姻のお申し出がございました。私はお受けしたく思いますが、よろしいですか」
問われ、数瞬の精神的空白をさまよったラドクリフ子爵だったが、我に返るとすぐに勢いよく、何度も首を縦に振る。
父のその反応を確かめてアネッタはジギスムントに向き直る。
「……ありがとうございます。お申し出、謹んでお受けいたします。……ジギスムント卿」
アネッタは頬を赤らめ、差し出されたアジサイの花束を大切そうに受け取った。
しかし、その花に視線を落とした瞬間、彼女の実務者としての冷静な知識が、ふと顔を出した。
「……ですが、ジギスムント卿。一つだけ忠告を」
「なんだ? 冠水の懸念か? 予算の不備か?」
身を乗り出すジギスムントに、アネッタは微かに微笑んで首を振った。
「いえ。アジサイは色が変わりやすく、移り気や浮気を連想させます。……あまり、求婚には向かない花でございます」
「なに!? そうなのか。……それはすまなかった。兄上や父上と、一番大きくて見栄えが良い花を、と大真面目に選んだ結果なのだ。俺は王の墓に入れなかった王様の二の舞はごめんだ。次からは気を付ける」
ジギスムントは心底申し訳なさそうに頭を掻いた。その、駆け引きとは無縁な実直さに、アネッタは思わず小さく吹き出した。
「……ふふっ。次の求婚の機会でもおありですか?」
「ん? そうか、言われてみればもう君に求婚を受け入れてもらったのだから、次の求婚の機会はないな! だが、次に君に花を贈るときは違う花にするとしよう!」
豪快に笑い飛ばすジギスムント。
その声は明るく、アネッタの心を温めた。
世間がなんと言おうと、この男は自分の能力という実質を愛してくれている。
アネッタは、アジサイの鮮やかな青色を抱きしめた。




