裸足で歩かないための計画表
レイルザード王国では、伯爵家以上の大貴族が領地を所有し、男爵家や子爵家はその土地を借り受けて代官として治めている。
ベレスフォード伯爵家とラドクリフ子爵家も、そうした関係にあった。
ベレスフォード伯爵邸でアネッタと出会ってから数日後、ジギスムントは馬を飛ばし、ベレスフォード伯爵領の端に位置するラドクリフ子爵領へと向かった。
彼は貴族の正装を脱ぎ捨て、着古した麻のシャツに丈夫な革のズボンという、いつもの労働者と変わらぬ格好をしていた。
彼にとって、真実とは執務室の椅子の上にあるものではなく、常に土と汗が混じる現場に転がっているものだったからだ。
「――おい、そこの。この先の水門の補修、順調か?」
ジギスムントは、堤防で土を固めていた中年の男たちに声をかけた。今ベレスフォード領では大規模な治水工事が行われていて、ラドクリフ領も例外ではない。
土嚢は一分の隙もなく、まるで城壁の石組みのように整然と並んでいた。
泥にまみれた現場には、アネッタの図面通りの秩序が保たれている。
自然な動作で、重い土嚢を一つ肩に担ぎ上げる。
「おう、兄ちゃん。見慣れない顔だが、いい体格してるな。……ああ、おかげさまで順調だよ。代官様のご令嬢――いや、実質的な代官様のアネッタ様が自ら図面を持ってきてくれたからな」
ジギスムントは土嚢を下ろし、額の汗を拭いながらさりげなく問いかけた。
「アネッタ様か。子爵家の令嬢だろう? 現場に女が来るのを、お前さんたちは嫌がらないのか」
その問いに、男たちは顔を見合わせて笑った。
「まさか。あの方はそんじょそこらの令嬢様とは違う、俺たちのことを本当に考えてくれる、滅多にいないお貴族様さ」
一人の老工が、大切に使っているシャベルを立てて答える。
「あの方の話はな、納得ができねえことはあっても、何を言っているのか分からねえということが一度もねえんだ」
その言葉は、先日ジギスムントが執務室で感じた衝撃と、寸分違わず重なっていた。
「納得できない、というのは?」
「そりゃあ、税を上げられたり、この時期にこの工事をやるって言われりゃあ、最初は勘弁してくれって思うさ。だが、あの方は俯きながらも、俺たちの目を――いや、手元の泥を見て話してくれるんだ」
その言葉に、ジギスムントは胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼女がうつむいていたのは、弱気だからではない。自分と同じように、地に足をつけ、民の暮らしという泥を見つめていたのだ。
「『この税金は、三年後に土嚢を積まなくて済むための、水門の油代です』ってな。そう説明されりゃあ、腹は立っても『分かった、やってやろうじゃねえか』って気になるやつも出てくる。やっぱり納得できないってやつも、他の奴らが同意してるなら仕方ないって我を抑える。それに嘘をつかずに、できないことはできないと理由を話してくれる。あんな誠実な方は他にはいねえよ」
別の男が話に加わってくる。
「去年の冬、隣の村が冷害で全滅しかけた時もな。アネッタ様は貯えの一部を、独断で麦に替えて配ってくれたんだ。後で子爵様に怒られたそうだが、あの方は、来年土嚢を積む手が残ることが最優先ですと言い切ったらしい」
「そのアネッタ様だが、結婚の話があるらしいな?」
ジギスムントはそんな話を振ってみる。
明るく話していた者たちの表情が一様に曇る。
「うん、まあ貴族様のご令嬢じゃあなあ。結婚は家の方針には逆らえないだろうし、どこかの家に嫁に行ってしまうんだろうな。……アネッタ様の代わりにどんな人が実務を仕切るのかは運次第だが、アネッタ様と比べられちゃあ誰が来ても気の毒だな」
「そうか、アネッタ様がずっといてくれたらいいな」
本当にな、と笑いあいながらジギスムントは土嚢を運んだ。
ジギスムントは、領地の至る所で同じような話を聞いた。
彼女が現場で裾を泥に染めて指示を出していたこと。
彼女が作った予算計画に助けられたこと。
あの日の「領民が裸足で歩かないための計画表」という言葉が、今になって実感を伴って蘇る。
そして、誰一人として彼女の容姿について口にする者はいなかった。
「……なるほどな。兄上の言う通りだ。だが世の中は節穴だらけだ」
夕暮れ時、領地の境界にある丘の上で、ジギスムントは独りごちた。
社交界の男たちが彼女との見合いを断ったという話を思い出し、ジギスムントは初めて怒りではなく感謝を覚えた。
彼らが彼女の鼻の形などという些末なことにこだわってくれたおかげで、この素晴らしい令嬢は誰の物にもならず、自分と出会うまで残されていたのだ。
彼らが求めたのは、応接間に飾るだけの綺麗な花だったのだろう。だが自分が手に入れたいのは、共に領地を守り、共に歩んでいける器量を持つ相手だ。アネッタは彼らには勿体ない。自分にこそ相応しい。
ジギスムントは愛馬の首を叩くと、一気に伯爵邸へと引き返した。
彼の中にはもう、一切の迷いはなかった。
さて、どうやって父を説得しようかと、それだけを考えながら馬を走らせた。
◇
ベレスフォード伯爵は、次男ジギスムントから告げられた「アネッタ・ド・ラドクリフと結婚したい」という直談判を聞き、手にした葉巻を止めて目を丸くした。
彼はラドクリフ子爵ハインリヒとは若い頃からの旧知の仲で、領地を任せる代官として高く評価していた。
その娘アネッタの名も、宮廷文官すら驚く見事な納税報告書の作成者として知っている。
伯爵は手元の葉巻をくゆらせ、煙の向こうに友人の顔を思い浮かべた。彼が娘の不美人を嘆き、酒の席で「あの子の価値を分かってやれる男が、一人でもいればいいのだが」と、喉を詰まらせていたことも知っている。
まさか、その一人が自分の不器用な息子になるとは思ってもいなかったが。
「……ジギスムント。ラドクリフ子爵令嬢の聡明さは私も認めている。だが、本当に良いのか? 彼女の父であるハインリヒからも、娘の容姿のことで婚姻相手が見つからず苦労していると、酒の席でこぼされたことがあるのだぞ」
伯爵は息子の幸せを願う父親として、念を押すように尋ねた。
美男子とは言えないまでも十分美丈夫である息子が不美人と噂される令嬢を望むことに、何らかの勘違いや一時的な迷いがあるのではないかと危惧したのだ。
ここで、静かに口を開いたのが嫡男マクシミリアンだった。
「父上。ジギスムントの目は節穴ではありません。むしろ、我らよりも深く実質を見ております」
マクシミリアンは、アネッタの報告書が単なる数字の羅列ではなく、領民の生活を守るための武器になりうるものであることを、先日の対話で確信していた。
「彼女の代官としての手腕は、我が領の北部の安定に不可欠です。もし彼女を他家へ嫁がせれば、それはベレスフォード家にとって、長年かけて磨き上げた人材を無償で他所に譲り渡すことと同義。これほどの損失はありません」
「兄上の言う通りです。そして、事態は一刻を争います」
ジギスムントは身を乗り出し、自ら調査して得た情報を叩きつけた。
「ラドクリフ子爵は、親心から彼女を他家の嫡男へ嫁がせようと、必死で見合いを繰り返しています。彼女を他家へ嫁がせれば、あの能力が失われます。俺は、それが惜しい」
ジギスムントはアネッタを世間から掠め取るような野心的な笑みを浮かべた。
「何より俺には彼女が必要です。俺には父上や兄上のような政務の才能はないようだ。土嚢を運び、鍬を振る方がはるかに性に合っている。彼女となら、上手く役割分担をしてやっていけそうだ」
伯爵は紫煙を燻らせていた葉巻を灰皿に置くと、深く、満足そうに息を吐いた。
「……ふっ、お前のそんな必死な顔は初めて見たな。跡継ぎとしての利益を説くマクシミリアンと、現場の盾として伴侶を望むジギスムント。二人揃ってそこまで言われては、首を縦に振らざるを得ん。いいだろう、反対する理由はない」
ベレスフォード伯爵は、不器用な次男の成長を喜ぶように笑い、許可を出した。
「やった……!」
ジギスムントが、自身の進むべき未来を掴み、喜びに浸ろうとした――その瞬間だった。
静寂を破るように執務室の重厚な扉がノックされ、執事が一通の華やかな書状を運んできた。
「旦那様。ノアイユ伯爵家より、フェリシア令嬢とジギスムント様の婚約に関する打診の書状が届いております」
フェリシア・ド・ノアイユ。社交界で最も美しい華と謳われる美貌の令嬢の名だった。




