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不美人令嬢は






「――誠に申し訳ございません。アネッタ様のご聡明さは聞き及んでおりますが、我が家の跡継ぎの妻として迎えるには、その、……華に欠けると言わざるを得ません」


 贅沢な絨毯が敷き詰められた応接室。そこに漂うのは、残酷な静寂だった。

 対面に座る子爵家嫡男の視線が、一瞬だけアネッタの顔の中心――正面から見ると鼻の穴が覗いてしまう、上向きのだんご鼻――に向けられ、すぐに不自然に逸らされた。

 アネッタ・ド・ラドクリフは、いつものように深く、静かに俯いた。


(まただ。……これで、六回目)


 彼女の視界に入るのは、膝の上で握りしめた、刺繍一つない実用的なハンカチ。

 そして、自分には全く似合わないと自覚しているドレスに包まれた指先だけだ。


 アネッタは知っている。貴族の令嬢にとって、容姿もまた家の格を飾る大切な要素なのだ。


だから、自分の上向きのだんご鼻がどうしようもないことも分かっている。

 シミやソバカスであれば化粧で誤魔化せても、アネッタの上向きのだんご鼻はどうしようもない。正面を向けば、どうしても鼻の穴が覗いてしまうのだ。

 それが自分というものであるならば仕方がないと、アネッタは王宮の文官として多忙を極める父に代わり、ラドクリフ領の帳簿を管理し、治水計画を練り、しっかりと税を納める。

 それが彼女の生きる術であり、彼女が自身に課した価値の示し方だった。

 それでも、アネッタの父は何度断られてもどこからか見合い相手を見つけてはくる。しかし相手にとっては、王宮で働く父との義理を果たすためのものなのだろう。

 有能な女性より、夫を立ててくれる美しい女性を望む男の方が、貴族社会には多い。

 これまで五回、この日を合わせて六回の見合いは全て不調に終わっている。


「……お忙しい中、お時間を割いていただきありがとうございました。父へは、私の方から伝えておきますわ」


 アネッタは、顔を上げずに、淀みない動作で席を立った。その所作には、社交界の優雅さはないが、長年の実務で培われた無駄のない機能美が宿っていた。




 帰りの馬車の中、隣に座る父ハインリヒは、娘の横顔を痛ましげに見つめていた。娘の表情だけで結果を察してしまう。


「……アネッタ。また、だめだったか」




「はい、お父様。仕方ありませんわ、この顔では」


 ハインリヒは何か言いかけて、結局、娘の肩を抱いた。




「……すまなかったな」




「いいえ。お父様のせいではありませんもの」


 アネッタは、父の胸に顔を埋めた。

 王宮での信頼も篤い、立派な父だった。心から尊敬している。

 けれど、お見合いはもう嫌だ、と心から思った。

 それに、今日の見合い相手は嫡男だった。

 嫡男との婚姻となれば、当然嫁入りとなるだろう。

 そうなれば、今自分が見ている領地はどうなるのだ。恐らく、代官を立てるという形になるのだろうが、それで父は良しとするのか。

 アネッタは自分のやってきたことに価値を感じている。でも、父は本当にそれを価値あるものとして扱っているのだろうか。





 深夜の執務室で、アネッタは一人、帳簿の数字と格闘していた。 窓に映る自分の顔を視界に入れないよう、手元の書類に集中する。


(私の顔は、家の「飾り」にはなれないけれど)


 


彼女はインクで汚れた指先で、治水計画の図面をなぞった。


この手なら、領民の暮らしを守れる。

 そんな決意が、彼女の細い背中を支えていた。





 数日後。アネッタはいつものように、実用的でシンプルなドレスに身を包み、分厚い書類鞄を抱えていた。

 今日は、ラドクリフ家が領地を預かっている本家――ベレスフォード伯爵家への、定例の納税報告の日だ。


「アネッタ、今日はベレスフォード家の次男、ジギスムント殿が対応されるそうだ。彼は少々……変わった御方だと聞く。失礼のないようにな」

「分かっておりますわ、お父様」


 アネッタは馬車に乗り込み、手元の帳簿を広げる。


(伯爵家の次男様……。初めて会う方だけど、私の鼻を見れば、また眉をひそめるのでしょうね)


 彼女は再び、深く俯いた。

 その変わった御方が、彼女の数字の中に隠された価値を見抜く最初の人物になるとは、この時のアネッタはまだ知る由もなかった。




 ◇




 レイルザード王国の北部に位置する、ベレスフォード伯爵領。その治水工事の現場には、貴族の領地とは思えぬ土の匂いと、荒々しい掛け声が満ちていた。


「ほら、次だ! 手を休めるな、日が暮れる前にこの土手を作り直すぞ!」


 泥にまみれ、上半身のシャツをはだけさせて土嚢を担ぎ上げている大男がいた。

 ジギスムント・ド・ベレスフォード。この地を治める伯爵家の次男でありながら、彼は社交界のサロンよりも、この吹きすさぶ風と重い土の感触を愛していた。

 彼にとって、土嚢は裏切らない。正しく積めば水は止まり、手を抜けば決壊する。

 ジギスムントは、着飾った言葉よりも目に見える成果にこそ真実が宿ると信じていた。


「若旦那! あんたがいてくれると助かるよ、作業員三人分だ!」

「よせ、俺はただ身体を動かしたいだけだ」


 豪快に笑うジギスムントの瞳には、活き活きとした熱がこもっている。

 普通の貴族であれば絶対にしないようなその作業を、ジギスムントは愛してすらいたのである。


「――相変わらずだな、ジギスムント」


 現場の喧騒を割って届いたのは、よく通る、気品に満ちた声だった。

 振り返れば、そこには一点の汚れもない乗馬服に身を包んだ兄、マクシミリアンが立っていた。伯爵家の次期当主として、領地経営から政務までを完璧にこなす、非の打ち所がない理想的な貴族だ。


「兄上。……こんな泥臭い場所、あんたの服には似合わないだろうに」

「服の汚れなど、後で洗えば済むことだ。それより父上が呼んでいるぞ。お前の将来のことだ」


 現場を離れ、二人は川沿いを歩く。マクシミリアンは、弟の逞しくも傷だらけの腕を眺め、静かに切り出した。


「お前は次男だ。経営は私が引き継ぐが、お前にも身を立てる道が必要だ。父上は、お前を王宮の近衛騎士団へ推挙しようと考えておられる。お前の体躯と武勇なら、すぐに頭角を現すだろう」

「騎士、か……」


 ジギスムントは、自分の泥が染み付いた手を見つめ、複雑な表情を浮かべた。

 剣を振るうこと自体に嫌悪はない。だが、王宮の騎士ともなれば、求められるのは戦う力だけではない。

 燦然と輝く装飾過多な鎧、儀式での一糸乱れぬ立ち振る舞い。そして、中身のない美辞麗句。

 

そんなものを身にまとって社交界の飾りになるのは、ジギスムントには耐えられなかった。

 そういう役割が必要な場面があることは理解できるのだが、やはり自分がその役割を担いたい、とはまったく思えなかった。

 

「騎士が嫌なわけじゃない。だが、磨き上げられた鎧でサロンの置物になるのは御免だ。俺は、誰かを守るための盾になりたいのであって、誰かに見せびらかすための飾りになりたいわけじゃないんだ」


 その言葉に、マクシミリアンはふっと目を細めた。

 弟のジギスムントが、自分自身の不器用な矜持を必死に守ろうとしているのだと理解したからだ。


「……お前の偏屈さは理解した。だが、お前が自ら泥にまみれてくれるおかげで、民の間での我が家の評判はすこぶる良い。私自身、お前に感化されて現場を見るようになってから、机上の仕事に血が通うようになったと実感している。お前はベレスフォードに不可欠な男だ。だからこそ、ただ平民に交じって働き続けて良い、と家から放り出すわけにもいかないのだ」


 兄の言葉に、ジギスムントは意外そうに目を丸くした。完璧な跡継ぎである兄が、まさか自分のような不器用な生き方をそこまで高く評価してくれているとは思わなかったのだ。


「ならば、まずは一つ、私を手伝ってみろ。騎士になるにせよ、領地に残るにせよ、実務を知らぬ者はただの野蛮人だ」


 マクシミリアンは懐から一通の書類を取り出した。


「今日はラドクリフ子爵家の娘が、例年の納税報告に来る。ここの家系は極めて実直で、その報告書は宮廷の文官すら舌を巻くほど完璧だ。父上の代理として、お前が対応してこい。お前が良く言う、実質のある仕事のひとつだと私は思うぞ」

「報告書の受け取りか。……分かったよ。座って話を聞くだけなら、泥を運ぶよりは楽だろう。俺に内容が理解できるかどうかは保証しないが。どうせ、自分の家の格を誇るような、中身のない美辞麗句で飾られた報告書なんだろう?」


 ジギスムントは、まだ見ぬ令嬢が己を着飾るための言葉をどれほど用意してくるのかと、内心で冷めた溜息をついた。




 ◇




 ベレスフォード伯爵邸の、重厚な革と古い紙の匂いが満ちる執務室。

 アネッタ・ド・ラドクリフは、いつものように深く頭を垂れ、自身のだんご鼻を隠すようにうつむきながら、机の上に一束の書類を置いた。


「お預かりしておりますラドクリフ領の本年度の納税報告に参りました。……お目通しを、お願いいたします」


 その声は、社交界の令嬢のような華やかさはないが、清流のように淀みなく、不思議と耳に残る響きを持っていた。

 机の向こう側に座るジギスムントは、洗っても落ちない爪の間に入り込んだ泥の汚れが残る指先で、無造作にその書類をめくった。

 兄マクシミリアンからは「実直な報告書」だと聞かされていたが、実際に目に飛び込んできたのは、期待を遥かに超えるものだった。

 無意味な装飾文字も、媚びるような時候の挨拶もない。ただ、領地の呼吸をそのまま数字に換えたような、圧倒的な密度の記録。

 それはジギスムントにとって心地よい質感を伴っていた。


「……おい。この『水利組合への特別補填金』という項目は何だ」


 ジギスムントは、現場主義者らしい険しい顔で、一つの数字を指差した。


「今年は堤防を高くしたばかりだろう。その金があれば、現場にあと十人は作業員を増やせる。今、目の前の泥を運ぶ手が増える方が、よほど領民のためになるはずだ」


 それは、現場を知る者ゆえの、正当な疑問だった。

 アネッタは一瞬だけ、書類を凝視したまま肩を震わせた。それは恐怖からではなく、自身のこだわった数字の意図を、正確に指摘してきた目の前の人物に対する、弾むような高揚感からだった。

 これがお見合い相手の席で聞かれたことなら、ここで「たしかにおっしゃる通りですね」と微笑んで思考を放棄するか、あるいは専門用語を並べて煙に巻いたかもしれない。

 だが、目の前の男は違った。その泥のついた指先を見た瞬間、彼女は彼が自分と同じように、泥臭い現場を愛している人間なのだと悟ったのだ。


「……ジギスムント様。それは『折れないための油』です」


 アネッタは顔を上げず、しかし先ほどよりも力強い声で答えた。


「油……?」

「はい。堤防を高くしても、水門の継ぎ目が錆びていれば意味がありません。この金は、今すぐ堤防を高くするための土嚢代ではなく、三年後に土嚢を積まなくて済むように、毎日水門に差す一滴の油の代金なのです。今、油を惜しめば、将来、水門ごと買い換えるために領民のパンを三つ奪わねばならなくなります」


 ジギスムントは、雷に打たれたように硬直した。

 アネッタの言葉は、複雑な経済用語ではなく、彼が現場で毎日触れている道具の理屈に翻訳されていた。


「……減価償却、という言葉がございます。それは、結局のところ『靴の底のすり減り』と同じこと。毎日歩けば靴の底は減ります。すり減ってから新しい靴を買いに走るのではなく、毎日少しずつ銅貨を貯めておけば、将来、領民が石道を裸足で歩かずに済みます。この報告書は、彼らが将来、裸足で歩かないための計画表なのです」


 ジギスムントは、思わず笑みを漏らした。

 現場の人間として、今すぐ人を増やしたい自分とは意見が対立する。

 だが、これほど見事に言い返されたのは初めてだった。心地よい敗北感と、恐ろしいほどの説得力が、彼の胸を弾ませる。


「なるほど、靴の底か。それなら、馬鹿な俺にもよくわかる。アネッタ・ド・ラドクリフ子爵令嬢。次だ。この『備蓄穀物の鮮度入れ替え費用』についても、俺がわかる言葉で教えてくれ」


 アネッタは、驚いたようにほんの少しだけ顔を上げた。

 目の前の高位貴族の次男は、自分の鼻を笑うどころか、その奥にある数字の正体を、もっと見せろと促している。

 マクシミリアンは書類のすべてを理解していた。

けれどジギスムントは、理解できないからこそ尋ねた。


「数字の意味を教えろ」と。

 アネッタは思わずいつものうつむく癖を忘れるほどに、ジギスムントの質問に答えてゆくのだった。




 アネッタが丁寧な一礼を残して退出した後、執務室には微かな紙の匂いと、心地よい静寂が残った。

 それまで壁際で二人のやり取りを見守っていたマクシミリアンが、信じられないものを見たという顔で、弟の前の机に歩み寄った。


「……驚いたな、ジギスムント。あれほど政務の勉強を嫌がっていたお前が、随分と熱心だったじゃないか」


 ジギスムントは、アネッタが座っていた空の椅子をじっと見つめたまま、ぶっきらぼうに答えた。


「ああ。……『三年後のために差す一滴の油』だろう? 現場で道具を扱っていれば、誰にでもわかる理屈だ。今まで俺に政務を教えようとした連中の言葉は、正直何を言っているのかよく分からんことが多かったのに、彼女の言葉には……土の匂いと、重みがあった」


 マクシミリアンは感嘆の溜息を吐いた。

 ラドクリフ家の一分の狂いもない報告書にはこれまでも何かと感心させられてきたが、それが現場主義の弟にすら響くとは予想外だった。

 報告書の奥にある誠実さを正確に捉えたのだろう。そして、本当に自らの手で作っていたからこそ、どんな問いかけに対しても即座にかみ砕いて答えることができたのだ。


「兄上。……あのアネッタ殿というのは、どういう令嬢なんだ?」


 ジギスムントが、いつになく真剣な眼差しを兄に向けた。


「ラドクリフ子爵令嬢か? 子爵は王宮に出仕している文官で、数年前に奥方が亡くなった後は彼女がラドクリフ領の政務を担当していたはずだ」

「ではやはりこの書類は自ら作っているのか」

「だろうな。でなければあれだけ詳細な説明はできまい。子爵の政務能力を引き継いでいるのかもしれないな、間違いなく優秀と言ってよいだろう」

「そうか、そうだろうな」


 ジギスムントが頷きつつ続ける。


「あんなに聡明で、領地の隅々まで自分の足と頭で把握している女性は、そういないはずだ。書類の端々に、誰かの生活を守ろうとする覚悟が滲んでいた」


 彼は少しだけ言い淀み、しかし抑えきれない興味を隠さずに続けた。


「……あれほどの女性だ。まだ独身なようだが、すでにどこかの家と婚約しているのだろう? 彼女のような素晴らしい女性だ。どんな家でも欲しがるだろう」


 マクシミリアンは衝撃を受けた。

 弟がこのように女性に興味を示したのは初めてのことだったからだ。

 マクシミリアンは苦笑混じりに、弟の予想を裏切る事実を告げた。


「いや……彼女にはまだ婚約者はいないはずだ。子爵も随分と苦労して見合いの場を設けているようだが、芳しい話は聞かないな」

「本当か!?」


 ジギスムントが、巨大な体躯を乗り出すほどの勢いで声を上げた。椅子が床を鳴らし、机の上の書類がわずかに踊る。マクシミリアンが思わず肩をびくつかせるほどの勢いだ。


「なぜだ? 何か事情があって婚約者を作っていない、という訳ではないのか?」

「……ジギスムント。お前、気づかなかったのか?」


 マクシミリアンは弟の顔を覗き込み、戸惑いながら尋ねた。


「彼女の容姿だ。……アネッタ嬢は、その、だんご鼻で鼻の穴が見えてしまうことを酷く気にしていて、常に俯いていただろう」


 言葉を選びながら、弟に伝えるが、ジギスムントは兄が何を言っているのか理解できない、という表情を見せる。


「鼻? ……ああ、そう言えば上を向いていたか? それが、どうかしたのか?」


 弟が、本気で理解していないのがマクシミリアンにはよくわかった。

 腹をくくって、弟にも伝える。


「つまり、彼女は不美人だ。少なくとも、世間の男たちが妻に求めるような美しさではない」


 ジギスムントは本気で兄が何を言っているのかわからない、といった表情だ。


「そんなことが、彼女の価値を損なう理由になるのか? 少なくとも俺には、彼女のあの淀みない説明は、よほど気高く美しく聞こえたが」


 弟がこれほど一人の女性に心を傾けるなど、ほんの数時間前には考えもしなかった。あまりにもわかりやすい弟の態度に内心の驚きを隠せない。

 しかし、これは悪い兆候ではないだろうと思う。


「それほどラドクリフ子爵令嬢のことが気に入ったのなら、もう一度会ってみるか? お前が希望するのなら場を設定してやるが」


 兄の言葉に少し考え込んだジギスムントだったが、いや、と首を横に振った。


「それは、まだいい。まずは俺自身が彼女のことをもっとよく知りたい。とりあえず自分で動いてみることにするよ」

「そうか。確かにその方がお前らしいかもしれないな。心を決めたら言うと良い。父上への説明を手伝ってやるよ」


 肩を叩きながらの頼もしいマクシミリアンの態度に、ジギスムントも笑って頼むよ、と返すのだった。







全8話完結予定。完結まで予約投稿済みです。

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