街道と国境
「ふぅ……」
最後の締めで木椀に残った汁を飲み干した信繁は、小さく息を吐いてから、下座に控えていた女に微笑みかけた。
「馳走になった、奥方殿。とても美味う御座ったぞ」
「ありがとうございます。お口に合ったのなら何よりでございます」
信繁の言葉に、虎綱の妻・波留は顔を綻ばせながら、手を床について深々と頭を下げる。
そんな彼女に小さく頷きかけた信繁は、虎綱にチラリと目配せした。
「……はっ」
彼の目配せに頷き返した虎綱は、「では……片付けてくれ」と、短く小者達に命じた。
その声に応じて即座に立ち上がった小者達は、信繁たちの前の膳や空になった片口を持って襖を開け、一礼してから部屋を出ていく。
一番最後に部屋を出た波留が、廊下で指をついて一礼してから、静かに襖を閉めた。
彼女たちが部屋を出るのを待ってから立ち上がった昌澄が、信繁たちの前に大きな紙を広げる。
その紙は、奥信濃の街道と城の配置を記した地図だった。
――それまで和やかだった空気が、軍議のそれへと一変し、信繁はもちろん、昌幸や虎綱の表情も緊張を帯びる。
「さて……」
そう呟きながら少しだけ身を乗り出した信繁は、床に広げられた地図に目を落とした。
「現在の奥信濃は……どんな感じだ、源助?」
「はっ」
信繁の問いかけに応じた虎綱は、地図の側までにじり寄り、腰に挟んでいた扇子を抜く。
そして、地図の真ん中あたりを縦に走る一本の線を、手にした扇子の先で指した。
「この道が北国街道です。北に進めば越後に入り、上杉の本城である春日山城へと到ります」
「うむ」
「現在、当家の勢力の北限は――」
そう続けながら、虎綱は扇子を地図に記された線に沿って動かし、ある一点で止める。
「こちら……割ヶ岳城 (現在の長野県上水内郡信濃町)となっております」
「確か……豪族の柴津衆が拠る城でしたね」
信繁たちと同じように身を乗り出して地図に見入る昌幸が、顎に手を当てながら言った。
彼の声に小さく頷いた虎綱は、『割ヶ岳』と書かれた文字の少し左上に描かれた、どことなく蓮の葉に似た形の湖を指し示す。
「残念ながら、野尻湖 (現在の長野県上水内郡信濃町)周辺は未だに越後勢の掌中に御座います」
「一度はこちらが野尻城を落としたものの、一昨年に奪い返されてしまったのだったな……」
信繁は、虎綱の言葉に顔を曇らせた。
そんな彼の声に頷きながら、虎綱は言葉を継ぐ。
「その後、上杉勢は野尻湖の北岸に新たな城を築いて、更に守りを固めております。残念ながら、私が今お預かりしている兵だけで、再びあの地を取り返すのは至難の業です」
「まあ、致し方あるまい。野尻は、武田にとっても上杉にとっても重要な地だからな。上杉が二度と取り返されぬようにと本気で守りを固めるのも当然の事であろう」
悔しそうに言う虎綱を宥めるように、信繁が言った。
「何せ、あの地を押さえれば、越後はもう目と鼻の先だ」
「逆の――上杉側からすれば、あの地を喪えば、もはや我らの越後侵入を防ぐ術はありませぬからな」
信繁に続いて口を開いた昌幸は、地図に記された『野尻』という文字の上の不自然なほどの空白を指さす。
「野尻城より北には、もう土橋城と赤川城くらいしかありませぬ。この二つの城も、城というよりは砦といった方が近い小規模なもので、大軍を置く事などとてもできません」
「ふむ……」
昌幸の言葉に同意した信繁は、顎髭を指で擦りながら考え込む……が、すぐに我に返った様子で目を上げ、苦笑いを浮かべた。
「っと……いかんいかん。つい、越後まで進軍するにはどうすべきかと考えてしまっておった。……此度は戦ではなく和睦の交渉をする為に越後へと向かうのだったな」
そう独り言ちるように言った信繁は、気を取り直すように咳払いをしてから、虎綱の顔を見る。
「……それで、源助。今時分の街道の塩梅はどんな感じだ? 冬の間に積もった雪は、まだ溶けておらぬものか?」
「越後へ商いに行く行商人の話から聞いたところによりますと、まだ雪は若干残っているように御座います」
信繁の問いかけに、虎綱はすらすらと答えた。
「ですが、だいぶ嵩は減っておるとの事ですので、もう通行には差し支えないかと」
「そうか」
「ただし、雪解けの水で土が緩んでいる場所もあるとの事ですので、特に谷間では急な雪崩に留意すべきかと」
「確かに……その通りだな」
虎綱の答えに、信繁は頷く。
と、今度は昌幸が口を開いた。
「香坂様、上杉方の動きはどうでしょうか? 特に、野尻城に詰めているという……」
「宇佐美駿河守か」
昌幸の問いかけに、虎綱は上杉家随一の智将の名を挙げる。
宇佐美駿河守定満は、一昨年――永禄七年に起こった第五次川中島合戦の後も越後に戻らず、そのまま攻め落とした野尻城の守将を務めていた。
彼の名は、敵国である甲斐にも高く轟いている。
聞くところによると、永禄四年 (西暦1561年)に起こった八幡原の大激戦の際、武田家の軍師である山本勘助が立案した策を見破った上杉政虎 (後の輝虎)に命じられて、逆に武田本隊に奇襲をかける策を献策したのが、他ならぬ宇佐美定満だったという。
――あの戦の際に瀕死の重傷を負い、二年もの長い間眠り続けていた信繁にとって因縁浅からぬ男のひとりである。
「……」
当時の事を思い返しながら、信繁は無言で盲いた右目を眼帯の上から押さえるのだった……。




