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宴席と酒

 上杉家の当主である上杉輝虎に会って甲越和与の話を詰める為、二月の下旬に甲斐府中を発った武田信繁一行は、途中で深い雪に度々足止めを食らいながらも越後国春日山城を目指して街道を北に進み、ちょうど一週間で海津城に到着した。

 海津城の大手門で城主である香坂虎綱に迎えられた信繁たちは、予め用意されていた蒸し風呂で旅の垢を落としてから、本丸御殿に設けられたささやかな宴の席に招かれたのだった。




 「……お気に召さなかったのでしょうか?」


 空になった信繁の盃に酒を注ぎながら、虎綱は少し気がかりそうに言う。

 彼の目の先には、盃の酒以外を綺麗に平らげられた皿が載った膳と、空席となった円座(わろうだ)がぽつんと置いてあった。

 その席につい先ほどまで座っていたのは、前の征夷大将軍・足利義輝の弟である足利覚慶が遣わした使者である明智十兵衛光秀である。


「酒に口をつけず、ただ飯と肴だけを食べて御退出なされましたが……」

「あぁ、いやいや」


 端正な顔を曇らせる虎綱に苦笑しながら、信繁が首を左右に振った。


「別に、気に入らなかった訳ではないと思うぞ。どうやら十兵衛殿は下戸のようだからな」

「あぁ、そうだったのですね」


 信繁の言葉を聞いた虎綱はホッとした様子で表情を緩めたが、それから小さく肩を落とす。


「しかし……そうであるなら、事前に好き嫌いがあるかどうかお伺いしておくべきでしたな。さすれば、最初から酒ではなく、茶なり白湯なりをご用意しましたものを……」

「そうだな。そこまで気が回らなかった。すまぬな、源助」

「あ、いえ……」


 虎綱は、詫び言を言う信繁に慌てて(かぶり)を振った。


「今のは決して、典厩様に申し上げたのではなく……」

「拙者にで御座いますな、香坂様」


 虎綱の言葉尻を捉えるように神妙な顔で声を上げたのは、下座の席に座っていた武藤昌幸である。

 彼は、両手を床につくと、深々と頭を下げた。


「この喜兵衛めの落ち度で御座います。誠に申し訳ございませぬ」

「いや、喜兵衛にでもない。……いや、確かに少しはお主のせいもあるかな?」


 そう、苦笑しつつ冗談交じりに言った虎綱は、再び空の円座に目を向ける。


「……まあ、酒を嗜めぬのなら、明智殿ご自身が宴の前にでも言うてくれれば……」

「それがですね……」


 小さく溜息を吐く虎綱に、少し困ったような顔をしながら昌幸が言った。


「どうやら、明智殿はご自身が下戸である事をあまり広く知られたくないようなのです」


 先ほど光秀が出ていった襖に注意深く目を配りながら、昌幸は潜めた声で続ける。


「やはり、他者との交渉をするにあたって、最も円滑に話を進められるのは酒席の場ですからね……。それなのに、公方の弟君から使者の大任を仰せつかった自分が、酒が飲めない事でその利を得られぬどころか、交渉相手からしばしば侮られる事すらあるのを負い目に感じておられるようで……」

「成程な……」


 昌幸の言葉を聞いた虎綱は、納得したといった顔で頷いた。


「確かに、互いに酒を酌み交わす事で相手の態度が軟化するのは良くある事だしな。私も、奥信濃の豪族たちを懐柔する際に何度も使った手だ」

「拙者の親父殿も、同じ事を申しておりました」


 虎綱の話に苦笑いを浮かべた昌幸が、「……まあ」と続ける。


「あの蟒蛇(うわばみ)殿の事です。大方、酒を飲む都合のいい言い訳でそんな事を言うておるだけでしょうが」

「ははは、あの真田弾正 (幸綱)なら、そうかもしれぬな」


 おどけ顔の昌幸の冗談に、信繁は愉快そうな笑い声を上げた。

 と、


「喜兵衛殿、酒をお注ぎいたしましょう」


 それまで下座に控えていたまだ幼さを残した顔つきの若い男が、昌幸の盃が空になっているのを見て、慌てて片口を手にする。


「気付くのが遅れて申し訳ございません。ささ、どうぞ」

「あぁ、これは忝い」


 促されるままに盃を持った昌幸は、慣れぬ手つきで酒を注ぐ若者の顔を見ながら、しみじみと言った。


「しばらく見ぬうちに、随分大きくなったな、武千代」

「ありがとうございます、喜兵衛殿。おかげさまで、先年に元服を迎えまして、今は源五郎昌澄を名乗っております」


 昌幸に声をかけられた若者――虎綱の嫡男である香坂源五郎昌澄は、嬉しそうな表情を浮かべながら答える。

 それを聞いた昌幸は、思わず目を丸くした。


「源五郎……? それは、拙者の幼名と同じ……」

「察しの通りだ、源五郎」


 昌幸の言葉に父親譲りの端正な顔を綻ばせる嫡男を見ながら、虎綱も笑顔を湛える。


(せがれ)は、同じ年頃の中でも一際働きが著しいお主に少しでもあやかろうと、己の通称としてお主の幼名を頂いたのだ」

「なんと……」


 虎綱の言葉を聞いた昌幸は、大いに照れながら頭を掻いた。


「いや、それは些か拙者を買い被り過ぎでは……」

「そんな事は御座いません!」


 謙遜する昌幸に、昌澄がきっぱりと(かぶり)を振る。


「一昨年の川中島での戦いで、見事雨宮の渡しを守り切った御采配。更に、昨年の東美濃攻めでの御活躍も聞き及んでおります。非才なるそれがしでは到底喜兵衛殿には及びますまいが、少しでも近づけたらと……」

「そ、そうか……それは実に光栄な事だが……その、面と向かって言われると、だいぶ面映ゆいというか……」

「はっはっはっ!」


 キラキラと目を輝かせた昌澄に熱を帯びた口調で褒め称えられて、顔全体を真っ赤にしながら目を瞬かせる昌幸を見て、信繁は思わず噴き出した。


「お主にしては珍しい反応だな、昌幸」

「そうお笑い下さいますな、典厩様……」


 弱り顔で、昌幸は信繁に言う。


「何というか……年上の方から言われるより、年下の者から言われる方が、その……慣れぬというか、こそばゆいというか……」

「ふふふ……」


 昌幸の言葉に、信繁はニヤリと笑って言い返した。


「いつもお主に持ち上げられておる儂の気持ちが少しでも分かったようで何よりだ」

 香坂 (高坂)昌澄は、香坂虎綱の長男として、天文20年(西暦1551年)に生まれました。

 元服後は、父と共に海津城を守り、天正3年 (西暦1575年)の長篠の戦いでは父の代理として参陣しています。

 彼は、本隊とは離れた有海村に陣を布いていましたが、鳶ヶ巣山砦と奇襲で陥落させた徳川方の酒井忠次隊に襲われ、奮戦したものの衆寡敵せず討ち死にを遂げたと伝わっています。


 本編にもある通り、彼の通称は奇しくも武藤 (真田)昌幸と同じく“源五郎”でした。その由来が「昌幸にあやかった」というのは本作の創作なので悪しからず。

 まあ、昌幸自身、自分の次男の実名に敬愛する武田信繁の実名を付けていた (信繁死後なので当然本人には無許可)ので、人の事言えないですけど……(笑)。

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― 新着の感想 ―
あ〜…下戸が営業職をやってるようなものか。そりゃキツいわなぁ。 よく解るぞ、私も下戸なので。
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