⸻ 目覚め
朝。
綾は、息を少し乱して目を覚ました。
悪夢のはずだった。
だって、苦しい記憶だ。
恥ずかしい。
情けない。
消えたいと思った夜。
なのに。
いつも最後に残るのは、あの言葉だった。
「大丈夫です。今はまだ、選んだ自覚がなく、」
「うまく笑えなくても、伝わらなくても、」
「選んだ結果が、あなたを強くします、幸せにしますよ、きっと」
綾は、しばらく天井を見つめていた。
胸の奥が、じんわり熱い。
何度も見てきた夢。
何度も苦しくなった夢。
でも、今朝だけは少し違った。
あの声。
あの言葉。
あの人の困った顔。
ふと。
顔が重なる。
優しい声。
少し困った時の笑い方。
押しつけないのに、ちゃんと見ている感じ。
綾は無意識に呟く。
「……きーくん?」
その瞬間。
ただの昔の記憶だったはずのものが、
急に“今”に繋がった気がした。
顔は、はっきり覚えていない。
名前も知らなかった。
でも。
心が、先に分かってしまった。
もしかしたら。
あの人は。
ずっと前から、自分を支えていた人だったのかもしれない、と。
⸻
⸻ 8年前の世古側の夜
夜。
少し湿った空気。
古い店の前の、あの小さな喫煙所。
世古は、煙草を吸う訳でもなく、ただ空を見上げていた。
喫煙所が好きだった…昔、仲間たちと煙草を吸いながら笑い合っていた記憶がよぎりるから…一瞬だけ、世界が静かになる。
その静けさが、好きだった。
――今日も、最悪だった。
理不尽。
責任の押し付け。
意味のない会議。
やってることは、間違ってないはずなのに。
評価はされない。
むしろ削られる。
「……くだらねえ」
言葉だけは、昔のまま、ため息を空に逃す。
それでも心の奥に、重たいものが残る。
それが何かは分かっている。
疲れだ。
人に見せない疲れ。
崩れないための疲れ。
そのまま、店に入る。
レジに並ぶ。
前には、あの子。
笑わない。
でも、雑じゃない。
むしろ。
やたら丁寧だ。
(……練習してるな)
すぐ分かる。
努力は、隠しても分かる。
だから。
なんとなく、見ていた。
でも。
声がした。
クレーム。
(……関係ねえだろ、それ)
一歩、前に出るかどうか。
一瞬だけ迷う。
でも。
その子の手は、止まってない。
ちゃんと、やってる。
あれだけやってて。
あの言い方は、違う。
世古は、小さく息を吐いた。
(……あー、めんどくせえ)
でも。
足は、動いた。
「少しいいですか」
言葉は、丁寧に。
感情は、出さない。
でも。
逃がさない。
言い終わったあと。
世古は、少しだけ疲れた顔をした。
(……余計なことしたな)
でも。
後悔はなかった。
ただ。
あの子の顔が、少しだけ崩れたのを見て。
(……あー)
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
喫煙所。
空を見上げる。
そこに、足音。
振り向く。
あの子。
「さっきは……ありがとうございました」
世古は、少しだけ驚く。
(……来るのか)
普通、来ない。
でも。
来た。
だから。
謝った。
「申し訳ありません」
巻き込んだかもしれないから。
でも。
あの子は、泣いた。
その瞬間。
世古は、本気で困った。
(え、なんで)
でも。
分かった。
――これは、“我慢してたやつだ”
だから。
余計なことは言わない。
ただ。
見えたままを、言う。
確認。
押しつけない。
逃げ道も残す。
それでも。
あの子は、頷いた。
だから。
言った。
「なら、大丈夫」
――これだけは、嘘じゃない。
「今はまだ、選んだ自覚がなく、」
「うまく笑えなくても、伝わらなくても、」
「選んだ結果が、あなたを強くします、幸せにしますよ、きっと」
少しだけ、間を置く。
「選んだ結果が、あなたを強くします、幸せにしますよ、きっと」
「自分で、選んぶこと」
それは。
自分の中で、何度も確かめてきたことだった。
だから。
そのまま、渡した。
あの子の中に、ちゃんと残るように。
⸻
⸻ 8年後、綾が“返す日”
夕方。
ドラッグストアHOPE裏の青いコンテナ
少しだけ静かな時間。
世古は、壁にもたれていた。
綾が、近づいてくる。
「……きーくん」
世古が顔を上げる。
「なんですか?」
綾は、一歩近づく。
「私、覚えてることがあるの」
世古は、黙って聞く。
「8年前」
「レジで、クレーム言われて」
「……助けてもらったの」
沈黙。
「その人がね」
綾は、まっすぐ見て言う。
「今はまだ、選んだ自覚がなく、」
「うまく笑えなくても、伝わらなくても、」
「選んだ結果が、あなたを強くします、幸せにしますよ、きっと」って。
世古の呼吸が、ほんの少し止まる。
「ずっと、支えだった」
「何年も」
「何回も思い出して」
「それで、頑張ってこれたの」
少しだけ、声が震える。
でも、止めない。
「……その人が」
一歩、近づく。
「きーくんだった」
静寂。
世古は、すぐには答えなかった。
少しだけ、視線を外して。
それから。
いつものように、軽く言う。
「…どうでしょうね」
綾が、少しだけ笑う。
「うん、そうだよ」
そして。
小さく言う。
「ありがとう」
世古は、肩をすくめる。
「いえ、私は何も」
「違う」
すぐに、遮る。
でも、柔らかい。
「ちゃんと、もらったから」
一拍。
「だから今、返すね」
世古が、少しだけ目を細める。
綾は、あのときと同じ顔で。
でも、もう泣いていない顔で言う。
「自分で選び続けてきたら」
少し笑う。
「ほんとに、幸せになったよ」
その瞬間。
世古は、何も言えなかった。
ただ。
ほんの少しだけ。
救われた顔をした。




