⸻ 声
「少しいいですか」
その声は、大きくなかった。
でも、はっきりと空気を変えた。
綾が顔を上げる。
そこに立っていたのは、男の客だった。
スーツ姿。
ゼニアの生地の、仕立てのいいスーツ。
時計はロレックス。
靴も鞄も、何もかもが整いすぎているくらい整っている。
年齢は、綾よりずっと上。
大人の男の人、という感じだった。
ただひとつだけ、いうなら、
疲れている。
ちゃんとしているのに、すごく疲れている。
綾は、その人のことを知っていた。
名前は知らない。
仕事も知らない。
でも、よく見ていた。
買い物をして。
会計をして。
そのあと、入口脇の喫煙所で煙草も吸わないのに、空を見上げてから帰る変わった人。
いつも姿勢がよくて、
身嗜みがきちんとしていて、
なのにどこか、疲れた目をしていた。
その人が、今、レジの前に立っている。
「今の話、この子に関係ありますか」
声は、丁寧だった。
穏やかですらあった。
でも、男は少しむっとして言い返す。
「は?」
その人は、視線を逸らさずに続けた。
「バスの乗り方、道の歩き方の話も、“最近の若いの”の話も、この子には関係ないですよね」
綾は、息を止めた。
丁寧。
でも、逃がさない。
「それに」
一拍、間を置く。
「ちゃんと見てます?」
男が黙る。
「この子、かなり丁寧ですよ」
綾の手が、完全に止まる。
「早いし、正確だし、無駄がない」
その人は、綾を見ないまま言う。
まるで、それが当たり前の事実であるみたいに。
「どれだけ練習したか、見てたら分かるでしょ」
その瞬間。
綾の胸の奥で、何かが音を立てて揺れた。
見てたら分かる。
その言葉が、信じられないくらい、まっすぐ入ってくる。
男は言葉に詰まった。
その人はさらに、静かに言った。
「私は、この子、すごいと思います。」
男の顔色が変わる。
「……なんだよ、あんた」
「客です」
「は?」
「ただの客です。でも、ちゃんと見てます」
それだけで、十分だった。
男は舌打ちをして、何かを言いかけたが、結局何も言わずに去っていった。
後ろに並んでいた人も、誰も何も言わなかった。
ただ、静かになった。
綾だけが、動けなかった。
⸻
仕事が終わったあと。
綾は、迷っていた。
帰るべきだ。
分かってる。
でも。
足が、勝手に店の外へ向かっていた。
喫煙所。
今はもうない、あの場所。
小さな灰皿。
少し欠けたコンクリートの縁。
夜の湿った空気。
あの人がいた。
いつものように、空を見上げている。
背筋はやっぱりまっすぐで。
スーツも崩れてなくて。
でも、なんだか少しだけ、疲れて見えた。
綾は、声をかけるまでに時間がかかった。
「……あの」
男が振り向く。
近くで見ると、思っていたより若かった。
でもやっぱり、大人だった。
綾は、少しだけ頭を下げる。
「さっきは……ありがとうございました」
すると、その人は一瞬だけ目を丸くして、すぐに少し困った顔をした。
「すみませんでした」
綾は、意味が分からなかった。
「……え?」
「迷惑でしたよね」
その人は、また空を見上げたまま少し笑った。
「今日仕事でちょっと……いや、かなり嫌なことあって」
視線を少しだけ下げる。
「理不尽といいますか、どうしようもないことがありましてね」
綾は、黙って聞いている。
「その上で、いつも頑張ってらっしゃる店員さんまで理不尽に巻き込まれているのを見て」
ほんの少しだけ照れくさそうに笑ったように見える。
「年甲斐もなく立腹してしまいました」
一拍。
「余計なことした」
その顔は、本当に申し訳なさそうで。
助けた側の顔じゃなくて、
むしろ“巻き込んでしまったかもしれない人”の顔だった。
綾の胸の奥が、また揺れた。
「頑張ってる……?」
⸻ 声 ⸻ 声思わず、口から出る。
「こんな……積極もまともにできないバイトに?」
自分で言って、少しだけ苦しくなる。
でも、その人は本気で不思議そうにした。
「できていないと思ってらっしゃるのですか?」
綾は、言葉を失う。
その人は、首を傾げたまま続けた。
「いや、私には全然そのようには見えませんがね」
「……」
「とても丁寧です」
当たり前みたいに言う。
「少なくとも適当にやってる人の手つきではありません」
綾の胸が、ぎゅっと締まる。
「おそらく…」
その人は、今度は確かに少しだけ笑った。
「たくさん練習されているのかと…思っていました」
その瞬間。
もう駄目だった。
涙が、一気に出た。
こらえる間もなかった。
だって。
分かってくれた人が、いた。
守ってくれた人が、いた。
笑えないことも。
それでもちゃんとやろうとしていたことも。
誰にも見えてないと思ってた努力も。
全部。
この人には、見えていた。
「え、ちょっと」
その人が、明らかに慌てる。
「申し訳ありません、え、なんで。私、変なこと申し上げましたか?」
完璧に整った大人が、ほんとうに困っている。
それが少しだけ可笑しくて。
綾は、泣きながら少し笑った。
「……っ、ふふ」
でも、涙は止まらなかった。
⸻
少し落ち着いたあと。
その人は、さっきよりずっと静かな声で言った。
「……懸命にやられる理由も、おありなんでしょう?」
綾は顔を上げる。
「まだお若いのに」
その問いに、綾はすぐには答えられなかった。
理由
そうだ。
理由…ある。
うまく笑えなくても。
怒られても。
苦しくても。
母や父のため、そして何よりちゃんとやることは、嫌いじゃなかった。
人の生活のすぐそばにいる感じ。
誰かの当たり前を支える感じ。
自分でも何かできている実感。
それは、確かに…綾がそこにいる理由だった。
綾は、涙が残る顔のまま、小さく頷く。
その人は、少しだけ安心したように笑った。
「大丈夫です。」
綾は、その一言に目を瞬いた。
その人は、ゆっくりと言う。
「…理由は存じ上げません。ただ、あなたは選んでいます」
一拍。
「自分で選んだことは、あなたにとって、いつかあなたのものになりますよ」
世界が、静かになった。
車の音も。
夜風も。
遠くの店内の音も。
その瞬間だけ、全部遠くなった気がした。
「……え?」
「大丈夫です。今はまだ、選んだ自覚がなく、」
その人は、まっすぐ言う。
「うまく笑えなくても、伝わらなくても」
「選んだ結果が、あなたを強くします、幸せにしますよ、きっと」
綾は、涙の残る目でその人を見た。
その人は最後に、ほんの少しだけやわらかく笑って言った。
「大丈夫です…」
その言葉は、慰めじゃなかった。
綺麗ごとでもなかった。
ちゃんと見た人が、ちゃんと信じて言う言葉だった。
だから。
綾の中に、まっすぐ残った。




