スピンオフ 平泉綾「綾の悪夢と、8年前の出会い 」
Ⅰ ⸻ 悪夢は、いつも同じところから始まる
夢の中の店内は、いつも少し暗い。
明るすぎる蛍光灯の白さが、なぜか冷たくて、
床に反射する光まで、張りつめて見える。
レジの前には人が並んでいる。
買い物かごの擦れる音。
ドラッグストアHOPEの聞き慣れたテーマソング。
バックヤードで何かが動く気配。
全部、本当にあったことなのに、
夢の中だと少しだけ輪郭が滲んでいて、
そのぶん、嫌な声だけがはっきり聞こえる。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
綾は、レジを打っている。
手は動いている。
遅くない。
むしろ、かなり速い。
でも、胸の中だけが、ずっと重たい。
笑えない。
ちゃんと「いらっしゃいませ」も言ってる。
「ありがとうございました」も言ってる。
失礼のないように、声の高さだって気をつけてる。
それでも、分かる。
自分の顔が硬いこと。
“感じがいい店員”には見えないこと。
それが、相手に伝わっていること。
だから、毎回祈るみたいに思う。
どうか今日は、何も言われませんように。
どうか今日は、普通に終われますように。
でも。
そういう日に限って、来る。
あの初老の男が。
⸻
その頃の綾は、まだ若かった。
改修前の入口。
今はもう撤去された、入口脇の小さな喫煙所。
少しだけ湿ったコンクリートの匂い。
夕方になると、買い物帰りの人がそこで煙草を吸って帰る。
綾は、その店で初めてアルバイトを始めた。
理由は単純だった。
家の助けになりたかったから。
母の体調は少しずつ悪くなっていた。
父の顔には、前にはなかった疲れが見えるようになっていた。
家の空気は壊れてはいない。
でも、何かが少しずつ沈んでいく感じだけは、綾にも分かった。
だからせめて、自分にできることをしたかった。
大きなことじゃなくていい。
完璧じゃなくていい。
でも、自分のぶんくらいは、自分で持ちたい。
そう思って始めたバイトだった。
でも、綾にはひとつだけ、どうしても苦手なことがあった。
笑顔。
もともと愛想よく話すのが得意じゃない。
人前で表情をやわらかく作るのが苦手。
緊張すると、余計に固くなる。
だから、綾は別のところで努力した。
早く。
正確に。
丁寧に。
閉店後、誰もいないレジで、何度も練習した。
商品の通し方。
かごへの詰め方。
袋の開き方。
「お待たせしました」と言うタイミングまで。
笑えないぶん、せめて仕事だけは綺麗にやりたかった。
お客さんに「感じは悪いけど、仕事はちゃんとしてる」と思ってもらえたら、それでよかった。
でも現実は、そんなに優しくなかった。
⸻
「またお前か」
その声を聞いた瞬間、綾の指先がわずかに冷える。
顔を上げなくても分かる。
あの人だ。
初老の男。
何度も綾に文句を言ってくる客。
商品じゃなくて、綾そのものに、不満をぶつけてくる人。
綾は、すぐに頭を下げる。
「……いらっしゃいませ」
男は鼻で笑う。
「愛想がないなあ、相変わらず」
ピッ。
ピッ。
綾は手を止めない。
すると、男はさらに続ける。
「バスの乗り方といい、道の歩き方といい、店員のお前といい、最近の若いのはほんとダメだな」
また、それだ。
綾の胸の中で、何かが小さく縮こまる。
関係ない。
若者全体も。
そんな大きな話じゃない。
でも、言えない。
「……すみません」
かろうじて、それだけ言う。
すると男は、綾の顔を覗き込むようにして言った。
「いや、“すみません”じゃなくてさ。接客だろ?笑うくらいできないの?」
後ろに並ぶ人の気配が、急に重く感じる。
誰かが聞いている。
見ている。
綾はそれだけで、もう逃げたくなる。
でも、手は止めない。
止めたら駄目だ。
遅くなったら、また言われる。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
きちんと通す。
かごの重さを見て、崩れないように詰める。
卵を上に。
豆腐を端に。
袋の重さが偏らないように分ける。
それしかできない。
すると男は、ため息混じりに言った。
「ほんと、見ててイライラするな」
その一言で。
綾の胸のどこかが、静かに折れた。
反論は出てこない。
怒りも、うまく湧かない。
ただ。
(……私、ちゃんとやってるのに)
その気持ちだけが、苦しく残った。




