『HOPE』外伝 同じ音、違う意味
朝の光が、静かに部屋に入ってくる。
カーテンの隙間から、やわらかい白。
⸻
「……起きてる?」
綾の声。
⸻
「はい」
⸻
少し低くなった声。
でも、変わらない丁寧さ。
⸻
キッチンの音。
湯が沸く音。
小さな生活の音が重なる。
⸻
数年前には、想像もしていなかった光景。
⸻
テーブルに並ぶ、二人分の朝食。
⸻
「今日、早いんだよね?」
⸻
「はい。会議がありますので」
⸻
「また難しい話するんでしょ」
⸻
「必要なことを」
⸻
その言い方に、綾が少し笑う。
⸻
「はいはい」
⸻
⸻
玄関。
⸻
靴を履く。
⸻
少しだけ距離が近い。
⸻
自然に。
⸻
「……いってらっしゃい」
⸻
「いってきます」
⸻
短い言葉。
⸻
でも、そのあと。
⸻
綾が、少しだけ袖を引く。
⸻
「……ねえ」
⸻
「はい」
⸻
「帰ってきてね」
⸻
一瞬、空気が止まる。
⸻
世古は、ほんの少しだけ目をやわらげる。
⸻
「……はい」
⸻
それだけで、十分だった。
⸻
⸻
昼。
北山学園。
⸻
「先生ー!」
子どもたちの声。
⸻
「今日はなにやるのー!」
⸻
世古は、少しだけ膝を折る。
⸻
「今日はですね——」
⸻
変わらない。
⸻
でも、少しだけ違う。
⸻
“戻る場所がある人”の声。
⸻
⸻
夕方。
⸻
「ただいま」
⸻
玄関の音。
⸻
「おかえり」
⸻
すぐに返る声。
⸻
それだけで、空気が整う。
⸻
「今日さ」
綾が言う。
⸻
「母さん、また調子いいって」
⸻
「それは良かったです」
⸻
「うん」
⸻
一拍。
⸻
「あとね」
⸻
少しだけ、笑う。
⸻
「ちょっとだけ、変化あった」
⸻
世古の目が、少しだけ動く。
⸻
「……どういう意味でしょうか」
⸻
綾は、少しだけ間を置く。
⸻
それから。
⸻
「……来るよ」
⸻
静かに言う。
⸻
時間が、ほんの一瞬だけ止まる。
⸻
世古の呼吸が、わずかに変わる。
⸻
「……そうですか」
⸻
短い言葉。
⸻
でも、その中にいろんなものがある。
⸻
驚き。
不安。
そして。
⸻
覚悟。
⸻
綾は、ゆっくり近づく。
⸻
手を取る。
⸻
「大丈夫?」
⸻
世古は、少しだけ目を閉じる。
⸻
それから。
⸻
「……はい」
⸻
少しだけ間を置いて。
⸻
「大丈夫にします」
⸻
その言い方が、この人らしい。
⸻
⸻
数ヶ月後。
⸻
小さな産院。
⸻
静かな廊下。
⸻
「……大丈夫かな」
父の声。
⸻
「大丈夫よ」
母が、静かに言う。
⸻
でも、手は少しだけ強く握られている。
⸻
その少し離れた場所。
⸻
世古が立っている。
⸻
動かない。
⸻
でも、内側は揺れている。
⸻
あのときと、少し似ている。
⸻
16時47分。
⸻
“間に合わなかった時間”。
⸻
(……今回は)
⸻
息を整える。
⸻
(遅れない)
⸻
ただ、それだけ。
⸻
扉の向こうから、声が聞こえる。
⸻
綾の声。
⸻
苦しそうで、でも、ちゃんと前を向いている声。
⸻
「……っ、は……っ」
⸻
時間が、ゆっくり流れる。
⸻
長い。
⸻
でも、逃げない。
⸻
そして。
⸻
小さな泣き声。
⸻
最初は、弱く。
⸻
でも、すぐに、はっきりと。
⸻
世界に届く声。
⸻
世古の呼吸が、止まる。
⸻
看護師が、扉を開ける。
⸻
「おめでとうございます」
⸻
短い言葉。
⸻
でも、すべてが詰まっている。
⸻
「元気な子ですよ」
⸻
世古は、ゆっくり頷く。
⸻
足が、少しだけ遅れる。
⸻
でも、止まらない。
⸻
部屋に入る。
⸻
ベッドの上。
⸻
綾がいる。
⸻
少し疲れている。
⸻
でも、ちゃんと笑っている。
⸻
その隣に。
⸻
小さな存在。
⸻
息をしている。
⸻
確かに、ここにいる。
⸻
世古は、言葉が出ない。
⸻
ただ、見ている。
⸻
綾が、小さく言う。
⸻
「……きーくん」
⸻
呼ぶ。
⸻
「来たよ」
⸻
その一言。
⸻
あのときと、同じ言葉。
⸻
でも。
⸻
意味が、違う。
⸻
世古は、ゆっくり近づく。
⸻
小さな手。
⸻
そっと触れる。
⸻
温かい。
⸻
確かに。
⸻
ここにいる。
⸻
「……遅れていません」
⸻
小さく言う。
⸻
誰に向けてか分からない。
⸻
でも。
⸻
ちゃんと、間に合った。
⸻
綾は、その言葉を聞いて、少しだけ笑う。
⸻
「うん」
⸻
それだけ。
⸻
でも、全部分かっている。
⸻
⸻
数年後。
⸻
朝。
⸻
「いってきまーす!」
⸻
小さな声が、玄関に響く。
⸻
「気をつけて」
綾が言う。
⸻
「はい」
世古が続く。
⸻
ドアが閉まる。
⸻
静かな部屋。
⸻
でも、少しだけ残る音。
⸻
綾は、ふと立ち止まる。
⸻
耳を澄ます。
⸻
(……同じ音)
⸻
自動ドアの音。
⸻
昔、何も感じなかった音。
⸻
でも今は。
⸻
誰かが帰ってくる音。
誰かが出ていく音。
誰かが、ここにいる証。
⸻
全部、意味がある。
⸻
綾は、少しだけ笑う。
⸻
振り返る。
⸻
世古がいる。
⸻
「……どうしましたか」
⸻
「ううん」
⸻
小さく首を振る。
⸻
「なんでもない」
⸻
でも。
⸻
(違う)
⸻
同じ音。
⸻
でも、意味が違う。
⸻
それだけでいい。
⸻
それが、すべて。
⸻
END




