外伝 なんでもない日の、すこし特別な時間
昼下がりの病室は、静かだった。
カーテン越しの光が、やわらかく広がっている。
風は入らないけど、空気はどこか穏やかだった。
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「……今日、調子いい?」
綾が、ベッドの横に立ちながら聞く。
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「はい。昨日よりは」
世古が答える。
いつも通りの丁寧な口調。
でも、少しだけ力が抜けている。
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綾は、その変化に気づいている。
でも、あえて言わない。
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「じゃあさ」
少しだけ考えるようにしてから、
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「外、行こうよ」
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世古の目が、ほんのわずかに動く。
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「……外、ですか」
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「うん。中庭」
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少しだけ間。
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「……ご迷惑では」
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「なると思う?」
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即答。
少しだけ、意地悪な言い方。
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世古は、ほんのわずかに目をやわらげる。
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「……いえ」
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「でしょ」
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それで決まり、という空気。
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車椅子を押して、中庭へ出る。
今日は風が少しだけあった。
昨日よりも、ほんの少しだけ強い。
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「……いいね」
綾が、空を見ながら言う。
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「はい」
世古も、同じ方向を見る。
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同じ空を見る。
それだけで、少し近い。
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ベンチに移る。
今日は、昨日より少しだけ動きがスムーズだった。
回復している。
確実に。
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綾は、隣に座る。
自然に。
もう、距離に迷いはない。
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しばらく、何も話さない。
でも、気まずくない。
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ふと。
綾が、小さく笑う。
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「……ねえ」
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「はい」
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「前さ」
少しだけ横を見る。
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「こんな普通に座る日が来ると思ってた?」
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世古は、少しだけ考える。
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「……いえ」
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正直な答え。
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綾は、また少し笑う。
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「だよね」
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一拍。
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「私も」
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それだけ。
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風が、また通る。
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綾は、少しだけ手を動かす。
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そっと。
世古の手の上に、自分の手を重ねる。
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確認するみたいに。
でも、もう迷ってない。
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世古は、一瞬だけ視線を落とす。
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でも、引かない。
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むしろ。
ほんの少しだけ。
指を動かす。
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重ねた手に、応えるように。
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綾の心臓が、少しだけ早くなる。
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でも、顔には出さない。
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「……ちゃんと、生きてるね」
ぽつりと言う。
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「はい」
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「よかった」
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それは、ほんとにそれだけの意味。
でも、重い。
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少し沈黙。
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綾が、ふと思い出したように言う。
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「ねえ、きーくん」
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「はい」
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「退院したらさ」
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少しだけ、間を置く。
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「また、あの喫茶店行こうよ」
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世古の目が、わずかにやわらぐ。
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「……はい」
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「今度はさ」
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少しだけ、いたずらっぽく。
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「ちゃんと甘いのも頼む」
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「コーヒーだけじゃなくて」
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世古は、ほんの少しだけ考える。
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「……努力します」
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綾が、すぐに返す。
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「努力じゃなくて、やるの」
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「はい」
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そのやり取りが、少しだけ可笑しい。
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二人で、ほんの少し笑う。
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静かな笑い。
でも、ちゃんと温かい。
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帰り道。
病室へ戻る廊下。
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綾は、車椅子を押しながら、少しだけ前を見ている。
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その背中を、世古が見ている。
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ふと。
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「……綾さん」
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「なに?」
振り返らずに答える。
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「……ありがとうございます」
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一瞬だけ、空気が止まる。
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綾は、足を止める。
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ゆっくり振り返る。
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「……それ、禁止じゃなかった?」
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少しだけ睨む。
でも、完全じゃない。
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世古は、ほんの少しだけ困ったように目を伏せる。
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「……そうでした」
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「でしょ」
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一歩近づく。
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そして。
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軽く。
ほんの軽く。
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額に、指で触れる。
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「これは、いいよ」
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一瞬だけの接触。
でも、確かに触れた。
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世古の呼吸が、ほんの少しだけ乱れる。
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綾は、すぐに離れる。
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何もなかったみたいに。
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「ほら、戻るよ」
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また、車椅子を押す。
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世古は、何も言わない。
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でも。
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口元が、ほんの少しだけやわらいでいた。
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病室に戻る。
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さっきと同じ場所。
でも、少し違う。
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綾は、最後にもう一度だけ手を重ねる。
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「……ちゃんと治してね」
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「はい」
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「次は、ちゃんと元気なときに会うから」
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それは、約束。
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世古は、静かに頷く。
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「……はい」
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その返事は、
今までで一番、やさしかった。
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なんでもない日。
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でも、
ちゃんと選ばれた時間。
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それが、
今の二人には、いちばん大事だった。




