外伝 触れてもいい距離
午後の光は、どこかやわらかかった。
昼ほど強くなくて、夕方ほど沈んでいない。
ちょうど、その間。
病室の空気も、少しだけ軽くなっていた。
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「……少しだけ、外の空気に当たりますか」
看護師の提案に、世古はゆっくり頷いた。
まだ長くは歩けない。
でも、ベッドの上だけじゃなくなることに意味がある。
車椅子に移る。
身体は正直で、思ったよりも重い。
でも、顔には出さない。
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廊下に出る。
光の量が変わる。
人の気配が増える。
“外”に近づく感覚。
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綾は、少し後ろからその様子を見ていた。
手伝おうと思えばできる。
でも、あえてすぐには触れない。
この人は、自分で立とうとする人だから。
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少しだけ進んだところで、
世古の手が、車椅子の肘掛けを強く握る。
ほんの一瞬だけ。
でも、綾は見逃さない。
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「……無理しないで」
静かに言う。
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「いえ、大丈夫です」
即答。
でも、その“即答”が、少しだけ遅れている。
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綾は、ほんの少しだけ息をつく。
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「……そういうとこ」
一歩、近づく。
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そして、自然に。
何も言わずに。
手を、添える。
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支える、というより。
“そこにあるだけ”の手。
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世古の動きが、ほんの少しだけ止まる。
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「……綾さん」
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「うん」
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それ以上、説明しない。
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少しだけ沈黙。
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「……助かります」
小さく言う。
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綾は、少しだけ笑う。
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「知ってる」
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それだけ。
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歩く速度が、少しだけ安定する。
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外に出る。
中庭。
小さな木と、ベンチ。
空は、思ったより青い。
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風が、少しだけ通る。
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「……外、久しぶりですね」
世古が言う。
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「そうだね」
綾は隣に立つ。
距離は近い。
でも、くっついてはいない。
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ベンチに座る。
世古は、ゆっくりと腰を下ろす。
呼吸を整える。
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綾も、隣に座る。
間に、ほんの少しだけ空間。
でも、それはもう“壁”じゃない。
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風が、また吹く。
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「……あのとき」
世古が、ぽつりと言う。
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「はい」
綾は、すぐに返す。
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「戻るかどうか」
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一拍。
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「迷いは、ありませんでした」
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綾の視線が、少しだけ動く。
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「……そっか」
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それだけ。
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責めない。
驚かない。
ただ、受け取る。
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「……でも」
世古が続ける。
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「理由は、変わりました」
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綾が、少しだけ息を止める。
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「前は」
少し考える。
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「間に合わせるため、でした」
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“遅れないため”。
それが、この人の軸だった。
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「今は」
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言葉が、少しだけゆっくりになる。
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「……戻る場所があるから、です」
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風が止まる。
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音が、少し遠くなる。
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綾の心臓が、強く鳴る。
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それは、告白じゃない。
でも、それ以上に近い。
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綾は、少しだけ俯く。
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「……それ、ずるい」
小さく言う。
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「怒ったあとに言うやつじゃないでしょ」
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少しだけ笑う。
でも、顔は少し赤い。
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世古は、ほんのわずかに目をやわらげる。
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「……そうかもしれません」
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その“かもしれません”が、
今日は少しだけ温かい。
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沈黙。
でも、気まずくない。
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綾は、ゆっくりと手を動かす。
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さっき、支えた手。
そのまま、離さない。
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軽く、指を重ねる。
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“握る”ほど強くない。
でも、“触れている”と分かる距離。
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世古の呼吸が、ほんの少しだけ変わる。
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でも、引かない。
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むしろ、ほんのわずかに。
応える。
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指が、少しだけ動く。
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触れたまま。
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「……これくらいなら」
綾が、小さく言う。
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「いいでしょ」
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確認じゃない。
許可でもない。
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ただ、“置く”言葉。
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世古は、静かに頷く。
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「……はい」
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その返事は、
前よりも少しだけ柔らかい。
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空は、ゆっくり色を変えていく。
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午後から、夕方へ。
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二人は、しばらくそのまま座っていた。
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会話は、ほとんどない。
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でも、それでいい。
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触れている。
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ただ、それだけで。
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十分だった。




