外伝 遅れたことへの代償
昼の病室は、夜よりも現実的だった。
光ははっきりしていて、
人の気配も増えて、
「生きている場所」だと強く感じさせる。
綾は、窓際に立っていた。
外は、普通の街だった。
車が走って、信号が変わって、誰かが歩いている。
あの日と、同じ世界。
でも、綾の中だけが、まだ完全には戻っていない。
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「……少しだけ、起きていられますか」
看護師の声。
世古は、ゆっくり頷く。
身体はまだ重い。
でも、意識は昨日よりはっきりしている。
ベッドが少し起こされる。
視界が変わる。
そして、自然と、綾の姿が目に入る。
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「……綾さん」
呼ぶ。
いつも通りの、丁寧な声。
少しだけ掠れているけど、それでも変わらない。
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綾は、すぐには振り返らない。
少しだけ間がある。
それから、ゆっくり振り向く。
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「……起きたんだ」
短い言葉。
感情は、あまり乗せていない。
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世古は、その違和感に気づく。
でも、何も言わない。
ただ、静かに頷く。
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「……ご心配をおかけしました」
いつもの言葉。
いつもの順番。
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その瞬間。
綾の中で、何かが、はっきりと音を立てる。
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「……それ」
一歩、近づく。
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「やめて」
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空気が、少しだけ変わる。
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世古の目が、わずかに動く。
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「……謝るの」
綾は、まっすぐ見る。
逃げない。
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「やめてって言ったよね」
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声は大きくない。
でも、芯がある。
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世古は、少しだけ言葉を止める。
理解しようとする。
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「……申し訳ありません」
無意識に出る。
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その瞬間。
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「だから、違うって言ってるでしょ!」
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綾の声が、はっきりと強くなる。
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初めてだった。
こんなふうに、きーくんに声をぶつけるのは。
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世古の呼吸が、わずかに止まる。
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綾は、さらに一歩近づく。
距離が、ほとんどなくなる。
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「なんで謝るの?」
「なんで、いつもそうなの?」
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言葉が、止まらない。
止めない。
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「遅れないんじゃなかったの?」
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その一言で。
空気が、完全に変わる。
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世古の目が、わずかに揺れる。
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綾の声は、震えている。
怒りだけじゃない。
恐怖も、混ざっている。
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「約束じゃないけどさ」
「そういう人じゃん、きーくんって」
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息が少し荒くなる。
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「ちゃんとしてて」
「間に合って」
「全部、ちゃんとやって」
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一拍。
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「……なのに」
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声が、少しだけ崩れる。
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「なんで、あそこにいないの」
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それは、責めている言葉じゃない。
問いだった。
どうしても埋まらない、“あの瞬間”への。
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世古は、何も言えない。
言葉を選ぶ。
でも、見つからない。
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綾は、手を握る。
今度は、少し強く。
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「……いなかったんだよ」
小さく言う。
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「きーくん、いなかった」
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その事実だけが、残っている。
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「私、見たからね」
顔を上げる。
涙が溜まっている。
でも、落ちない。
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「止まってるとこ」
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あの瞬間。
あの静寂。
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「……ほんとに、いなくなったと思った」
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声が、掠れる。
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「なのにさ」
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少しだけ、息を吸う。
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「なんで戻ってきて、謝るの」
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それは、怒りの核心だった。
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“いなくなったこと”よりも、
“戻ってきて、軽くしようとすること”への拒絶。
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世古の目が、静かに揺れる。
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そして、初めて。
言葉を選び直す。
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「……怖かった、ですか」
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綾の呼吸が、止まる。
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その問いは、逃げていない。
真正面から来ている。
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「……怖かったよ」
すぐに答える。
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「めちゃくちゃ怖かった」
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涙が、ようやく落ちる。
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「もう会えないって思った」
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言い切る。
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「だから、怒ってる」
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静かに。
でも、はっきり。
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世古は、その言葉を受け取る。
逃げない。
目を逸らさない。
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「……はい」
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短く、頷く。
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「それは、怒られるべきことです」
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綾の目が、少しだけ動く。
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「……謝りません」
続ける。
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「ただ」
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一拍。
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「戻ってきました」
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それだけ。
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綾の胸が、強く鳴る。
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その言い方は、逃げていない。
軽くもしていない。
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“事実だけを置く”
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それが、きーくんのやり方だった。
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綾は、少しだけ俯く。
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怒りが、ゆっくりほどけていく。
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全部は消えない。
でも、形が変わる。
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「……ずるい」
小さく言う。
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「それ言われると、何も言えない」
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少しだけ笑う。
涙混じりで。
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世古も、ほんの少しだけ目をやわらげる。
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「……申し訳——」
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「だからやめてってば」
即座に止める。
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二人の間に、少しだけ空気が戻る。
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綾は、手を握ったまま言う。
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「……次、遅れたら」
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少しだけ間を置く。
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「ほんとに許さないから」
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それは、怒りじゃない。
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約束だった。
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世古は、静かに頷く。
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「……はい」
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今度は、謝らない。
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それで、十分だった。
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病室の光は、変わらない。
外の世界も、同じまま。
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でも、二人の関係は、少しだけ変わった。
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“優しさだけじゃない場所”に、立った。
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綾は、そっと手を離す。
でも、距離は離れない。
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「……お茶、行けるくらいになったら」
ぽつりと言う。
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「また行こう」
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世古は、ほんの少しだけ微笑む。
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「はい」
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その返事は、
前よりも少しだけ、あたたかかった。




