外伝 16時47分の静寂・微かな目覚め
夜が少しだけほどけて、朝の気配が差し込む。
カーテンの隙間から、淡い光。
白くて、やわらかい色。
病室の中は、まだ静かだった。
モニターの音。
規則的なリズム。
それが、ここに“命が続いている”ことを教えてくれる。
綾は、同じ姿勢のまま、椅子に座っていた。
一度も離していない手。
きーくんの手。
夜のあいだ、何度も確かめた。
温度。
重さ。
そこにあること。
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(……朝だ)
ぼんやりと、そう思う。
眠っていない。
でも、起き続けている感覚とも少し違う。
ただ、ここにいた。
ずっと。
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ふと。
ほんのわずかに、手の中の感触が変わる。
微かな、ほんとうに微かな動き。
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綾の意識が、一気に戻る。
「……きーくん」
小さく呼ぶ。
今度は、昨日よりもはっきりと。
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ゆっくりと。
まぶたが、わずかに動く。
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時間が、引き延ばされる。
一秒が長い。
呼吸が浅くなる。
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もう一度。
まぶたが、開こうとする。
でも、完全には開かない。
光が、まだ強すぎるみたいに。
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「……大丈夫」
綾が、自然に言っていた。
自分でも驚くくらい、やわらかい声で。
「……ゆっくりでいいから」
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世古の呼吸が、ほんの少しだけ変わる。
深くなる。
戻ってくる呼吸。
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やがて。
ほんのわずかに。
目が開く。
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焦点は合っていない。
でも、確かに開いている。
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綾の胸が、強く鳴る。
でも、叫ばない。
昨日、全部出したから。
今は、違う。
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「……きーくん」
少しだけ近づく。
声は、落ち着いている。
でも、指先は少しだけ震えている。
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世古の目が、ゆっくり動く。
視線が、探す。
定まらない。
でも。
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綾の方で、止まる。
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一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
焦点が、合う。
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「……あや……さん……?」
掠れた声。
ほとんど音になっていない。
でも、ちゃんと届く。
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綾の呼吸が止まる。
それから、ゆっくり戻る。
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「……うん」
それだけ。
それ以上、言えない。
言葉が追いつかない。
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世古は、少しだけ目を細める。
状況を理解しようとしている。
でも、まだ無理だ。
身体も、意識も、完全じゃない。
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「……ここは……」
「病院」
綾が、すぐに答える。
迷わない。
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「……そうですか……」
短い言葉。
それだけで、全部を受け入れているように見える。
無理に理解しようとしない。
ただ、今を受け取る。
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少しだけ、沈黙。
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綾は、ほんの少しだけ顔を近づける。
そして。
少しだけ、声を落とす。
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「……遅れたね」
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世古の目が、わずかに動く。
その言葉の意味を、拾う。
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ほんの少しだけ。
口元が、動く。
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「……申し訳……ありません……」
掠れた声。
でも、ちゃんと返す。
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綾は、一瞬だけ言葉を止める。
それから。
ほんの少しだけ、眉を寄せる。
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「……違う」
小さく言う。
でも、はっきり。
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「謝るとこじゃない」
少しだけ、息を整える。
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「……戻ってきたんだから」
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その言葉に。
世古の呼吸が、ほんの少しだけやわらぐ。
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綾は、手を握る。
今度は、少しだけ強く。
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「……ばか」
小さく言う。
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「ほんとに」
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でも、その声は。
怒っているのに、やさしい。
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世古は、もう一度目を閉じる。
体力が、限界に近い。
でも。
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その前に。
ほんの少しだけ。
指が、動く。
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握り返す。
弱い。
でも、確かに。
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綾の目から、涙が落ちる。
音はない。
静かな涙。
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「……いるね」
確認するみたいに。
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「……ちゃんと」
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返事はない。
でも、いい。
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世古は、そのまま再び眠りに落ちる。
今度は、“戻ってきたあとの眠り”。
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朝の光が、少しだけ強くなる。
病室が、やわらかく明るくなる。
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綾は、そのまま座り続ける。
もう、不安で握っているわけじゃない。
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“ここにいるから握っている”
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その違いを、ちゃんと感じながら。
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16時47分の静寂は、もう終わっている。
完全にではない。
でも、意味が変わった。
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“戻ってくるための静寂”から
“戻ってきたあとに続く時間”へ。
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綾は、ゆっくりと息を吸う。
そして、少しだけ笑った。




