外伝 夜
夜の病室は、昼よりも音がはっきりする。
一定の間隔で鳴るモニターの音。
点滴のわずかな揺れ。
廊下を通る足音。
綾は、ベッドの横に座っていた。
椅子は少し硬い。
でも、立つ気にはならなかった。
手は、ずっと握ったまま。
きーくんの手。
温かい。
でも、その温かさが、まだ完全に“生きている温度”に感じきれない。
(……戻ったんだよね)
頭では分かっている。
医師の言葉も聞いた。
蘇生したことも、確認した。
でも、心が追いつかない。
さっきまで、“いなかった”のだ。
あの16時47分。
あの言葉。
「死亡確認」
その音が、まだ耳の奥に残っている。
消えない。
消そうとしても、消えない。
⸻
綾は、ゆっくりと親指で、きーくんの手の甲をなぞる。
反応はない。
当たり前だ。
眠っている。
意識は戻っていない。
でも。
(……ここにいる)
それだけが、今の支えだった。
⸻
時間は、ゆっくり進む。
時計を見る。
何分経ったか、分からなくなる。
五分かもしれない。
一時間かもしれない。
どちらでもいい。
ここにいることが、全部だった。
⸻
扉が、静かに開く。
井上だった。
白衣のまま、でも少しだけ疲れている。
それでも、目はしっかりしている。
「……状態は安定しています」
静かな声。
綾は、小さく頷く。
「……よかった」
声が少し掠れる。
井上は、少しだけ視線を世古に向ける。
「正直に言えば、奇跡に近いです」
言い切る。
曖昧にしない。
「一度、完全に止まりました」
その言葉に、綾の指先がわずかに強くなる。
「それでも、戻った」
短い言葉。
でも、重い。
⸻
「……しばらくは、意識は戻らないかもしれません」
井上は続ける。
「でも、身体は反応しています」
綾は、もう一度頷く。
それでいい。
今は、それで十分だった。
⸻
井上が出ていく。
また、静かな時間が戻る。
⸻
綾は、少しだけ前にかがむ。
きーくんの顔を見る。
いつも通り、整っている。
でも、少しだけ色が薄い。
それが、現実を引き戻す。
(……ほんとに)
危なかったんだ。
今さら、実感が遅れてくる。
胸の奥が、じわっと重くなる。
⸻
「……ばか」
小さく言う。
怒っているわけじゃない。
でも、やさしくもない。
ただ、そのままの言葉。
⸻
「遅れないんじゃなかったの」
続ける。
返事はない。
でも、いい。
⸻
綾は、少しだけ目を閉じる。
さっきのことが、ゆっくり浮かんでくる。
炎。
煙。
運ばれてくる姿。
動かない身体。
そして。
あの言葉。
⸻
「嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌」
自分の声。
喉が裂けるみたいに叫んだ声。
今思い出しても、胸が締め付けられる。
⸻
(……あんなふうに)
崩れると思っていなかった。
いや。
どこかで分かっていたのかもしれない。
この人がいなくなったら、自分は崩れる。
ちゃんと。
全部。
⸻
綾は、ゆっくりと目を開ける。
そして、もう一度、手を握る。
今度は、少しだけしっかりと。
⸻
「……戻ってきたんだから」
小さく言う。
「ちゃんと、最後までいてよ」
命令でも、お願いでもない。
でも、どちらにも近い。
⸻
少しだけ沈黙。
そのあと。
ほんの一瞬だけ。
⸻
ぴくり、と。
⸻
指が、わずかに動く。
⸻
綾の呼吸が止まる。
見間違いかもしれない。
でも。
もう一度。
ほんのわずかに。
⸻
「……きーくん?」
声が震える。
⸻
反応は、それ以上ない。
でも。
確かに、動いた。
⸻
綾は、ゆっくりと息を吐く。
涙が、また少しだけ溢れる。
でも、さっきとは違う。
崩れる涙じゃない。
つながる涙。
⸻
「……ちゃんといる」
小さく言う。
確認するみたいに。
⸻
夜は、まだ続いている。
長い。
でも、怖くない。
⸻
モニターの音が、一定のリズムで鳴る。
その音が、今はとても大事に思える。
ひとつ、ひとつ。
確かめるように。
⸻
綾は、そのまま椅子に座り続ける。
眠らない。
でも、無理もしない。
ただ、そこにいる。
⸻
(……ここにいる)
それが、すべてだった。
⸻
16時47分。
あの静寂は、終わっていない。
でも、今は違う。
⸻
“戻ってきたあとに続く静けさ”
になっている。
⸻
綾は、もう一度、そっと手を握る。
今度は、少しだけ安心して。
⸻
そして、静かに息を整えた。




