外伝 眠る前に思い出す
夜。
部屋の明かりは落としていて、カーテンの隙間から街の光が少しだけ入っている。
綾はベッドに横になりながら、ぼんやりと天井を見ていた。
眠れないわけじゃない。
でも、すぐに眠るには少しだけ、気持ちが残っている。
今日のこと。
同僚と食事に行ったこと。
店の前で、きーくんがいたこと。
あの一瞬の“間”。
そして——
「……嫉妬」
小さく、呟く。
自分で言って、少しだけ笑ってしまう。
(まさか、あの人が)
整っていて、遅れなくて、
どんな場面でも“必要な形”で立っていられる人。
そんな人が、ほんの少しだけでも、揺れるなんて。
意外だった。
でも。
(……嬉しかったな)
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
大きな喜びじゃない。
声を出して笑うようなものでもない。
でも、確かに残る。
“ああ、そうなんだ”って、静かに染みていく感じ。
⸻
綾は、枕に顔を少し埋める。
(なんで、こんなに嬉しいんだろ)
少しだけ考える。
きーくんが自分を好きだから、とか。
そういう単純な話ではない気がした。
もっと違う。
もっと、深いところ。
(……ちゃんと、人なんだなって思った)
その言葉が、いちばん近かった。
完璧じゃない。
揺れる。
少しだけ遅れる。
言葉を選ぶ。
そういう“人の部分”を、初めてはっきり見た気がした。
そして、それを隠さずに、ちゃんとこちらに置いてくれた。
それが——
思っていたより、ずっと嬉しかった。
⸻
天井の方を見ながら、ゆっくり息を吐く。
ここ数年。
ベッドの上で考えることは、あまりいいものじゃなかった。
母のこと。
父のこと。
お金のこと。
仕事のこと。
どうしよう、どうしようって、同じところを何度も回る。
考えてもすぐには答えが出ないことばかりで、
それでも考えないといけなくて。
気づくと、眠れなくなっていた夜も多かった。
でも、今日は違う。
(……こんなこと考えてる)
嫉妬されたことを思い出して、
少し嬉しくなって、
その気持ちを何度も確かめるみたいに、噛み締めている。
そんな自分に、少し驚く。
(変なの)
でも、嫌じゃない。
むしろ。
(……いいな、これ)
そう思う。
⸻
綾は、目を閉じる。
胸の奥に残っているのは、不安じゃない。
焦りでもない。
ほんの少しの、やわらかい温度。
きーくんの“遅れた一瞬”。
あのときの、少しだけ低くなった声。
「落ち着かない気持ちもありました」と言ったときの、あの静かな正直さ。
全部が、今もちゃんと残っている。
⸻
(……大丈夫だ)
ふと、そう思う。
何が大丈夫なのかは、はっきりしない。
状況は何も解決していない。
母も、父も、これからだ。
でも、それでも。
自分の中に、こういう気持ちがちゃんと残っている。
嬉しいって思えること。
あたたかいって思えること。
それがあるなら、まだちゃんと進める気がした。
⸻
綾は、少しだけ布団を引き寄せる。
呼吸が、ゆっくりになる。
さっきまで頭の中にあったいろんなことが、少しずつ遠くなる。
代わりに残るのは、
ほんの少しの、やさしい余韻。
⸻
「……きーくん」
小さく、名前を呼ぶ。
誰もいない部屋で。
でも、それでいい。
⸻
そのまま、綾はゆっくりと眠りに落ちていった。
今日は、考えすぎないまま。
ただ、少しだけ嬉しい気持ちを抱えたまま。




