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外伝 残された手の温度

病院の空気は、いつも同じ温度だった。


消毒の匂い。

静かな足音。

遠くで鳴る機械の音。


綾は、その空気の中にいることに、少しずつ慣れてしまっていた。


慣れたくなんてなかったのに。


母の状態は、安定しているとは言えなかった。


薬で抑えている。

時間をつないでいる。

でも、それだけ。


「……やっぱり、ドナーが見つからないと」


井上の言葉は、やわらかい。


でも、内容はやさしくない。


「時間的にも……もう、あまり余裕がありません」


綾は、小さく頷く。


分かっている。


ずっと、分かっていた。


でも、改めて言われると、少しだけ足元が揺れる。



病院を出たあと、綾は少しだけ立ち止まった。


空は曇っている。


風も弱い。


なのに、どこか息がしづらい。


(……どうしよう)


答えはない。


でも、考えないわけにもいかない。


そのとき、スマートフォンが震える。


きーくんからだった。


『少し、お時間よろしいですか』


綾は、すぐに返信する。


『大丈夫です』


少しして、目の前に現れる。


相変わらず整っている。

でも、今日は少しだけ空気が違った。


「……状況は、伺っています」


静かな声。


綾は、何も言わずに頷く。


「……一つ、方法があります」


その言葉に、綾の胸が少しだけ強く鳴る。


でも、すぐに分かる。


それは“普通の方法”じゃない。


「……ただし」


きーくんは、少しだけ間を置く。


「おすすめはしません」


綾は、目を上げる。


「……でも」


きーくんの目は、まっすぐだった。


「時間がないのも事実です」


その言い方は、選ばせる形だった。


いつも通り。


でも、その奥にあるものは、いつもより重い。


綾は、少しだけ息を吸う。


「……教えてください」



その夜。


山下が現れた。


大きな体。

無駄のない動き。

どこか威圧感のある空気。


でも、綾はもう知っている。


この人が、ただ怖い人じゃないことを。


「……久しぶりだな、嬢ちゃん」


ぶっきらぼうな声。


でも、どこかやさしい。


「……はい」


「話は聞いてる」


短い言葉。


でも、全部入っている。



「裏のルートもある」


山下が言う。


「だが」


少しだけ間。


「おすすめはしねえ」


きーくんと同じ言葉。


でも、意味はもっと重い。


「一度そっちに足突っ込むと、戻れねえこともある」


綾は、黙って聞く。


「だから——」


山下は、少しだけ視線を逸らす。


それから、ぼそっと言う。


「最後の手だけ、試させろ」



検査。


簡単な流れ。


でも、空気は重い。


期待なんて、していない。


してはいけない。


そう思っている。



数日後。


井上の表情が、ほんの少しだけ変わる。


「……驚きました」


その一言で、分かる。


綾の心臓が強く鳴る。


「……適合しています」


一瞬、音が消える。


何も聞こえない。


ただ、その言葉だけが残る。



山下だった。



綾は、言葉が出ない。


「……なんで」


やっと、それだけ。


山下は、少しだけ肩をすくめる。


「知らねえよ」


ぶっきらぼうに言う。


でも、目は逸らしている。



「……やめてください」


綾が言う。


声が少し震えている。


「そんなの……」


言葉が続かない。


「……リスクが」


山下は、軽く鼻で笑う。


「嬢ちゃん」


低い声。


でも、怒っていない。


「俺はな」


少しだけ間。


「もう、いろいろ背負ってんだよ」


その言葉は、軽くない。


「一つ増えたところで、変わらねえ」


綾は、何も言えない。



そのとき。


山下が、ほんの少しだけ違う顔をする。


一瞬だけ。


すぐ戻る。


でも、綾は見逃さない。


「……俺の母親もな」


ぽつりと言う。


「似たようなもんだった」


それだけ。


詳しくは言わない。


でも、それで十分だった。



綾の胸の奥に、何かが静かに落ちる。


理解、ではない。


でも、受け取る。



「……お願いします」


綾は、頭を下げる。


深く。


言葉は、それしか出なかった。



手術の日。


時間は、ゆっくり進む。


いや、進まないように感じる。


時計の針だけが動いている。


綾は、椅子に座って、ずっと手を握っていた。


きーくんは、隣にいる。


何も言わない。


でも、それでいい。



長い時間のあと。


井上が出てくる。


表情を見る。


その瞬間で分かる。


「……無事、終了しました」


その一言で、世界が戻る。


空気が動く。


呼吸が戻る。



綾は、その場で少しだけ崩れそうになる。


でも、倒れない。


きーくんの手が、ほんの少しだけ支える。


強くじゃない。


でも、確かに。



病室。


母は、まだ眠っている。


でも、呼吸は安定している。


綾は、その手をそっと握る。


温かい。


ちゃんと、生きている温度。



別の部屋。


山下も、静かに横になっている。


意識はある。


でも、少しだけ疲れている。


「……終わったか」


低い声。


綾は、頷く。


「……ありがとうございました」


山下は、少しだけ目を細める。


「気にすんな」


短い言葉。



そのあと、少しだけ沈黙。


綾は、迷う。


でも、ちゃんと言う。


「……お母さんのこと」


山下が、ほんの一瞬だけ目を止める。


「……似てるって言ってましたよね」


山下は、少しだけ息を吐く。


「……ああ」


それ以上は言わない。


でも、その一音に、全部がある。



綾は、小さく頭を下げる。


もう一度。


深く。



廊下に出る。


空気が少し軽い。


さっきまでとは、明らかに違う。


きーくんが、隣にいる。


「……よかったですね」


静かな声。


綾は、少しだけ笑う。


涙が、少しだけ出る。


でも、それは苦しい涙じゃない。


「……はい」


それだけでいい。



平泉家は、全部を聞いたわけじゃない。


でも、なんとなく察している。


山下のこと。

清水のこと。

きーくんのこと。


それでも。


もう、怖くはなかった。


人を見ているから。



その夜。


綾は、久しぶりに深く息を吸った。


胸の奥が、少し軽い。


何も終わっていない。


でも、大きな山を一つ越えた。



(……繋がった)


そう思う。


人と人が。


過去と今が。


傷と優しさが。



綾は、静かに目を閉じた。


今夜は、きっとちゃんと眠れる。

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