外伝 少しだけ遅れる呼吸
その日は、いつもより少しだけ店が混んでいた。
レジに並ぶ人の列。
商品のバーコードを通す音。
ポイントカードの確認。
袋詰め。
手は動く。
言葉も出る。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
全部、いつも通り。
でも、少しだけ違うのは、その中に“知らないリズム”が混ざっていることだった。
「綾さん、この後時間ある?」
声をかけてきたのは、同じ店舗の男性社員だった。
年は少し上。
特別仲がいいわけではないけど、普通に会話はする距離。
綾は、手を動かしながら少しだけ顔を上げる。
「……今日は、少しだけなら」
「じゃあさ、近くで軽くご飯でもどう?」
軽い調子。
深い意味はない。
ただの同僚の誘い。
綾は、一瞬だけ考える。
(……どうしよう)
きーくんのことが頭をよぎる。
でも、約束しているわけじゃない。
今日来るとも限らない。
それに——
(……普通に生活することも、大事だよね)
そう思った。
だから、頷く。
「……はい、大丈夫です」
「よかった」
そのやり取りは、ほんの数秒。
それだけのこと。
でも——
そのやり取りを、店の外から見ている人がいた。
⸻
閉店。
ロッカーで着替えながら、綾は少しだけ落ち着かない気持ちになる。
理由は分かっている。
きーくんのこと。
来るかもしれない。
来ないかもしれない。
でも今日は、“来たら少し困る日”だと思ってしまっている自分がいる。
それに気づいて、少しだけ胸がちくっとする。
(……変だな)
来てほしい日もある。
来ない方がいい日もある。
そういうのは、たぶん普通だ。
でも、“困る”って思ったのは、少しだけ引っかかる。
ロッカーを閉める。
外へ出る。
自動ドアが開く。
あの音。
そして——
「……お疲れさまです」
いた。
綾の心臓が、ほんの少しだけ跳ねる。
「……お疲れさまです」
少しだけ、声が遅れる。
きーくんは、それに気づいたかどうか分からない。
でも、いつも通りの表情で立っている。
「……今日は、どうされますか」
いつもの問い。
選ばせる声。
綾は、一瞬だけ迷う。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬は、いつもより少しだけ長かった。
「……今日は」
言葉が少しだけ詰まる。
「……同僚と、少しだけ食事に行く予定で」
きーくんの目が、ほんのわずかに動く。
本当にわずか。
見逃してもおかしくないくらい。
でも綾には、見えた。
「……そうですか」
声は変わらない。
丁寧で、落ち着いている。
「はい……」
綾は、なぜか少しだけ視線を落とす。
「……でしたら」
きーくんは、ほんの少しだけ間を置いてから言う。
「楽しんできてください」
完璧な返答。
何もおかしくない。
むしろ、理想的な距離。
でも。
(……あれ)
綾は、違和感を覚える。
言葉じゃない。
声でもない。
“間”。
ほんの一瞬だけ、呼吸が遅れた気がした。
ほんの少しだけ。
でも、確かに。
⸻
「綾さん、行こうか」
後ろから声がかかる。
同僚だ。
綾は振り返る。
「……はい」
それから、もう一度きーくんを見る。
何も言わない。
ただ、少しだけ視線を合わせる。
きーくんは、静かに頷く。
それだけ。
綾は、そのまま同僚と歩き出す。
⸻
食事は、普通だった。
仕事の話。
店長の話。
売上の話。
笑うところもある。
気まずくもない。
でも。
(……なんか、変)
楽しくないわけじゃない。
でも、どこかに小さな違和感が残っている。
思い出すのは、さっきの“間”。
あの一瞬。
きーくんの呼吸が、ほんの少しだけ遅れた感じ。
(……もしかして)
そこで、綾は少しだけ気づく。
(……あれって)
胸の奥が、少しだけざわつく。
(……嫉妬?)
その言葉が浮かんで、少しだけ驚く。
きーくんが。
あの、整っていて、遅れない人が。
そんなふうに、ほんの少しでも揺れることがあるのか。
(……ほんとに?)
でも、否定しきれない。
あの一瞬の違和感は、ただの気のせいではない気がする。
⸻
食事が終わる。
「じゃあ、また明日」
「はい、お疲れさまです」
別れる。
普通に。
何も問題はない。
でも、綾の足は、自然といつもの道へ向かっていた。
店の前。
自動ドア。
あの音。
そして——
いた。
少し離れた場所。
街灯の下。
綾の胸が、少しだけ強く鳴る。
「……きーくん」
呼ぶ。
世古が、こちらを見る。
「……お帰りなさい」
その言葉に、綾は少しだけ息を止める。
“お疲れさま”じゃない。
“お帰りなさい”。
それだけで、胸の奥が少しだけやわらかくなる。
綾は、ゆっくり近づく。
「……待ってたんですか」
「いえ」
いつもの否定。
でも、完全な否定じゃない。
綾は、少しだけ笑う。
「……ちょっとだけ、ですよね」
世古は、ほんの少しだけ目を細める。
否定しない。
それだけで、十分だった。
⸻
少し歩く。
今度は、さっきより静かな道。
綾は、少しだけ迷ってから言う。
「……さっき」
「はい」
「……ちょっとだけ、違いましたよね」
世古は、すぐには答えない。
綾は続ける。
「ほんの少しだけ」
「……はい」
認めた。
綾の胸が、少しだけ熱くなる。
「……なんでですか」
聞く。
少しだけ意地悪な聞き方かもしれない。
でも、ちゃんと知りたかった。
世古は、少しだけ息を整える。
それから、静かに言う。
「……お食事に行かれると聞いて」
少し間。
「……安心しました」
綾は、少しだけ目を丸くする。
「……安心?」
「はい」
でも、そのあと。
ほんのわずかに、言葉が続く。
「……と同時に」
ほんの少しだけ、声が低くなる。
「少しだけ、落ち着かない気持ちもありました」
綾の心臓が、強く鳴る。
それは、はっきりとした言葉だった。
曖昧じゃない。
逃げてない。
ちゃんと、自分の中の揺れを言葉にしている。
綾は、少しだけ笑う。
「……それって」
少しだけ、意地悪く。
「嫉妬ですか」
世古は、ほんの一瞬だけ言葉を止める。
でも、逃げない。
「……そうかもしれません」
その答えに、綾は息を止める。
そして。
少しだけ、嬉しくなる。
⸻
「……そっか」
それだけ言う。
それ以上、茶化さない。
でも、胸の奥がじんわりと温かい。
完璧じゃない人。
遅れない人が、ほんの少しだけ遅れる瞬間。
それを見てしまった。
そして、それをちゃんと見せてもらえた。
それが、嬉しかった。
⸻
綾は、少しだけ近づく。
前より、自然に。
「……きーくん」
「はい」
「……大丈夫です」
少しだけ笑って言う。
「ちゃんと戻ってきますから」
その言葉に、世古の目がほんの少しだけやわらぐ。
「……はい」
短い返事。
でも、その“はい”は、少しだけ安心している。
⸻
二人で、少しだけ歩く。
さっきより、距離は近い。
自然に。
綾は、ふと思う。
嫉妬って、重いものだと思っていた。
束縛とか、不安とか。
でも、違う。
こんなふうに、静かに揺れるものもある。
そして、それは——
少しだけ、あったかい。
⸻
店の前。
自動ドア。
あの音。
綾は、少しだけ振り返る。
「……また」
世古は、静かに頷く。
「……はい」
その“はい”は、
少しだけ、人らしかった。




