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外伝 眠れる場所

あの夜のあと、綾はきーくんからの連絡を何度も見返した。


『昨夜は、ありがとうございました』


短い文章。

いつも通りの、過不足のない言葉。


でも、そこに含まれているものは、今まで受け取ってきたどの丁寧さとも少し違っていた。


ありがとう、というより。

ちゃんと受け取った、という印のように見えた。


綾は、その文を見つめながら思う。


きーくんは、きっとずっと誰かを支える側にいた。

仕事でも。

日常でも。

そして、過去の痛みのせいで、たぶん自分に「遅れてはいけない」と言い聞かせるようにして。


そんな人が、昨夜たしかに少しだけ、こちらに重さを預けた。


ほんの少しだけ。

それでも、綾には充分すぎるくらい大きかった。


店へ向かう朝の道は、まだ少し肌寒い。


人とすれ違う。

車が通る。

信号が変わる。


全部、いつも通り。


でも綾の中では、何かが静かに変わっていた。


今までは、きーくんと歩いた夜のことを思い出すとき、必ず“自分が救われた側”の記憶が先に来た。

ベンチ。

店の前。

東京タワー。

焚き火。

頼った夜。


けれど今は、その列にもう一つ別の夜が加わっている。


妻。

子ども。

間に合わなかったこと。

そして、きーくんの肩の力が、ほんのわずかにだけ抜けた感触。


あれは綾の中に、まだ少し熱を持ったまま残っていた。



その日の午後、綾は病院へ寄った。


母の病室は、昼の光がよく入る部屋だった。


白いカーテン。

窓際の小さな棚。

水差し。

読みかけの雑誌。


母はベッドを少し起こした姿勢で座っていた。

前より顔色は悪くない。

でも、それは病気が消えたからではなく、治療の中で少しだけ“落ち着ける時間”が作れているからだと綾は知っていた。


「来たの」


「うん」


いつものやり取り。


綾は椅子に座って、持ってきた飲み物やちょっとしたものを置く。


母は、その手元を見ながら言った。


「仕事、無理してない?」


「してないよ」


「ほんとに?」


「ほんと」


その会話の薄さが、少し前までなら苦しかった。

お互いに心配しているのに、深くまで入れない感じがあったから。


でも今は、少しだけ違う。


薄い言葉の奥に何があるのかを、前より想像できるようになった。


母は、相変わらず謝る癖が抜けない。

自分が寝ていることで、家の中のいろいろが動いていることを、ずっとどこかで負担に感じている。


綾は、そのことを知っている。


だからその日も、しばらくはたわいない話をした。


病院の食事のこと。

父が最近、少しだけ料理らしきものをしようとして台所を荒らしたこと。

店長が新しいポップの色で妙に悩んでいたこと。


母は、小さく笑った。


大きな笑いじゃない。

でも、それでいいと思う。


笑える日があるなら、それだけで十分な日もある。


少しして、会話が切れたときだった。


母がふと、綾の顔をじっと見る。


「……なんか、少し違うね」


綾は少しだけ首を傾げる。


「何が?」


「顔つき」


その言葉に、綾は少しだけ戸惑った。


「そう?」


「うん。前より……なんて言うんだろ」


母は、言葉を探すみたいに少し黙る。


「前は、ずっと力が入ってる感じだった」


綾は何も言わない。


母は、綾のそういう変化に昔から気づく人だった。

自分のことは後回しにしても、娘の表情の薄い違いだけは拾ってしまう。


「今も大変なのは変わってないんだろうけど」


母は続ける。


「前より、少しだけ息してる顔」


その言い方が妙に可笑しくて、綾は少し笑う。


「なにそれ」


「そのまま」


母も少し笑った。


それから、綾は少しだけ迷った。


昨夜のことをどこまで話すか。

きーくんの過去を、そのまま人に渡していいのか。

断片だけ聞いたことを、勝手に広げるのは違う気がする。


でも、何も言わないのも少し違うと思った。


綾は、膝の上の手をそっと重ねる。


「……昨日ね」


「うん」


「きーくんと話したの」


母はその名前に、少しだけ目をやわらげた。


もう母の中で、その名前は“変な人だけど、家に大きな火を持ってきた人”として入っているのだと思う。


「……そう」


「でね」


そこまで言って、綾は少し言葉を探す。


「支える人も、ずっと強いままじゃいられないんだなって思った」


母の目が、少しだけ静かになる。


「……うん」


その“うん”に、綾は少し救われる。


すぐに分かってくれた気がしたから。


「私、今まで、きーくんって何でもできる人みたいに見えてたの」


少し笑いながら言う。


「ちゃんとしてて、遅れなくて、必要なときにちゃんと来て、必要なことだけ置いてくれる人」


母は黙って聞いている。


「でも、そうじゃないんだなって」


綾は窓の方を少し見る。


外は曇っていて、光がやわらかい。


「ちゃんとしてる人ほど、ちゃんとしてないところ見せないんだね」


母はそこで、小さく息をつく。


「……そうだね」


それは、妙に実感のある返事だった。


綾は母の横顔を見る。


この人もたぶん、ずっとそうだったのだ。

自分のしんどさを“まだ大丈夫”の形に整えて、家の空気の中に置いてきた人だ。


「私、昨日ちょっとだけ、きーくんのこと抱きしめたの」


言ったあとで、自分でも少し驚くくらい、その言葉は自然に出た。


母の目が少しだけ丸くなる。


でも、変に茶化さない。


ただ、少しだけやわらいだ表情になる。


「……そう」


「うん」


綾は少し視線を落とす。


「なんかね、言葉じゃ足りない気がして」


母はしばらく黙ってから、ゆっくりと言った。


「よかったんじゃない」


綾は顔を上げる。


「……そうかな」


「そういうのって、たぶん理屈じゃないから」


それは母らしい言い方だった。

説明しすぎない。

でも、きちんと受け止める。


「綾がそうしたかったなら、それでよかったんだと思う」


綾は、その言葉を胸の中に静かに置く。


そうしたかった。

たしかに、そうだ。


正しかったかどうかは分からない。

でも、ただそうしたかった。


そして、そうしたいと思えるほど、相手の痛みがちゃんと届いたのだ。


母は、少しだけ笑った。


「支えられる人も支えがいるんだね」


綾は、その一言に、昨夜の自分の考えがきれいに言葉になるのを感じた。


「……うん」


「当たり前なんだけど、忘れるよね」


「うん」


「強そうな人ほど」


綾は頷く。


そう。

当たり前なのに、忘れてしまう。


支えてくれる人は、ずっと支える側でいてくれる気がしてしまう。

でもそんなことはない。


そのことを知っただけで、世界の見え方が少し変わった気がした。



その夜、綾は店を出たあと、なんとなく自分からメッセージを送った。


『今日は、病院に行ってきました』


少しして、返事が来る。


『お疲れさまでした』


いつもの文。


綾は、そのあとにもう一文打つ。


『母に、少しだけ話しました』


既読がつくまでの数秒が、少し長い。


やがて、返信。


『はい』


それだけでは終わらず、もう一通。


『困らせてしまっていませんか』


綾は、その文に少しだけ目を細めた。


やっぱりこの人は、そういう心配をするのだ。


自分の過去を話したことが、綾の負担になっていないか。

母に余計な影を落としていないか。


最後まで、気を遣う。


綾は、ゆっくり打つ。


『大丈夫です』


少し考えてから、続ける。


『母が、支える人も支えがいるんだねって言ってました』


送信する。


返事は、少し遅かった。


その遅さに、綾は逆に少しだけ安心する。

たぶん、ちゃんと受け取っているからだ。


やがて届く。


『そうかもしれません』


短い文。


でも、その“かもしれません”の曖昧さが、今のきーくんにはちょうどいいのだと思った。


綾は、そのあともう一つだけ送る。


『……今度、お茶でもどうですか』


打ったあとで、自分でも少し驚く。


今までは、歩くか、少し会うか、偶然重なるか、そういう形が多かった。

“お茶でもどうですか”は、もっと普通で、もっと日常的で、少しだけ近い誘い方だ。


けれど今は、それがしたかった。


何かを相談するためじゃなく。

支えられるためでも、支えるためでもなく。

ただ、少しだけ同じ時間に座りたかった。


返事は、やはり少し遅れた。


『はい』


それから、もう一通。


『ありがたく』


綾は、その言葉に少しだけ笑ってしまう。


“ありがたく”。


どこまでもこの人らしい。



数日後。


約束したのは、駅から少し外れた場所にある小さな喫茶店だった。


昔からあるような店で、外観は少しくたびれている。

でも中へ入ると、木の椅子と控えめな照明が妙に落ち着く。


綾が先に着くと、窓際の席に座って少しだけそわそわした。


仕事帰りに会うのとは違う。

外で偶然重なるのとも違う。

“会うために会う”のだと思うと、少しだけ緊張する。


数分後、きーくんが入ってくる。


いつも通り、整っている。

でも、店のドアを開けてこちらを見つけた瞬間の目が、前より少しだけやわらかい。


それだけで、綾の胸の奥も少しほどける。


「……こんにちは」


「こんにちは」


向かいに座る。


メニューを開く。

コーヒーか紅茶か。

ケーキはどうするか。


そんな、誰とでもできる会話が、不思議なくらい新鮮だった。


綾は、ふと気づく。


今までは、二人のあいだにはいつも何かの“必要”があった。

相談。

提案。

支え。

選択。


でも今日は違う。


ただ、お茶を飲む。


それだけ。


それだけなのに、すごく大事な気がした。


注文が終わって、少しだけ沈黙が落ちる。


でも、嫌じゃない。


店内にはスプーンの触れる音や、小さな話し声がある。

コーヒーの香りもする。


綾は、その普通さに少しだけ救われていた。


やがて飲み物が来る。


湯気が上がる。

カップを持つ。


その温度が手に馴染んだ頃、きーくんがぽつりと言った。


「……この前は、ありがとうございました」


綾は少しだけ目を上げる。


「こちらこそ」


「いえ」


きーくんは静かに首を横に振る。


「本当に、助かりました」


綾は、その言葉を今度は前より落ち着いて受け取れた。


もう驚きすぎない。

でも軽くもしない。


「……よかったです」


そう返すと、きーくんは少しだけ視線をカップへ落とした。


「自分でも驚いています」


「何がですか」


「話したことです」


その言い方に、綾は少しだけ笑う。


「私も、少しびっくりしました」


きーくんも、ほんの少しだけ口元をやわらげる。


その変化は小さい。

でも、以前よりははっきり見える。


「……綾さんには、隠したままでいる方が難しくなってきました」


その一言に、綾の胸が少しだけ鳴る。


恋人らしい言葉ではない。

でも、すごく深いと思う。


隠したままでいる方が難しい。

それは、信頼がなければ出てこない種類の言葉だ。


綾は、カップを置いて、静かに言った。


「……私もです」


きーくんが目を上げる。


「前は、きついこととか、ちゃんと見せるの苦手でした」


「はい」


「でも今は……見せてもいい人がいるって、ちょっと分かるようになりました」


言ってから、少しだけ恥ずかしい。

でも、きーくんはその言葉をそのまま受け取った。


「はい」


短い返事。

でも、それで十分だった。


二人はそのあと、しばらくコーヒーを飲みながら、ほんとうにとりとめのない話をした。


病院の食事は相変わらず味が薄いこと。

父が最近、なぜか卵料理に自信を持ち始めたこと。

フライパンの使い方だけ妙に上達していること。


綾がそれを話すと、きーくんは小さく頷く。


「……いいことですね」


「そうですか?」


「はい。手を動かしている間は、人は少しだけ考えすぎずに済みますから」


その言い方に、綾は少しだけ笑う。


「じゃあ、父にとってはいいことかも」


「はい」


それ以上は広げない。


でも、それでちょうどいい。


谷河がこの前のキャンプで、自分の失敗を妙に美談にしていたこと。

山下がそれを容赦なく現実に戻していたこと。


その話になると、きーくんの口元がほんの少しだけ緩む。


「……想像できます」


「ですよね」


「谷河は、そういうところがありますから」


綾は、少しだけ目を細める。


「きーくんも、ちょっと似てるときありますよ」


その一言に、きーくんがほんの少しだけ視線を上げる。


「……そうですか」


「うん」


綾は、少しだけいたずらっぽく笑う。


「ちゃんと整えて話すとこ」


きーくんは、ほんのわずかに言葉を止めてから、


「……気をつけます」


と静かに返す。


その返し方が、妙に素直で、綾は少しだけ肩の力が抜ける。



カップの中のコーヒーが、少しずつ減っていく。


湯気も落ち着いて、温度も少しだけ下がる。


時間も同じように、ゆっくり落ち着いていく。


綾は、ふと気づく。


(……静かだ)


店の中は人がいる。

音もある。

会話もある。


でも、自分の中が静かだった。


焦りがない。

急ぐ理由もない。

何かを決めなきゃいけない感じもない。


ただ、ここにいる。


それだけ。



「……きーくん」


「はい」


「こういうの、いいですね」


きーくんは、少しだけ視線をやわらげる。


「……はい」


それ以上は言わない。


でも、その“はい”の中に、ほとんど同じ意味が入っている気がした。



少しして、綾がぽつりと言う。


「前は、こういう時間って、なんか落ち着かなかったんです」


「……そうですか」


「うん。なんか、何かしなきゃいけない気がして」


きーくんは、静かに聞いている。


「でも今は」


綾はカップに視線を落とす。


「何もしなくてもいい時間が、ちょっと分かる気がします」


少し間。


「……きーくんといると」


その一言に、空気がほんの少しだけ静かになる。


きーくんは、すぐには答えない。


でも、逃げない。


そのまま受け取る。


やがて、静かに言う。


「……それは、よかったです」


綾は、少しだけ笑う。


「うん」



しばらく、また沈黙。


でも、その沈黙はもう説明がいらない。


居心地がいいから、言葉がなくてもいい。


それが、分かる。



店を出ると、外は少しだけ冷えていた。


昼よりも、夜の方が少しだけ冬に近い。


二人で歩く。


並んで。


距離は、自然と前より近い。


でも、触れてはいない。


触れなくてもいい。


今は、それで足りている。



少し歩いたところで、綾が言う。


「……あの公園、寄りますか」


きーくんは、少しだけ間を置いてから頷く。


「……はい」



ベンチ。


あの場所。


前と同じ。


でも、やっぱり少し違う。


綾は、座る前に少しだけ空を見上げる。


雲が流れている。


星は少ない。


でも、それでいい。



座る。


今度は、前より少しだけ距離が近い。


意識しなくても、そうなる。



「……きーくん」


「はい」


「この前、ここで眠くなったの覚えてます?」


「はい」


少しだけ、やわらかい声。


「……今日も、ちょっとだけ眠いです」


少しだけ笑う。


きーくんは、ほんのわずかに目を細める。


「……構いません」


短い言葉。


でも、やさしい。



綾は、少しだけ息を整える。


それから。


ほんの少しだけ。


自然に。


きーくんの肩に、頭を預ける。


前より、迷いが少ない。


前より、距離が近い。


でも、重くならないように。


その加減も、分かってきている。



きーくんは、動かない。


でも、拒まない。


それだけでいい。


それだけで、ちゃんと“ここにいていい”と思える。



綾は、目を閉じる。


完全に眠るわけじゃない。


でも、少しだけ意識がゆるむ。


呼吸が、ゆっくりになる。


(……ああ)


思う。


(ここ、だ)


場所じゃない。


ベンチでも、公園でもない。


“ここ”。


この距離。


この温度。


この空気。



ほんの少しだけ。


本当に少しだけ。


きーくんの肩の力が抜ける。


前と同じくらい。


でも、前より自然に。


綾には、それが分かる。


(……大丈夫なんだ)


この人も、ちゃんと休める。


ほんの少しだけでも。



「……きーくん」


小さく呼ぶ。


「はい」


「……ここ、眠れる場所ですね」


きーくんは、少しだけ間を置いてから言う。


「……そうかもしれません」


その言葉は、前より少しだけはっきりしている。


“かもしれない”のまま。


でも、ちゃんと認めている。



時間が、静かに流れる。


何も起きない。


でも、それでいい。


何も起きないことが、今は大事だった。



綾は、ゆっくりと顔を上げる。


「……すみません」


少しだけ照れながら。


きーくんは、静かに首を横に振る。


「いえ」


それから、少しだけ間を置いて。


「……少し、眠れましたか」


その聞き方が、やっぱりやさしい。


綾は、少しだけ笑う。


「……ちょっとだけ」


それでいい。



立ち上がる。


夜は、少しだけ深くなっている。


でも、重くない。



帰り道。


並んで歩く。


距離は、もうほとんど自然に決まっている。


無理も、遠慮もない。



店の前。


自動ドア。


あの音。


綾は、少しだけ振り返る。


「……また」


少しだけ間。


でも、ちゃんと続ける。


「……ここ、来ましょうね」


きーくんは、静かに頷く。


「……はい」


その“はい”は、


前より、少しだけあたたかい。



自動ドアが開く。


あの音。


綾は、ゆっくり中へ入る。


背中で、その音を聞く。


(……戻れる場所)


そう思う。


完全じゃなくていい。


全部が解決してなくていい。


ただ、少しだけ眠れる場所がある。


それだけで、人はちゃんと進める。



その夜、綾はベッドに入ると、すぐに目を閉じた。


考えすぎる前に、眠りが来る。


それは、久しぶりの感覚だった。


(……大丈夫)


理由は、やっぱり分からない。


でも、分かることは一つ。


あの場所がある。


それだけで、十分だった。

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