外伝 同じ温度の時間
約束したわけじゃなかった。
でも、その日はなんとなく分かっていた。
来るかもしれないし、来ないかもしれない。
でも、“来てもいい日”だと思った。
綾は、店の閉店作業をいつもより少しだけ丁寧にやっていた。
急ぐ必要はない。
でも、雑に終わらせたくもない。
理由はうまく言えない。
ただ、少しだけ整えてから外に出たい気分だった。
レジを閉める。
売上を確認する。
棚を軽く整える。
最後に、店内を見渡す。
いつもと同じ光景。
でも、少しだけ違って見える。
自分が、少し変わったからだと思う。
ロッカーを閉めて、外へ出る。
自動ドアが開く。
あの音。
そして。
「……お疲れさまです」
いた。
綾は、少しだけ笑う。
「……お疲れさまです」
不思議と驚きはなかった。
来るかもしれないと思っていたからじゃない。
“来てもおかしくない距離”になったからだ。
それだけ。
⸻
「……今日は、どうされますか」
いつもの言い方。
選ばせる声。
綾は、少しだけ考えるふりをしてから言う。
「……少しだけ、歩きたいです」
「はい」
それだけで、決まる。
⸻
夜道。
人通りは少ない。
風は少し冷たいけど、嫌な寒さじゃない。
並んで歩く。
会話は、最初は少ない。
でも、沈黙が重くない。
それだけで、十分だった。
少し歩いてから、綾が言う。
「……この前の喫茶店、よかったですね」
「はい」
「また行きたいです」
「そうですね」
短いやり取り。
でも、その“また”が自然に出ることが、少しだけ嬉しい。
⸻
ふと、綾は足を止める。
「……あ、ここ」
小さな公園。
この前、ベンチで座った場所。
世古も、少しだけ視線を向ける。
「……はい」
「……少し、座ってもいいですか」
「もちろんです」
二人でベンチに座る。
前と同じ場所。
でも、空気が違う。
あの夜は、少しだけ重かった。
今日は、少しだけやわらかい。
同じ場所なのに、違う。
⸻
しばらく、何も話さない。
でも、それが心地いい。
綾は、ふと空を見る。
雲が少し流れている。
星はあまり見えない。
でも、いいと思う。
完璧じゃない夜の方が、今は好きだった。
「……きーくん」
「はい」
「……ちょっとだけ」
少し迷う。
でも、やめない。
「……近くてもいいですか」
世古は、一瞬だけ綾を見る。
驚きでもなく、困りでもなく、ただ確認するみたいな目。
それから、小さく頷く。
「……はい」
綾は、ほんの少しだけ距離を詰める。
肩と肩が触れるか、触れないかくらい。
それだけ。
それ以上はしない。
でも、それで十分だった。
⸻
しばらくして、綾が小さく笑う。
「……なんか」
「はい」
「前だったら、絶対できなかったです」
「……そうですか」
「うん」
少し間。
「こういうの」
言葉を探す。
「……頼るとかじゃなくて」
また少し考える。
「……一緒にいる感じ」
世古は、すぐには返さない。
でも、否定もしない。
その沈黙が、肯定に近い気がした。
⸻
風が少し強くなる。
綾は、無意識に少しだけ肩をすくめる。
その瞬間、ほんのわずかに、世古の肩が動く。
触れている距離が、ほんの少しだけ近くなる。
意識しているのか、していないのか分からないくらいの変化。
でも、綾には分かる。
(……あ)
何も言わない。
そのままにする。
こういうのは、言葉にしない方がいい気がした。
⸻
しばらくして、綾がぽつりと言う。
「……眠くなってきました」
少しだけ笑いながら。
「……そうですか」
世古の声は、やわらかい。
「少しだけなら」
少し間。
「……このままでも構いません」
綾は、少しだけ目を丸くする。
でも、すぐに小さく笑う。
「……ほんとに?」
「はい」
その“はい”は、迷いがなかった。
綾は、少しだけ息を吸う。
それから。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
世古の肩に、頭を預ける。
触れる。
止まる。
離れない。
心臓の音が少し早い。
でも、嫌じゃない。
むしろ、落ち着く。
世古は、動かない。
でも、拒まない。
それだけで、十分だった。
⸻
夜は静かだった。
風の音。
遠くの車。
木の葉の揺れる音。
その中で、綾はゆっくり目を閉じる。
完全に眠るわけじゃない。
でも、少しだけ意識を緩める。
(……大丈夫だ)
そう思える。
理由は分からない。
でも、思える。
⸻
しばらくして、綾が小さく言う。
「……きーくん」
「はい」
「……ここ、いいですね」
「……はい」
短い会話。
でも、それで全部足りる。
⸻
時間がどれくらい経ったか分からない。
綾は、ゆっくりと顔を上げる。
「……すみません」
少しだけ照れながら。
「いえ」
世古は、いつも通り首を横に振る。
「……よく眠れましたか」
その聞き方が、少しだけ優しい。
綾は、小さく笑う。
「……ちょっとだけ」
それでいい。
全部じゃなくていい。
少しだけでいい。
⸻
帰り道。
さっきより、ほんの少しだけ近い距離。
自然に。
無理なく。
綾は、歩きながら思う。
これは、恋人みたいな関係なのかもしれない。
でも、名前をつける必要はない気もする。
ただ。
同じ温度でいられる時間。
それだけで、今は十分だった。
⸻
店の前。
自動ドア。
あの音。
綾は、少しだけ振り返る。
「……また」
言いかけて、少し止まる。
でも、ちゃんと言う。
「……また、お願いします」
世古は、静かに頷く。
「……はい」
その“はい”は、やっぱり少し違う。
受け取る“はい”。
綾は、小さく笑う。
そして、店の中へ入る。
自動ドアが閉まる。
あの音。
最初は、ただの音だった。
今は、違う。
“同じなのに違う”音。
綾は、その音を背中で聞きながら、ゆっくり歩いた。




