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外伝 触れられなかった場所

秋の終わりに近い風が、店の前を細く抜けていった。


昼間はまだ少しだけ陽があったのに、夜になると急に季節が進んだ気がする。


綾はレジを閉めながら、指先の冷たさに気づいた。


手は動いている。

閉店作業も、売上の確認も、いつも通りできている。


母の入院は続いている。

父の仕事も、ようやく形になり始めたばかり。

借金の整理も、三千万円の話も、まだ途中。


何ひとつ終わっていない。


それでも最近、綾の中には少しだけ余白ができていた。


息ができる日がある。

ちゃんと食べられる日がある。

そして、ほんの少しだけ、笑ってしまう瞬間がある。


焚き火の夜から、少しずつ。


あの火の匂いは、もう消えているはずなのに、

胸の奥だけに、まだ残っている。


ロッカーを閉めて、外へ出る。


自動ドアが開く音。


あの音は、もう“ただの音”ではなかった。


(……いるかな)


思う。


でも、それに縛られなくなっている自分にも気づく。


いるかもしれない。

いないかもしれない。


どちらでもいい、というわけじゃない。

ただ、“どちらでも呼吸はできる”ところまで来ている。


その夜、店の前に世古はいなかった。


でも、メッセージが一通。


『もしお疲れでなければ、少しだけ歩きませんか』


綾は、ほんの少しだけ画面を見つめてから、


『大丈夫です』


と返した。


数分後、足音。


振り向く前に分かる。


「……お疲れさまです」


「……お疲れさまです」


並んで歩く。


最初は、何も話さなかった。


でも、その沈黙がいつもと少し違う。


綾は、ふと気づく。


(……静かすぎる)


言葉がないのではなく、

“奥の方まで沈んでいる”感じの静けさ。


自分が、前にそうだったように。


東京タワーで、景色の外にいたときみたいに。


綾は、少しだけ歩幅を緩める。


「……何か、ありましたか」


世古は、少しだけこちらを見る。


「いえ」


その一言で分かる。


(……違う)


何もない人の“いえ”じゃない。


綾は、少し迷ってから言う。


「……きーくん」


「はい」


「……話さなくてもいいです」


少し間を置いて、


「……でも、話してもいいです」


世古は、すぐには答えない。


でも、その沈黙は拒絶じゃない。


“考えている沈黙”だった。


やがて、小さく、


「……ありがとうございます」


それだけ。


それで、十分だった。



小さな公園。


ベンチ。

街灯ひとつ。


夜は深いけど、真っ暗じゃない。


「……少し、座ってもよろしいですか」


「……はい」


並んで座る。


少しだけ距離。


でも、その距離は“遠さ”じゃない。


綾は、静かに待つ。


世古が、自分のタイミングで話すのを。


やがて、ぽつりと。


「……この時期になると」


少しだけ間。


「昔のことを思い出します」


綾は、息を浅くする。


「……守れなかった人がいました」


前にも聞いた言葉。


でも、今日は違う。


その先が、続く。


「妻です」


空気が、少しだけ止まる。


「……子どももいました」


綾の胸の奥が、強く鳴る。


「育児ノイローゼでした」


説明は、それだけ。


でも、それで十分だった。


世古は続ける。


「気づいては、いました」


「……でも、踏み込めなかった」


その声は、変わらない。


でも、その変わらなさが逆に深い。


「間に合いませんでした」


それだけで、全部が分かる。


綾は、何も言えない。


言葉が、全部軽くなる。


代わりに、胸の奥に残る。


“遅れた一歩”の重さだけが。


世古は、少ししてから言う。


「……綾さんを見ていて、怖かったんだと思います」


綾は、顔を上げる。


「同じではありません」


きちんと線を引く。


「でも、遅れてはいけないと、思いました」


三千万円も。

頼ってほしいも。

全部、ここに繋がる。


綾は、その意味を受け取る。


優しさだけじゃない。

強さだけでもない。


“もう一度だけ遅れないため”の行動だったのだと。



沈黙。


長い沈黙。


綾は、何も言えないまま、

でも何もしないのも違う気がして、


少しだけ、息を整える。


(……どうしたらいい)


答えはない。


でも、一つだけ分かる。


あの夜、自分は救われた。


言葉じゃなくて、

ただ隣にいてもらったことで。


だから。


綾は、ゆっくりと身体を寄せる。


触れるか、触れないかの距離。


一瞬、迷う。


でも、止まらない。


そっと、腕を回す。


ほんの少しだけ。


壊れ物みたいに。


世古の身体が、ほんの一瞬止まる。


でも、離れない。


拒まれない。


綾は、少しだけ力を込める。


「……きーくん」


声が小さくなる。


「……大丈夫、じゃなくても」


言葉を選び直す。


「……一人じゃないです」


その一言が、静かに落ちる。


しばらくして。


本当にゆっくりと。


世古の肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。


ほんの少し。


でも、それが分かる。


綾の胸が、じんわりと熱くなる。


(……触れられた)


今まで、誰も触れなかった場所に。


やがて、世古の声。


「……ありがとうございます」


綾は、小さく首を振る。


「……違います」


ありがとう、じゃない。


ただ、ここにいたかっただけ。



少しして、腕をほどく。


ゆっくり。


急がず。


離れすぎないように。


世古は、前を向いたまま。


でも、横顔が少しだけやわらいでいる。


「……助かりました」


その言葉に、綾は少しだけ笑う。


「……よかったです」


それだけ。


それでいい。



帰り道。


さっきより、少しだけ距離が近い。


自然に。


無理じゃなく。


綾は、歩きながら思う。


支える人も、支えがいる。


当たり前なのに、

ずっと見えていなかったこと。


「……きーくん」


「はい」


「……これからも、頼ってください」


少しだけ間。


世古の目が、わずかにやわらぐ。


「……はい」


その“はい”は、今までと違う。


初めて、“受け取る側”のはい。



自動ドアの前。


あの音。


綾は、少しだけ立ち止まる。


今日の音は、少し違って聞こえる。


ただの音じゃない。


始まりでも、終わりでもない。


“同じなのに違う”音。


綾は、静かに息を吸う。


そして、思う。


この人の過去は消えない。

埋めることもできない。


でも。


隣に立つことはできる。


それだけで、少し変わる。


自動ドアが開く。


その音の中で、


綾は、ほんの少しだけ前を向いた。

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