外伝 守れなかった人
病院の廊下は、音が少なかった。
足音も、会話も、何かに遠慮しているみたいに小さい。
白い壁。
白い灯り。
整いすぎた静けさ。
綾は、診察室の前の長椅子に座っていた。
隣には父がいる。
少し離れた場所で、母が、まだ診察室の中にいる。
名前を呼ばれるまでの時間は、妙に長い。
時計を見ても、針はほとんど動いていない気がした。
父は何も言わない。
綾も、何も言えない。
ここ数日、少しずつ現実は動いていた。
母は入院した。
父は仕事に戻り始めた。
借金の整理も、清水が入ったことで輪郭が見え始めていた。
全部が解決したわけではない。
けれど、少なくとも前よりは、進んでいると思っていた。
進んでいる。
そう思いたかった。
診察室の扉が開いたのは、その少しあとだった。
看護師に呼ばれ、綾と父は立ち上がる。
医師の表情は、穏やかだった。
でも、その穏やかさが逆に、綾を少しだけ怖くさせた。
椅子に座る。
説明が始まる。
専門的な言葉。
検査の数値。
今後必要になる治療。
現状では長期的な対応が避けられないこと。
綾は、きちんと聞こうとした。
一つ一つ、頭の中に置いていこうとした。
でも、途中から言葉は、うまく意味にならなかった。
必要な治療。
継続的な管理。
転院や専門施設の可能性。
保険でまかなえない部分。
今後、家庭にかかる負担。
そして最後に、医師は具体的な数字を、なるべく柔らかい口調で告げた。
必要になる見込みの総額は、三千万円前後になること。
その瞬間、部屋の空気が、ほんの少しだけ傾いた気がした。
綾は、医師の口が動いているのを見ていた。
たぶん、そのあとも何か説明していた。
公的な制度のこと。
相談窓口のこと。
一部軽減できる可能性のある部分。
でも、もう駄目だった。
三千万円。
その数字だけが、頭の中に重く沈んだ。
十万でも百万円でもない。
一千万ですらなく、そのさらに先。
それは努力とか節約とか、そういう言葉の届かない額だった。
病院を出る頃には、外はもう夕方に変わっていた。
空は薄く曇っていて、明るいのか暗いのかも分からない色をしていた。
駅へ向かう道を、三人で歩く。
母は疲れているのか、あまり口を開かない。
父も無言だった。
綾は、その二人の少し後ろを歩いた。
足元を見る。
白い線。
割れたタイル。
誰かの落としたレシート。
顔を上げると、何かを見てしまいそうで嫌だった。
ようやく家に着いても、空気は少しも戻らなかった。
父がテーブルにつく。
母は静かに座る。
誰もテレビをつけない。
誰もお茶も入れない。
ただ、数字だけが、部屋の真ん中に置かれているみたいだった。
三千万円。
言葉にしなくても、全員が同じものを見ている。
父が最初に口を開いたのは、しばらくしてからだった。
「……無理だな」
短かった。
投げやりというより、事実を確認するみたいな声だった。
綾は、その声を聞いて、逆に何も言えなくなった。
父が弱音を吐いたからじゃない。
変に取り繕わなかったからだ。
無理だ。
そうだと思う。
綾も、同じことを思っていた。
借金を整理し始めたばかり。
父の仕事も、やっと戻り始めたところ。
母の治療と生活を支えるだけで精一杯なのに、その先に三千万円がある。
どう考えても、届かない。
母が、小さく笑うみたいに息を吐いた。
「そこまでしなくていいよ」
その言葉は、自分に言っているのか、家族に言っているのか分からなかった。
「できるところまでで、いいから」
綾は、その声が嫌だった。
優しさに聞こえるから。
諦めが、あまりにも静かだから。
怒ったり、泣いたり、誰かを責めたりできる方が、まだ救いがある。
でも平泉家は、そういう家じゃなかった。
だからこそ、絶望するときも静かだった。
父はテーブルを見ている。
母は視線を落としている。
綾も何か言わなきゃと思う。
思うのに、言葉が出てこない。
大丈夫。
何とかなる。
考えよう。
どれも嘘になる気がした。
綾は、その夜、自分の部屋に入ってからも電気をつけずにいた。
カーテンの隙間から入る街灯の色が、部屋の端だけをぼんやり照らしている。
スマートフォンを握る。
画面は暗いまま。
連絡を取ろうとは思わなかった。
いや、思えなかった。
これ以上、誰に何を頼るのか。
どこまでなら頼ってよくて、どこからが甘えなのか。
もう、その線すら分からなかった。
井上に母を診てもらった。
父の仕事は世古が用意した。
借金は清水が整理に入った。
それだけでも、十分すぎるくらいだった。
それなのに、三千万。
さすがに、そこまでは違う。
そこはもう、頼るとかそういう範囲じゃない。
(……終わった)
綾は、珍しくはっきりとそう思った。
終わった、というより。
ここから先は、どうしようもない。
どうしようもなさが、部屋の天井まで満ちていた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
暗い画面に、名前が浮かぶ。
世古 公士
綾は、一瞬だけ見つめた。
こんな時間に、向こうから連絡が来ることは珍しかった。
いつもは、綾が言葉を選んで送って、世古が静かに返す。
でも、今日は違う。
指先が、少しだけためらう。
それから画面を開く。
『少しだけ、お時間をいただけますか』
短い文だった。
その丁寧な言い方が、かえって胸に触れた。
綾は少し考えてから、
『はい』
とだけ返す。
返事はすぐに来た。
『今から近くまで伺います』
断る理由が思いつかなかった。
でも、来てもらって何を話すのかも分からない。
二十分ほどして、綾は家の外に出た。
夜の空気は思ったより冷えていて、息を吸うと少し胸が痛い。
家の前の道に、世古は立っていた。
いつも通り、整った姿。
でも今夜は、少しだけ影が深く見えた。
「……夜分に申し訳ありません」
最初にそう言う。
綾は首を横に振る。
「……いえ」
そのあと、二人とも少し黙った。
普段なら、その沈黙は苦しくない。
でも今日は違う。
綾は、先に言わなければいけない気がして、小さく口を開いた。
「……三千万、いるそうです」
それだけ言うのに、少し時間がかかった。
言葉にした瞬間、現実がもう一度、自分の前に置き直された気がした。
世古は表情を変えなかった。
驚きもしない。
軽く受け流しもしない。
ただ、まっすぐに受け取る。
「……そうですか」
静かな声。
それから少しだけ間を置いて、
「綾さん」
と、名前を呼んだ。
「はい」
「三千万円を、私に出させていただけませんか」
時間が止まったような気がした。
綾は、すぐに意味を理解できなかった。
聞き間違いかと思った。
でも、世古の顔はあまりにも静かで、冗談や勢いで言っているものではないと分かる。
「……何を、言ってるんですか」
声が少しだけ掠れた。
「そのままの意味です」
「そんなの、駄目です」
ほとんど反射だった。
そこだけは、すぐに言葉になった。
駄目だ。
それは違う。
頼るとか、助けてもらうとか、そういう範囲じゃない。
三千万円なんて、人の人生ごと受け取るような額だ。
綾の中で、何かが強く拒んだ。
世古は、否定しなかった。
でも、引かなかった。
「はい。綾さんがすぐに受け取れないことは分かっています」
「だったら」
「それでも、お願いしたくて来ました」
その“お願い”という言葉に、綾は少しだけ息を止めた。
お願い。
助けてやる、じゃない。
出してやる、でもない。
お願いしたい、と世古は言った。
夜は静かだった。
遠くで車の音がした。
誰かの家のテレビの音が、かすかに漏れている。
その全部が遠い。
綾は、世古だけを見ていた。
世古は少しだけ視線を落とし、それから、今まで綾に見せたことのない種類の沈黙を置いた。
整えるための間ではなく、何かを決めて、そこに触れるための間だった。
「……昔」
世古が、ゆっくりと言う。
「守れなかった人がいました」
綾は、何も言えなかった。
世古が、自分の過去を話すことはほとんどない。
あっても断片で、綾の手元に届く頃には、いつも角が丸くなっていた。
でも今の声には、丸められていないものがあった。
「大切な人でした」
短い文。
それなのに、簡単には続けられない重さがある。
「その人が苦しんでいることに、私は気づいていました」
世古は、前を見たまま話していた。
自分の言葉を、地面の上に一つずつ置くように。
「助けを求めていないように見えて、でも本当は、誰かが気づいて手を伸ばさないといけない状態だったと思います」
綾は、胸の奥がゆっくり冷えていくのを感じた。
それが誰なのか。
恋人なのか。
家族なのか。
友人なのか。
世古は言わない。
たぶん、そこは言わないままにする人だ。
でも、言わないからこそ、その人が世古にとってどれだけ重い存在だったのかが分かる。
「私は、そのとき」
世古の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「自分の立場や、距離や、相手の気持ちを考えすぎました」
綾は黙って聞いていた。
「出過ぎてはいけないと思ったんです。相手が望まないことをしてはいけないと。関係を壊してはいけないと」
夜風が吹いた。
綾の髪が少し揺れる。
「……でも、それは違いました」
世古が、ゆっくりと言う。
「本当に必要なときには、嫌われるかもしれないとか、重いと思われるかもしれないとか、そういうことより先に、手を伸ばさなければいけなかった」
綾の喉が、少し詰まる。
「私は、その人を守れませんでした」
その一言だけで充分だった。
死別なのか。
別れなのか。
取り返しのつかない何かなのか。
具体的には分からない。
でも、“守れなかった”という言葉の重さだけは、逃げようがなかった。
世古は、そこで少しだけ黙った。
それから、綾をまっすぐ見た。
「だから今度は、守りたいんです」
声は大きくない。
でも、揺れなかった。
「綾さんを、という意味ではありません」
一度、そこで言葉を切る。
「綾さんだけではなく、平泉家をです」
その言い方が、かえって誠実だった。
甘い言葉に逃げない。
恋愛の形にしない。
でも、はっきりと範囲を示す。
「今の状況で三千万円という数字は、個人の努力や覚悟で越えるには大きすぎます」
綾は、何も返せない。
「それを知っていて、見ているだけという選択は、私にはできません」
少しだけ、息を整えて、
「どうか、出させてください」
世古はそう言った。
「貸す形でも構いません。書面も作ります。返済についても、平泉さんのご負担にならない形を整えます。清水にも入ってもらえます。ですが」
そこで、世古はほんの少しだけ声を柔らかくした。
「今回だけは、理屈より先に、お願いしたいんです」
綾の目の奥が熱くなった。
泣きたいわけじゃない。
感動したからでもない。
あまりにも重くて、まっすぐで、逃げ道のない言葉を置かれたからだった。
綾は、唇を開く。
「……そんなの」
声が揺れる。
「そんなの、受け取れません」
「はい」
世古はすぐに否定しない。
「簡単には受け取れないと思います」
「当たり前です……そんな額」
「はい」
「返せるかも分からないし、私たち、そんな」
そこから先が続かない。
そんな資格はない。
そんな関係じゃない。
そんなふうに守られる立場じゃない。
言いたいことはいくつもあるのに、全部が途中で崩れる。
世古は静かに聞いていた。
そして、少しだけ歩幅を近づける。
それでも、触れはしない。
「綾さん」
「……はい」
「これは、見返りではありません」
その言葉が、綾を少しだけ救った。
「恩を返してほしいわけでも、関係を縛りたいわけでもありません」
はっきりと切り分ける。
「私が、そうしたいからです」
綾は、目を閉じたくなった。
まっすぐすぎる。
逃げ場がない。
「……ずるいです」
気づくと、そんな言葉が出ていた。
世古が、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「はい。かもしれません」
綾は、その答えに余計につらくなる。
否定してくれた方が楽だった。
でも世古は、誠実なままそこに立っている。
「……私」
綾は、息を吸う。
「もう、諦めかけてたんです」
それは、今日初めて口にする本音だった。
「母のことも、父のことも、全部。三千万って聞いた瞬間、あ、もう無理だって思って……」
声が揺れる。
でも止めない。
「考えるのも嫌で、何も言えなくて、でも誰にも言えなくて」
世古は黙って聞いている。
その静けさが、今夜は痛いくらい優しい。
「……それでも、いいんですか」
綾が言う。
「こんなふうに、諦めかけてる私でも」
ほんの少しだけ、間があく。
世古は、すぐに答えた。
「はい」
迷いがなかった。
「むしろ、そういうときだからこそです」
綾は、とうとう視線を落とした。
街灯の光が、足元の影を薄く伸ばしている。
泣きたくない。
泣くと、何かを受け入れてしまいそうで嫌だった。
でも、胸の奥でずっと張っていたものが、少しずつ緩んでいく。
「……きーくん」
呼びかけるつもりはなかった。
でも、出た。
世古は少しだけ目を細める。
「はい」
いつもの、その静かな返事。
綾は唇を噛んで、それからやっと言った。
「……怖いです」
「はい」
「受け取るのも怖いし、受け取らないで後悔するのも怖いです」
「はい」
「こんなの、人生が変わるじゃないですか」
「変わると思います」
あまりにも正直な答えだった。
綾は少しだけ笑ってしまう。
苦しいのに、ほんの少しだけ。
「……ほんとに、ずるい」
「申し訳ありません」
その“申し訳ありません”に、わずかに熱があった。
綾は、しばらく黙った。
家の中では、今も父と母が、それぞれの沈黙の中にいる。
病院の白い廊下。
三千万という数字。
無理だな、と言った父の声。
その全部を思い出す。
そして、その前に立っている世古を見る。
この人は、たぶん自分の過去をここまで出してまで何かを頼んだことが、あまりない。
それでも今、立っている。
逃げずに。
押し付けずに。
でも、引かずに。
綾は、ゆっくりと息を吐いた。
「……一人じゃ、決められません」
「はい」
「父にも話します。母にも」
「はい」
「それで……みんなで決めても、いいですか」
世古は、静かに頷いた。
「もちろんです」
その答えに、綾は少しだけ肩の力を抜いた。
今すぐ受け取る、と言えたわけじゃない。
でも、拒絶だけで終わらなかった。
それだけで、今夜は充分だった。
帰る前に、世古はもう一度だけ言った。
「綾さん」
「……はい」
「今度こそ、守りたいんです」
大きな声ではなかった。
むしろ、ひどく静かだった。
でも、その一言は、夜のどこよりも深く響いた。
綾は、すぐには返事ができなかった。
ただ、小さく頷く。
それが精一杯だった。
世古が去っていく背中を見送りながら、綾はまだ胸の中に三千万という重さを感じていた。
現実は何一つ軽くなっていない。
明日になれば、また同じ数字が目の前にある。
それでも。
(……終わってなかった)
さっきまで、天井まで満ちていた“どうしようもなさ”に、ほんの少しだけ隙間ができている。
希望、と呼ぶにはまだ早い。
そんな綺麗なものじゃない。
でも確かに、絶望だけではなくなっていた。
それは、誰かが大きなお金を出そうとしているからだけじゃない。
守れなかった過去を抱えたまま、それでも今度は守りたいと言ってくれた人がいたからだ。
その事実が、綾の胸の奥に、火の消えかけた場所をそっと照らしていた。




