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外伝 受け取るということ

玄関の扉を開けたとき、家の中はまだ起きていた。


灯りはついているのに、音は少ない。


母の咳も、父の足音もない。

ただ、人が眠っていない家の静けさだけがあった。


綾は靴を脱いで、少しだけ立ち止まる。


さっきまでの世古の言葉が、まだ胸の中に残っている。


三千万円を出させてほしい。

どうか、出させてください。

今度こそ、守りたいんです。


一つ一つの言葉が重すぎて、うまく整理できない。


それでも、もう引き返せないところまで来ていることだけは分かった。


リビングに入ると、父はまだテーブルに座っていた。


母はソファに浅く腰かけている。


二人とも着替えてはいたけれど、眠る準備をした人の顔ではなかった。

今日一日を終わらせることができずに、そのまま夜の中に座っている顔だった。


綾は、少しだけ迷ってから椅子を引いた。


父が顔を上げる。


「……まだ起きてたのか」


「うん」


それだけ返して、綾は座る。


母が、少しだけ綾の方を見る。

心配そうな目だった。

でも、その心配をどう言葉にしていいか分からない人の目でもあった。


テーブルの上には何もない。

お茶も出ていない。

新聞もない。

ただ木目だけが見えていて、その空っぽさが逆に、この家の余裕のなさを表しているみたいだった。


しばらく、誰も口を開かなかった。


綾は、自分が話さなければいけないと分かっていた。

分かっているのに、喉が動かない。


今日、病院で数字を聞いたときよりも、今の方が怖い気がした。


あのときは絶望だけでよかった。

でも今は違う。


希望みたいなものが、少しだけ差し込んでしまったから。


それを口に出すことは、家族の前にもう一つの現実を置くことになる。

しかも、その現実は重い。


救いにも見えるし、負債にも見える。

優しさにも見えるし、介入にも見える。


どう言えばいいのか分からない。


父が先に口を開いた。


「……綾」


低い声だった。


「何かあったのか」


綾は、その一言に少しだけ息を詰まらせた。


父は、たぶん分かっている。

帰ってきてからの綾の様子が、いつもと違うこと。

何かを持って帰ってきて、それをまだ置けずにいること。


綾は、指先をそっと握る。


「……さっき」


声が少しだけ掠れた。


「公士さんから、連絡があった」


父の眉が、ほんの少し動く。


母は、その名前を聞いてすぐには何も反応しなかった。

でも、綾が今こうして話し始めた相手が誰なのかは、ちゃんと分かったらしかった。


「……世古さんが?」


父が確認するように言う。


「うん」


また少し沈黙が落ちる。


綾は、言葉を選ぶ。

いや、選びきれないまま、それでも先に進めるしかなかった。


「母さんのこと、井上先生に繋いでくれたでしょ」


「……ああ」


「父さんの仕事も、借金の整理も」


父の表情は変わらない。

でも、その沈黙の中に複雑なものがあるのが分かる。


恩義。

警戒。

情けなさ。

ありがたさ。

全部が混ざっていて、一言では扱えない顔だった。


綾は、そこで一度だけ目を伏せる。


それから、言った。


「三千万円、出させてほしいって」


空気が、止まった。


父はしばらく瞬きもしなかった。

母も、すぐには理解できなかったみたいに、綾の顔を見ている。


「……何を」


父がようやく口を開く。


「何を言ってるんだ」


怒鳴るわけではない。

でも、声の奥が硬い。


綾は、その反応が当然だと思った。


「私もそう思った」


「いや、そういうことじゃないだろ」


父が、少しだけ前に身を乗り出す。


「三千万だぞ」


「分かってる」


「分かってるなら」


そこで父の言葉が切れる。


続きが出てこない。

出てこないというより、出してしまったら何かが壊れると分かっているみたいだった。


母が、小さく口を開いた。


「……そんなの、受けられないよ」


静かな声。


でも、その静けさがひどく痛かった。


「そこまでしてもらうなんて、駄目だよ」


綾は、母のその言葉に、昼間病院で聞いたものと同じ匂いを感じた。


できるところまででいい。

そこまでしなくていい。

そうやって、自分の命や生活の重さを小さくしてしまう言い方。


綾は、それが嫌だった。

でも同時に、自分も同じことを思っていた。


受けられない。

普通は、そうだ。


父が、テーブルに視線を落としたまま言う。


「……見返りは?」


綾は顔を上げる。


「ないって言ってた」


「そんなわけあるか」


「ほんとに、そう言ってた」


父は、短く息を吐いた。


「人が三千万出すんだぞ。見返りがないなんて、そんな綺麗な話あるかよ」


その言い方は、世の中を知っている人の声だった。

信じたいのに信じきれない人の声でもあった。


綾は、少しだけ唇を噛む。


「書面も作るって。貸す形でもいいって。清水さんにも入ってもらうって」


父がそこで初めて、少しだけ顔を上げる。


清水の名前は、父にとって“現実の線を引ける人”としてもう入っているらしかった。


「……それでも」


父は言う。


「それでも、異常だ」


「うん」


綾も否定しない。


異常だ。

その通りだった。


三千万なんて、誰かの人生の予定を変える額だ。

人の好意で簡単に受け取っていい数字じゃない。


でも。


綾は、そこで少しだけ息を整える。


「……公士さんね」


自分でも驚くくらい、静かな声が出た。


「昔、守れなかった大切な人がいたって言ってた」


父も母も、黙る。


「そのとき、自分の立場とか距離とか、考えすぎたって。必要なときに手を伸ばせなかったって」


母の指先が、膝の上でそっと重なる。


「だから、今度こそ守りたいって」


そこまで言って、綾は少しだけ声を失った。


自分がその言葉をもう一度口にすると、世古の顔が、夜の道の上で静かに立っていた姿が鮮明に戻ってきてしまう。


あれは同情ではなかった。

勢いでも、支配でもなかった。


あの人なりの、後悔の延長にある願いだった。


父が、ゆっくりと椅子にもたれ直す。


その顔には、まだ警戒が残っている。

でも、それだけではなくなっていた。


「……お前は、どうしたい」


綾は、その問いにすぐには答えられなかった。


ずっと、誰かの様子を見てきた。

母の体調。

父の仕事。

家計。

借金。

必要なこと。


でも、“自分はどうしたいか”と正面から聞かれると、まだ少し怖い。


それでも、今は逃げたくなかった。


「……受けたい」


自分の声が、思ったよりもはっきりしていた。


父の目が少しだけ見開く。

母も、綾を見る。


綾は、その視線を受け止めたまま続けた。


「怖いし、申し訳ないし、こんなの変だと思う。でも」


そこまで言って、喉が少しだけ震える。


「諦めたくない」


母の顔が、少しだけ揺れた。


「今日、病院で三千万って聞いたとき、もう無理だって思った」


その言葉は、部屋の真ん中にそのまま置かれた。


「ほんとは、もう諦めかけてた」


父は何も言わない。

母も黙っている。


綾は、その沈黙が責めるものではないと分かっていた。

だから続けられた。


「でも、諦めたまま終わるのは嫌」


涙が出そうになる。

でも、泣き崩れるほどではない。

ただ、自分の本音がやっと形になっていく感じだった。


「もし受けるなら、ちゃんとした形にしたい。借りるなら借りるで、返す前提で。清水さんにも入ってもらって。父さんにも母さんにも、ちゃんと納得してほしい」


母が、そっと視線を落とす。


「……綾」


小さな声だった。


「そんなに背負わなくていいよ」


綾は、その言葉に首を横に振った。


「背負うんじゃないよ」


少しだけ、言い方が強くなる。


でも不思議と、怒ってはいなかった。


「選ぶの」


その一言で、綾自身が少しだけはっとした。


自分で言って、自分で意味を受け取った。


背負うことと、選ぶことは違う。

押しつぶされることと、引き受けることも違う。


父が、その言葉を聞いて長く息を吐いた。


「……俺はな」


低い声。


「情けないよ」


母がわずかに顔を上げる。


「借金作って、家をこうして、仕事もやっと戻り始めたばっかりで、娘にこんなこと言わせて」


その声は荒れていない。

ただ、ひどく静かだった。


「本当なら、俺が断らなきゃいけない話だと思う」


綾は何も言わない。


たぶん、それは本心だ。

父親としての意地もある。

筋の問題もある。


「でも」


父はそこで止まる。


手元を見て、それから少しだけ顔を上げる。


「無理なもんは、無理だ」


昼間と同じ言葉だった。

けれど、今度は諦めだけではなかった。


「三千万なんて、今の俺たちじゃ届かない」


母が、小さく目を閉じる。


「……だからって、甘えていいのかな」


その呟きは、自分自身への問いみたいだった。


綾は、少しだけ考えてから言う。


「甘えるっていうか」


言葉を探す。


「……助けてもらうことを、ちゃんと引き受けるってことだと思う」


母がゆっくり綾を見る。


「引き受ける……」


「うん」


綾は頷く。


「軽く受け取るんじゃなくて。重いって分かった上で、それでも受けるか、受けないかを決める」


その言葉は、自分に言っているようでもあった。


しばらく、誰も話さなかった。


静かな夜だった。

外から、バイクの音が一度だけ通り過ぎる。

冷蔵庫の低い音が、かすかに聞こえる。


そのどれもが日常の音なのに、今は妙に遠い。


やがて父が、ゆっくりと言った。


「……会って話すか」


綾が顔を上げる。


「世古さんと」


その名前を父が口にするのを、綾は初めて聞いた気がした。


「俺も母さんも、一回、ちゃんと話を聞く」


母は少し驚いた顔をしたけれど、反対はしなかった。


父は続ける。


「その上で決めよう」


母が、しばらくしてから静かに頷く。


「……うん」


それは、全面的な賛成ではない。

でも、拒絶でもなかった。


それだけで、綾の胸の奥が少しだけゆるむ。


終わっていなかった。

まだ、決まってはいない。

けれど、家族は同じテーブルにこの話を置くことを選んだ。


それは、とても大きなことだった。


綾は、テーブルの上でそっと手を握る。


父も母も、まだ苦しい顔をしている。

当然だと思う。


三千万という現実は、少しも軽くなっていない。


それでも今、この家の中には、昼間とは違うものがあった。


絶望だけじゃない。


選ぶための時間。

話すための余白。

そして、誰かの手を借りるかもしれないという、まだ名前のつかない可能性。


母が、ぽつりと言う。


「……変な人だね」


その言葉に、綾は少しだけ笑いそうになる。


父も、鼻で小さく息を吐いた。


「変だな」


否定ではない声だった。


綾は、ほんの少しだけ口元を緩める。


「うん」


それしか言えない。


でも、その“うん”には、ずいぶんいろんな意味が入っていた。


変な人。

誠実な人。

ずるい人。

引かない人。

そして、今度こそ守りたいと言った人。


夜はまだ深かった。

何も解決していない。

明日になれば、また病院のことも、お金のことも、父の仕事のこともある。


けれど。


綾は、その夜初めて、自分の部屋に戻る足取りが少しだけ軽いことに気づいた。


スマートフォンを開く。


世古からのメッセージは来ていない。

急かさないのだろう。


綾は、短く打つ。


『父と母に話しました。二人とも、一度きちんとお話を聞きたいそうです』


少しだけ見つめてから、送信する。


すぐには返事が来ない。

でも、それでよかった。


やがて画面が震える。


『ありがとうございます』


そのあと、少し間を置いて、もう一通。


『ご家族にとって、大切な話だと思います。私も、誠実にお話しします』


綾は、その文を静かに見つめる。


それから、ゆっくりと指を動かした。


『……きーくん』


そこまで打って、少しだけ止まる。


こんなふうに文字にするのは初めてだった。


胸が少しだけ鳴る。


でも、消さない。


続けて打つ。


『ありがとう』


送る。


たったそれだけのメッセージなのに、送信したあとで、心のどこかが少しだけ熱くなる。


返事はすぐだった。


『はい』


いつも通りの、短い返事。


でも今夜は、それがひどくやわらかく見えた。


綾はベッドに腰かけ、スマートフォンを伏せる。


希望、というにはまだ早い。

そんな綺麗な段階じゃない。


でも少なくとも、諦めだけではなくなった。


誰かの手を借りるかもしれない。

家族で決めるかもしれない。

受け取るという、重い選択をするかもしれない。


その全部が、まだ途中だ。


それでも、途中であることそのものが、今夜は少しだけ救いだった。

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