外伝 火のある場所
火のある場所
夜は、少しだけ深くなっていた。
ベンチの上で、綾は肩の力を抜いたまま、しばらく動けずにいた。
さっきまでの言葉が、まだ胸の中に残っている。
(……きついです)
それだけの言葉。
でも、それを出したことで、何かが少しだけ変わった。
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隣で、世古が静かに座っている。
何も聞かない。
何も押し付けない。
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その沈黙が、やわらかい。
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しばらくして、世古が口を開く。
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「……一つ、提案してもよろしいですか」
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少しだけ、意外な言い方だった。
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綾は、顔を上げる。
「……はい」
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世古は、ほんのわずかに間を置く。
言葉を選んでいる。
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「……お母さまの件ですが」
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心臓が、少しだけ強く鳴る。
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「医療的に、一度しっかり診てもらう方が良いと思います」
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穏やかな声。
断定しない。
でも、曖昧でもない。
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「……知り合いに、医師がいます。井上といいますが」
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名前が置かれる。
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「もしよろしければ、私から連絡を取ります」
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“やります”じゃない。
“どうですか”でもない。
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“置く”。
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綾は、すぐに答えられない。
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(……入院)
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その言葉が、重く響く。
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母がいなくなる時間。
家の空気が変わる。
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(……怖い)
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でも、
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(……必要かもしれない)
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沈黙が流れる。
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世古は、急かさない。
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「……父のことも」
世古が続ける。
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「仕事は、こちらで段取りできます」
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“こちら”。
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誰かがいる言い方。
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「借入については、清水が整理できます」
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また一つ、名前が置かれる。
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「違法な部分は、排除します」
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淡々とした言葉。
でも、その中に確かな力がある。
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「……全部、こちらで進めることもできます」
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少しだけ間。
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「ですが」
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視線が、綾に向く。
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「……最終的には、綾さんが選んでください」
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その言葉で、
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全部が止まる。
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(……選ぶ)
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逃げ場はない。
でも、
押し付けられてもいない。
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ただ、
選ぶ位置に、立たされている。
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綾は、ゆっくり息を吸う。
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胸の中の不安と、少しだけ向き合う。
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(……怖い)
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(……でも)
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(……動いてる)
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「……お願いします」
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小さく言う。
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「……母のことも、父のことも」
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声が、少しだけ揺れる。
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でも、
止めない。
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「……私、一人じゃ、ちゃんと選べないから」
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その言葉に、
少しだけ空気が変わる。
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世古は、ほんの少しだけ目を伏せる。
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「……ありがとうございます」
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その一言は、
少しだけ重かった。
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そして、
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「……頼りにしていただいて構いません」
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珍しく、
はっきりとした言葉。
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綾は、一瞬だけ息を止める。
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(……今の)
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今までの世古は、
“道を置く人”だった。
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でも、
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今は少し違う。
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(……一緒にいる人)
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「……はい」
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小さく、答える。
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それで、十分だった。
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数日後。
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母は、井上の手配で入院した。
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説明は丁寧で、無理がなかった。
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不安は消えない。
でも、
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(……任せられる)
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そう思えた。
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父は、仕事に出るようになった。
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小さな現場。
でも、確かな仕事。
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夜には、紙と数字を前に座る姿が増えた。
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清水が入ったことで、
借入の形も変わっていく。
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完全には終わっていない。
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でも、
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(……進んでる)
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綾は、それを見ている。
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同じ場所で。
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同じ目線で。
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そして、
その週の終わり。
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「……よろしければ」
世古が言う。
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「今度、少し外に出ませんか」
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少しだけ違う誘い方。
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「……知人が集まります」
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綾は、少し考える。
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知らない人。
知らない場所。
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(……怖い)
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でも、
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(……大丈夫かもしれない)
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「……行きます」
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その言葉は、
前よりも自然に出た。
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山の中だった。
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空気が、違う。
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少し冷たくて、でも軽い。
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テント。
焚き火。
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人の声。
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「おー、来たか」
大きな声がする。
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山下だった。
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笑っている。
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「初めまして、井上です」
柔らかい声。
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医師らしい、落ち着き。
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「清水です」
短い言葉。
でも、無駄がない。
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「谷河だよ」
少し軽い声。
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でも、目はちゃんとしている。
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それぞれが、そこにいる理由が分かる気がした。
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火が揺れる。
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食事の匂い。
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笑い声。
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最初は、少しだけ戸惑う。
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でも、
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誰も無理に関わってこない。
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ただ、
そこにいることを許してくれる。
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「綾さん、これ」
山下が皿を差し出す。
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「……ありがとうございます」
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受け取る。
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焚き火の前で、座る。
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世古が、少し離れたところにいる。
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でも、
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(……いる)
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それだけで、安心する。
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「でさー、その時さ」
谷河の声。
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笑いが起きる。
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綾も、少しだけ口元が緩む。
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(……あ)
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笑ってる。
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久しぶりに、
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ちゃんと。
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焚き火の音が、はぜる。
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夜が、少しだけ深くなる。
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何も解決していない。
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全部、途中。
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それでも、
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(……ここにいる)
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それだけで、
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少しだけ、あたたかかった。




