特別編 呼ぶ理由
夜の店内は、少しだけ重かった。
いつもと同じはずなのに、空気がうまく流れていない気がする。
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ピッ。
袋。
会計。
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手は動く。
止まらない。
間違えない。
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でも、
(……息が浅い)
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理由は分かっている。
母の調子が良くない。
父の仕事も、まだ不安定。
小さなズレが、少しずつ積み重なっている。
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(……大丈夫)
そう思う。
いつも通り。
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でも、
(……少しだけ、きつい)
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閉店。
最後の客を見送る。
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自動ドアが閉まる。
あの音。
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静かになる。
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(……帰ろう)
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そう思う。
でも、
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足が、動かない。
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ポケットの中。
指が触れる。
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小さな紙。
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「必要なことを選ぶ」
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(……何が、必要)
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スマートフォンを取り出す。
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画面を開く。
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“公士さん”
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指が止まる。
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(……いいのかな)
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頼ること。
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それは、楽になること。
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でも、
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(……負担にならないかな)
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少しだけ、目を閉じる。
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(……違う)
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この人は、
押し付けても、壊れない。
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でも、
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(……押し付けたくない)
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その間で、揺れる。
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(……選ぶ)
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メッセージを打つ。
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「……少しだけ、お時間ありますか」
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送る。
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すぐに既読。
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「はい。大丈夫です」
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それだけ。
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理由は聞かない。
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でも、
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来る。
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店の外に出る。
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夜の空気。
少しだけ冷たい。
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数分後、
足音が近づく。
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世古が、来る。
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「……お疲れさまです」
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「……すみません」
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思わず出る言葉。
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「いえ」
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短く、返る。
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それ以上、何も言わない。
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並んで歩く。
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言葉は、すぐに出ない。
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でも、
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急かされない。
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それだけで、少し楽になる。
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少し歩いて、
綾が、口を開く。
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「……あの」
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止まる。
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言葉が、うまく出ない。
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(……言えない)
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胸の奥で、何かが詰まる。
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でも、
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逃げたくない。
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(……選ぶ)
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「……きついです」
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それだけ。
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でも、
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ちゃんと出た。
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世古は、少しだけ間を置く。
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「……そうですか」
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それだけ。
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慰めない。
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でも、
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離さない。
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その距離が、
少しだけ、救いになる。
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歩く。
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静かに。
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綾の中で、
何かがほどけていく。
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(……言えた)
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それだけで、
少し軽い。
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ベンチに座る。
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夜。
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静か。
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少しして、
綾が、ぽつりと言う。
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「……ありがとうございます」
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世古が、静かに頷く。
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「いえ」
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そのとき、
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ほんの少しだけ、
言葉がこぼれる。
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「……きーくん」
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自分で、止まる。
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(……あ)
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言ってしまった。
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空気が、少しだけ変わる。
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世古は、動かない。
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でも、
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否定しない。
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ほんの少しだけ、
視線がやわらぐ。
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「……はい」
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それだけ。
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でも、
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その“はい”が、
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さっきまでと、違う。
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受け取っている。
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綾は、少しだけ視線を落とす。
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「……すみません」
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「いえ」
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短く返る。
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「……そのままで構いません」
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その一言で、
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すべてが決まる。
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綾は、ほんの少しだけ息を吐く。
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(……いいんだ)
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それだけで、
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少し、やわらぐ。
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夜は、変わらない。
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現実も、変わらない。
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でも、
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(……頼れた)
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(……呼べた)
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それだけで、
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少しだけ、進んでいた。




