特別編 名前の距離
夜の風が、少しだけやわらいでいた。
昼間よりも、人が少ない。
音も、少ない。
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並んで歩く。
もう、無理に距離を測らなくなっている。
近すぎず、遠すぎず。
自然に、そこにある距離。
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「……今日は、静かですね」
綾が言う。
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「そうですね」
世古が返す。
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それだけ。
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でも、
それで足りている。
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少し歩いて、
綾は、ふと気づく。
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(……まだ)
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名前を、呼んでいない。
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「世古さん」で止まっている。
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それが、この距離。
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でも、
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(……もう少し)
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足が、少しだけゆっくりになる。
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呼吸が、ほんの少し深くなる。
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(……選ぶ)
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「……あの」
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声をかける。
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世古が、静かに視線を向ける。
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「はい」
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待つ。
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急かさない。
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「……名前で、呼んでもいいですか」
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言ってから、
少しだけ、驚く。
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(……言った)
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世古は、ほんの少しだけ間を置く。
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考えている。
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拒まない。
でも、軽くも扱わない。
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「……構いません」
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静かな声。
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それだけ。
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でも、
その一言が、少しだけ重い。
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綾は、息を整える。
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(……選ぶ)
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「……公士さん」
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一瞬、
空気が変わる。
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音が、少し遠くなる。
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自分の声なのに、
少しだけ、違って聞こえる。
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世古は、何も言わない。
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でも、
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ほんの少しだけ、
視線がやわらぐ。
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「……はい」
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それだけ返す。
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でも、
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その“はい”が、
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さっきまでと、少し違う。
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呼ばれたことを、
ちゃんと受け取っている声。
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綾は、少しだけ視線を落とす。
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(……変わった)
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何かが。
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でも、
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(……いい)
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少しだけ歩く。
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今度は、
自然に言葉が出る。
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「……公士さんは」
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途中で止める。
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(……呼べた)
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それだけで、
少しだけ、満たされる。
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世古は、何も言わない。
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急かさない。
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綾も、それ以上続けない。
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沈黙。
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でも、
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さっきとは違う。
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名前が、間にある。
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それだけで、
距離が少し変わる。
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店の前に着く。
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自動ドアの前。
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あの音が鳴る直前。
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「……ありがとうございました」
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「こちらこそ」
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ほんの少し、間。
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綾が、もう一度だけ言う。
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「……公士さん」
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呼ぶだけ。
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意味は足さない。
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世古が、静かに頷く。
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「はい」
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それで、十分だった。
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自動ドアが開く。
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あの音。
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同じなのに、
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少しだけ、近い。




