特別編 手の中のもの
玄関を開けると、いつもと同じ匂いがした。
少し湿った空気と、夕飯の残り香。
変わらないはずの家。
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「……ただいま」
小さく言う。
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「おかえり」
奥から、父の声が返ってくる。
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一瞬だけ、足が止まる。
(……いる)
当たり前のことなのに、少しだけ違和感がある。
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リビングに入る。
父が座っている。
テーブルの上に、紙が広がっている。
見慣れないもの。
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「……それ」
綾が言う。
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父は、少しだけ視線を上げる。
「ああ……仕事のやつだ」
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それだけ。
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でも、
その言い方が、少し違った。
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“言い訳”じゃない。
“説明”でもない。
ただ、事実として置いている感じ。
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綾は、テーブルに近づく。
紙を見る。
簡単な図面。
寸法の数字。
書き込み。
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(……ちゃんとしてる)
思わず、そう感じる。
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昔、見たことがある。
まだ、父が普通に働いていた頃。
同じように、紙に何かを書いていた。
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でも、あのときとは違う。
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少しだけ、慎重で。
少しだけ、丁寧で。
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「……明日、現場なんだ」
父が言う。
「小さい仕事だけどな」
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自嘲でも、強がりでもない。
ただ、置くような言い方。
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「……そうなんだ」
綾も、それ以上は聞かない。
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聞かなくても、分かる気がした。
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“始めている”
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それだけで、十分だった。
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「飯、あるぞ」
父が立ち上がる。
キッチンに向かう。
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その背中を見る。
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少しだけ、小さく見える。
でも、
(……前より、ちゃんとしてる)
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うまく言えない。
でも、そう思った。
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テーブルの上に、紙が残る。
図面。
鉛筆。
消しゴム。
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綾は、少しだけ手を伸ばす。
紙の端に触れる。
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(……現実)
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逃げられないもの。
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でも、
(……動いてる)
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ほんの少しだけ。
でも、確かに。
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父が戻ってくる。
皿を置く。
「ほら」
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「……ありがとう」
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言葉にする。
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少しだけ、間があく。
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父が、軽く頷く。
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それだけ。
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会話は続かない。
でも、途切れている感じもしない。
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食事の音だけが、静かに続く。
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(……同じなのに)
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何かが違う。
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その違いは、小さすぎて言葉にならない。
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でも、
(……それでいい)
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そう思えた。
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食べ終わる。
父が皿を持って立つ。
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その手が、少しだけ荒れているのに気づく。
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(……戻ってる)
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前と同じじゃない。
でも、
違う形で、戻っている。
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綾は、何も言わない。
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言わなくても、いい気がした。
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ただ、
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(……じゃあ、私も)
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小さく、そう思う。
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それは、決意でもない。
覚悟でもない。
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ただの、
選択だった。




