15-8 約束の場所へ
その日は、風に踊る若葉が街中を新緑の香りで満たしていた。
ルシは断崖のログハウスの玄関で、使い古された魔導鞄ではなく、リーフと二人分の食料を詰めた軽やかな籠を肩に提げていた。
「ルシ、準備できたわ! 見て、このお弁当。 頑張って作ったんだから」
扉を開けて現れたリーフは、柔らかなクリーム色のワンピースを纏っていた。
風になびくリボンは、先日ルシが実用性を説きながらも結局彼女が選んだ、あの空色のものだ。
「ああ、行こうか。 ……今日は長い一日になりそうだ」
二人が向かったのは、かつての旅の道中、血生臭い戦いや凍りつくような緊張感の中で交わした、些細な約束の場所だった。
一つ目は、丘の上にある虹色の果実が実る樹の下。
「いつか平和になったら、一番甘い実を二人で食べよう」
ボロボロになりながら撤退していたあの日、空腹を紛らわすためにリーフが口にした小さな願い。
ルシは一番瑞々しい実をもぎ、丁寧に皮を剥いて彼女に手渡した。
「……甘い。 あの時想像していたよりも、ずっとずっと甘いわ、ルシ」
二つ目は、エリュシオンを一望できる静寂の岬。
二人は岬の先端に腰を下ろし、語らうこともなく、ただ寄せては返す波の音に耳を傾けた。
以前のルシなら、波の周波数を解析し、海流のエネルギー効率を計算していただろう。
だが今は、ただ隣にいるリーフの肩の温もりと、潮風の香りを、一つの「体験」として心に刻んでいた。
そこにはもう、解くべき数式も、警戒すべき魔力反応も存在しない。
そして最後は、街の外れにある名もなき廃教会の裏庭。
夕闇が降り、庭一面に銀色の月見草が、まるで呼吸を合わせるように静かに開き始める。
「もし、本当に明日が来るなら。 この花が咲く庭で、お茶を飲みましょう」
世界樹の深層へ向かう前夜、絶望に呑まれそうだった二人が交わした、最も守れる保証のなかった約束。
ルシは持参した魔導コンロで静かにお湯を沸かし、リーフが選んだ茶葉を淹れた。
「……ようやく、全部叶ったな。 リーフ」
湯気の向こうで、リーフは花々の光に照らされ、幻のように美しく微笑んでいた。
かつての二人は、魔導の契約者と器という、あまりに無機質な関係から始まった。
システムを動かすための部品、世界を修正するための道具。
そんな記号のような繋がりが、死線を越えるたびに体温を持ち、今や名前のつけようのない絆へと変わっていた。
「ねえ、ルシ。 覚えている?
初めて会った時、あなたは私のことを『論理的ではない存在だ』って切り捨てたのよ」
「……言ったかもしれないな。 当時の俺には、君の行動一つ一つが予測不能なエラーのように見えていたんだ」
「ひどい。 でも、今はどう? 私のこと、少しは予測できるようになった?」
リーフが茶杯を置き、いたずらっぽく顔を近づけてくる。
ルシは答えに窮し、視線を泳がせた。
世界の理を書き換え、神の思考さえ先読みした男が、目の前の少女の次の言葉だけがどうしても計算できない。
だが、その計算の不成立こそが、今の彼にとって最大の幸福だった。
「いや……相変わらず、君のことはさっぱり分からない。
次に何を言い出すか、なぜ笑うのか。 ……けど」
ルシは意を決したように、彼女の少し冷えた手を、自分の大きな手で包み込んだ。
それは魔力の共有でも、契約の更新でもない。
ただ、一人の男として、一人の女性に触れたいという、あまりに原始的で、あまりに純粋な欲求。
「分からないからこそ、もっと知りたいと思っている。
……管理者でも、魔導師でもない、ただの男として、君の隣にいたいんだ」
リーフの瞳から、一粒の雫がこぼれ落ちた。
それは月の光を反射して、どんな宝石よりも美しく輝く。
「……遅いわよ、ルシ。 私はもう、ずっと前からそうなのに」
重なり合う体温。
二人の距離は、もはや契約という言葉では説明できないほど、密やかに、そして深く近づいていた。
かつて世界を救うために走り続けた日々。
そのすべての苦労は、今この瞬間にリーフが浮かべた、幸せそうな溜息のためにあったのだと、ルシは確信した。
有給休暇という名の、人生を取り戻す旅。
その旅路でルシが見つけた最大の宝物は、神の知識ではなく、隣で微笑む彼女の温度だった。
「明日も、明後日も、約束をしましょう。 ルシ」
「ああ。 ……一生かかっても終わらないくらいの約束を、積み上げていこう」
銀色の花園で、二人の影がゆっくりと重なっていく。
それは世界で一番、静かで、幸福な計算外のひと時だった。
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