15-7 右腕の「絆」
その夜、ルシは断崖に立つ自宅のテラスに出ていた。
エリュシオンの街は寝静まり、眼下には港の灯台が規則正しく海を照らす光だけが揺れている。
隣で眠るリーフの穏やかな寝息を背中に聞きながら、彼は夜風に右腕を晒していた。
ふとした瞬間、右腕の紋様が熱を持った。
かつてそれは、心臓を鷲掴みにされるような激痛と共に、彼の意識を管理者という名の孤独な玉座へ引きずり出す強制介入の合図だった。
だが、今の熱は違った。
(……温かいな)
ルシは右腕をそっと撫でた。
紋様は淡く、まるで呼吸をするように柔らかな琥珀色の光を放っている。
目を閉じれば、回路を通じて伝わってくるのは、無機質な魔力ログではない。
新しく書き換えた地脈を流れる、名もなき人々の、ささやかで力強い生活の残響だ。
パンを焼く窯の熱気。
赤子をあやす母親のハミング。
恋文を綴る羽ペンの音。
かつては修正すべき変数に過ぎなかったそれらが、今は心地よい環境音となって彼の腕に流れ込んでくる。
それは彼を蝕む負荷ではなく、この世界と繋がっていることを証明する、何千、何万という人々との目に見えない握手だった。
「……前は、これが消えてしまえばいいと思っていたけれどな」
ルシは独り言ちて、自嘲気味に笑った。
シグルドに裏切られ、雨の中を去ったあの日、この腕さえなければと何度呪ったことか。
しかし、今は違う。
この紋様があるからこそ、彼は仲間たちの無事を感じ取ることができ、この星が今日も正しく息づいていることを確信できる。
孤独な天才を管理者という檻に閉じ込めていた鎖は、いつの間にか、彼を世界の一部として繋ぎ止める温かな絆へと変更されていたのだ。
不意に、背後から柔らかな毛布が肩に掛けられた。
「……また、一人で夜風に当たってる。
風邪を引いたらどうするの、ルシ」
眠たげな目を擦りながら、リーフが隣に立った。
彼女は優しく、その光る紋様の上に自分の手を重ねた。
「不思議ね。 昔はこの光を見ると、ルシがどこか遠くへ行ってしまいそうで怖かったのに。 ……今は、ルシがみんなに愛されている印に見えるわ」
「愛されている、か。 ……俺には勿体ない解釈だが、悪くない」
俺は重なった彼女の手を握り返した。
右腕から伝わる、世界中の膨大な熱量。
そして、掌から伝わる、リーフだけのささやかで確かな体温。
その両方の熱が同期したとき、ルシ=ファーレンという存在の欠損していた最後のパーツが、カチリと音を立てて嵌まった気がした。
「リーフ。 この世界は、俺が一人でメンテナンスしなくても、もう大丈夫だ。
……みんな、それぞれに自分の人生という術式を、精一杯、幸せな方向へ動かそうとしている」
右腕の疼きが、ゆっくりと収まっていく。
それは役目を終えた後の安らかな余熱。
かつての呪いは、いま、彼に「もう休んでいい」と告げる優しい子守歌のように、静かに肌の奥へと沈んでいった。
それはもはや、ルシが管理者に戻るための回路ではなく、ただの思い出という名のアーカイブに変わったのだ。
「さあ、戻ろう。
明日は、朝市でリーフが言っていた果物を買いに行かないといけないからな」
「あ、覚えててくれたのね! さすがルシ、有給休暇の予定管理も完璧じゃない」
軽口を叩き合いながら、二人は家の中へと戻っていった。
テラスに残されたのは、静かな夜風と、穏やかな星明かりだけ。
ルシの右腕に残された紋様は、もう二度と、彼を孤独な玉座へと連れ去ることはない。
それは世界中の幸福なノイズと同期し続ける、永遠の「絆」の証として、ただ静かに、彼の血と共に脈打っていた。
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