15-4 ネロとエルフィの「学校」
エリュシオンの街にある公立学校の門の前で、ネロとエルフィは、まるで見知らぬ魔境の入り口に立ったかのような、緊張と期待が入り混じった顔をしていた。
二人の背中には、リーフが新調したばかりの革製の鞄が揺れている。
かつては剣や魔導具を携えていたその手には、今は色鉛筆や算術のノートが握られていた。
「ルシ兄ちゃん……本当にいいの? 僕、あの中にいっても」
ネロが不安そうに俺の服の裾を引く。
彼の内側には、かつて世界樹の守護者として蓄えられた強大な魔力が今も眠っている。
「大丈夫だ、ネロ。 お前の魔力はもう、戦うためのものじゃない」
俺はネロの頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
掌に伝わる、ネロの髪の硬さと、少し汗ばんだ頭の熱。
かつては個体識別信号でしかなかった彼らが、今はこうして、触れれば熱を返す生身の存在としてここにある。
その確かな質量が、俺の指先を通じて心に染み込んでくる。
「お兄さま……私、本以外の人から何かを教わるのは初めてです」
「教官じゃない、『先生』だ。 分からないことがあれば聞けばいい。
お前たちはもう、任務を完遂しなければ廃棄される『部品』じゃないんだからな」
二人の背中を軽く叩き、校門へと送り出す。
夕暮れ時。
俺は断崖のログハウスへ続く道中にある、広々とした草原で二人の帰りを待っていた。
しばらくすると、街の方から小さな二つの影が駆けてくるのが見えた。
「ルシ兄ちゃん! ルシ兄ちゃーん!」
駆け寄ってきたネロの膝は泥だらけで、エルフィの美しい髪には小さな枯れ葉がついていた。
「お兄さま、聞いてください! 算術の時間に、『凄いね』って褒めてくださったんです!」
「僕も! 休み時間に、みんなとボールを追いかけたんだ。
魔力を使わないで走るのって、あんなに疲れるんだね!」
二人は競い合うように、今日あった出来事を報告してきた。
彼らの言葉から溢れ出すのは、教科書に書いてある知識ではない。
他人の体温や土の匂い、そして心臓の鼓動といった、かつての彼らが知る由もなかった生きた情報だ。
それを受け止める俺の胸も、いつの間にか温かな高鳴りを共有していた。
「そうか。
……なら、次は俺が学校じゃ教えてくれないことを教えてやろう」
俺は傍らに置いていた木片とナイフを取り出した。
俺が作ったのは、単なる翼の形をした木の板だった。
「ルシ兄ちゃん、それは……新しい術式の触媒?」
「いや。 ……ただの『おもちゃ』だ。 こうして投げる」
俺が指先で軽くスナップを利かせて木片を放ると、それは風に乗って不器用に円を描き、俺の手元へと戻ってきた。
「わあ……! 魔法を使ってないのに、戻ってきた!」
「次はこれだ」
俺は近くの川岸へ二人を連れて行き、平らな石を拾った。
水面に対して並行に、鋭く石を投じる。
水飛沫を上げ、石は五回、六回と跳ねて対岸へと消えていった。
「これは『水切り』という。
……魔力で水面を固定するんじゃない。
世界の物理法則と仲良くなる遊びだ」
二人は夢中になって石を投げ続けた。
かつて彼らが振るった強大な魔力に比べれば、石が水面を跳ねる音など、あまりに小さく、無意味なものかもしれない。
だが、全力で石を投じるネロの腕の筋肉の震えや、失敗して悔しがるエルフィの頬の赤らみは、どんな高位魔法の輝きよりも鮮烈に俺の網膜に焼き付いた。
「あ! 二回跳ねた! エルフィ、見てた!?」
「ネロ、ずるいです! 私も……あ、沈んじゃいました」
夕闇が迫る中、草原には子供たちの純粋な笑い声が響き渡る。
俺は、少し離れた場所でその光景を眺めながら、懐から自分用の蜂蜜酒を取り出した。
「……計算通りにいかない日常っていうのも、悪くないな」
俺の右腕の紋様が、夕陽を受けてかすかに、優しく明滅した。
それは、世界中の人々の喜びと同期しているかのような、穏やかな拍動。
かつては「監視」のための回路だったものが、今はただ、この世界の「幸せなノイズ」を心地よく受け止めるためのアンテナへと書き換わっている。
「お兄さま! 次は、あの丘の向こうまで競走です!」
エルフィの声に呼ばれ、俺は重い腰を上げた。
駆け出した二人の後ろ姿を追いながら、俺は肺いっぱいに草原の夜風を吸い込んだ。
心地よい疲労感。
土の匂い。
子供たちの笑い声。
かつて世界樹の息子として失っていた生の実感が、不器用な競走の中で、一歩ごとに俺の身体へ再ロードされていくのを感じていた。
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