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15-3 朴念仁のアップグレード

 かつて、俺は世界樹の全階層を把握し、数千万行に及ぶ魔導式の不備を瞬時に見抜いた。


 だが、今、目の前にある、たった二択の問いに対して、俺の思考回路はかつてないほどのオーバーヒートを起こしていた。


「ねえ、ルシ。

 こっちの淡い空色のリボンと、少し深めの群青色のリボン……どっちが私に似合うと思う?」


 エリュシオンの目抜き通り。


 色とりどりの小物が並ぶ雑貨店の店先で、リーフが二つの布切れを交互に自分の髪に当てて、期待に満ちた瞳で俺を見つめている。


 俺は極めて真剣に、魔導師としての全分析能力を稼働させた。


(空色の反射率は約四〇%。 対して群青色は二五%前後。 今日の天候は快晴、照度は十分……)


 以前の俺なら、そこで計算を終えていただろう。


 だが今の俺には、世界樹の息子になった際、リーフとエルフィによって人の心を取り戻された際に再インストールされた主観クオリアという厄介な機能が備わっている。


 論理回路は汚れにくさで群青色を推しているが、視覚野の端で、空色のリボンを揺らすリーフの笑顔が輝いているという非論理的なアラートを上げ続けていた。


「……どちらも、可視光線の波長が違うだけで、物質としての機能に差はないな。

 強いて言うなら、汚れが目立ちにくいのは群青色の方だ。

 実用性を取るなら後者だろう」


 結局、俺は使い慣れた論理の盾に逃げ込んだ。


 完璧な回答だ、と確信して告げた俺に、リーフの頬がぷうっと膨らんだ。


「……もう! 実用性なんて聞いてないの! 『似合うかどうか』を聞いてるの。

 ルシのバカ、朴念仁、石像、魔導式の塊!」


「なっ……なぜ怒るんだ? 俺は物理的な観点から最適な答えを……」


「それがダメだって言ってるの! あーもう、いいわ。 今日はとことん付き合ってもらうからね!」


 そこからのリーフの猛攻は、シグルドの魔法攻撃よりも苛烈だった。


 彼女は俺の手を強く引き、次から次へと店を梯子していく。


「ルシ、この香水の香りは? 爽やかな風のイメージと、甘い花のイメージ、どっちの私が好き?」


「……嗅覚刺激による個人の嗜好の差は、その日の体調に左右される。

 今の俺は空腹だから、強いて言えばパン屋の匂いの方が好ましい」


「ルシ、このクッションの触り心地、どう? 雲の上にいるみたいじゃない?」


「……雲の主成分は水滴と氷の粒だ。 実際にあの上に座れば、浸透圧と低温によるダメージを免れない。 このクッションの弾力性は、むしろ高反発ウレタンに近い……」


 そのたびにリーフは「この分からず屋!」と俺の足を軽く踏んづけ、さらに俺を引き回す。


 踏まれた足の痛みさえも、今の俺には不快なノイズではなく、彼女との接触という鮮烈な感覚として、優先度の高い魔導式として割り込んでくる。


 気づけば、俺の両腕には数え切れないほどの紙袋がぶら下がっていた。


「……リーフ。

 そろそろ俺の腕の積載量が限界に近い。

 これ以上の追加は、移動速度の大幅な減退を招く」


「ふふん、まだよ。

 最後はあそこのテラス席があるカフェで、限定のパフェを食べるんだから。

 あ、私の分はルシの『あーん』がいいな!」


「あ……あーん……?」


 俺の脳内で、未定義の魔導式が呼び出されたような沈黙が流れた。


「自分の手で摂食する方が、運動エネルギーの伝達効率がいいはずだが……」


「いいからやるの! ほら、座って!」


 周囲の客たちが、かつての英雄が少女に翻弄され、真っ赤な顔をしてスプーンを差し出している姿を見て、クスクスと笑い声を漏らしている。


 俺は、神を殺した時でさえ感じなかったほどの強烈な動悸を感じながら、震える手でパフェをリーフの口元に運んだ。


「はい、あーん……」


「んー、美味しい! ルシが食べさせてくれると、味がアップデートされるみたい!」


 リーフは満足げに微笑み、俺の腕にぎゅっと抱きついてきた。


 その柔らかい感触と、温かな体温。


 ルシの脳内ログに、幸福感:計測不能オーバーフローという文字列が点滅する。


 俺は、どれほど魔導を極めても、この“一人の少女の機嫌”という名の複雑な変数を制御することはできないのだと、ようやく悟った。


「……リーフ。

 俺は魔導師としては一流かもしれないが、こういうことに関しては、まだ初期設定デフォルトのままのようだ」


「いいのよ、それで。

 ルシはそのままがいいの。私が一生かけて、少しずつ『乙女心』をインストールしてあげるから」


 リーフの悪戯っぽい、けれど愛に溢れた視線。


 俺は、溜まりに溜まった荷物を持ち直し、深いため息をついた。


 けれど、その吐息はどこか温かい。


「……分かった。

 ただし、次の休日の『パフェの配分』については、もう少し効率的な手法を検討させてくれ」


「あはは! 本当に、ルシはルシね!」


 夕暮れに染まるエリュシオンの街。


 世界を救うよりも難しく、けれど、どんな魔導の深淵よりも愛おしい。


 朴念仁なアーキテクトの心のアップグレードは、どうやらまだまだ時間がかかりそうだった。

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