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15-2 祝杯の温度(蜂蜜酒の味)

 エリュシオンの夜は、潮騒と笑い声に満ちていた。


 港町の一角に佇む酒場『潮風亭』。


 今夜は店の入り口に『貸切』の札が下げられ、店内ではかつて世界を救った英雄たちが、一堂に会していた。


 店内に満ちているのは、芳醇な蜂蜜の香りと、香ばしく焼けた肉の匂い。


 そして、かつての戦場では想像もできなかったほど、緊張感のない、弛緩した空気だ。


「……ははは! 師匠、それじゃあアイリスが不憫ですよ。


 もっと手加減してやってください」


 俺はカウンターに肘をつき、グラスを揺らしながら笑った。


 表情は作れる。


 笑い声も出せる。


 だが、俺の意識の片隅にはまだ、冷徹な観測者が居座っていた。


 バナード師匠の笑い声をデシベルで測り、アイリスの赤くなった顔を血流量の増加として分析してしまう。


 世界樹の息子であったあの戦いから、俺の感覚器官はあまりに鋭敏になりすぎ、情緒を置き去りにして情報を処理していた。


「手加減だと!? ルシ、お前はこいつの成長を見ていないからそんなことが言えるんだ」


 バナードに冷やかされたアイリスは、耳まで真っ赤にして蜂蜜酒を煽った。


「も、もう! 師匠は飲みすぎですの!」


 聖剣を置き、一人の剣士として高みを目指す彼女の瞳。


 その輝きをルクスではなく情熱として捉えたいと、俺の心は切望していた。


 そんな賑やかな喧騒の中、カウンターの内側から「はい、お待たせしました」と、透き通るような声が響いた。


 この店の看板娘であり、店主であり、そして俺の隣で共に暮らすリーフだ。


 彼女は、特別に仕込んだ最高級の蜂蜜酒ミードを、俺の前にそっと置いた。


「ルシ、これ。 ……今日、一番いい状態になったの」


 俺は頷き、琥珀色の液体を口に含んだ。


 その瞬間。


 視界を覆っていたすべての数値が、爆発的な熱量によって焼き切られた。


「…………っ」


 舌の上で弾けるような鮮烈な甘み。


 鼻腔を突き抜ける野生の花々の芳醇な香り。


 そして、喉を焼くような酒の熱さ。


 それはもはや糖度やアルコール度数といったデータではない。


 リーフが朝早くから樽を覗き込み、発酵の音に耳を澄ませ、俺の喜ぶ顔を想像しながら費やした時間そのものが、味となって俺の脳に直接、乱暴に流れ込んできたのだ。


「美味しい……。 本当に、美味しいな、これ」


 俺が震える声でそう呟いた瞬間。


 カウンターの向こうで、リーフの動きが止まった。


 彼女の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。


「え……あ、ルシ……今、はっきりと、『美味しい』って……」


 彼女たちが、かつて世界樹の核がアーカイブしていた俺の心を受け取り、連れ戻してくれたあの日。


 心は、確かに戻った。


 けれど、長らく機能としてしか生きてこなかった俺の肉体は、感覚の使い道を忘れていた。


 今までは、何を食べても分析でしかなかった。


 だが、今。


 リーフが心を込め、仲間たちが笑い合うこの場所の熱に触れて、俺の味覚は分析を捨て、ようやく快楽として接続(再起動)されたのだ。


「よかった……。

 心を取り戻しても、ずっとルシの顔がどこか遠い気がして……私、怖かったの。

 でも、今……今のルシは、ちゃんとここにいる」


 リーフは堪えきれずに目尻を拭い、鼻を啜りながらも、満面の笑みを浮かべた。


 滲んだ彼女の笑顔が、どんな高解像度の映像よりも美しく見える。


 ようやく、俺の人間性は肉体の隅々にまで回復し終えたのだ。


「……さあ、我らが英雄の『完全な帰還』を祝して。今夜は朝まで飲むぞ!」


 メギストスの号令に、野太い歓声が上がり、再び祝宴が加速する。


 ここにいるのは、少し朴念仁で、酒の味に涙するリーフを見て狼狽える、ただの男だ。


 仲間たちの馬鹿話と、愛する者の温もり。


 これ以上の幸福なんて、神様のライブラリを探したって見つかりはしないだろう。


「リーフ、もう一杯、もらえるか? ……次は、君と乾杯したい」


 俺の言葉に、リーフは最高の笑顔で「はい!」と答え、黄金の液体をグラスに注いだ。


 エリュシオンの夜は、まだ始まったばかりだった。

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