15-1 宮廷魔導師団の受理印、有給休暇申請と退職願
かつて、俺のすべてだった場所。
王都の中心にそびえ立つ宮廷魔導師団の本部は、今日も変わらぬ厳かな威容を誇っていた。
石造りの巨大な回廊、規則正しく響く魔導師たちの足音、そして大気中に漂う張り詰めた魔力の匂い。
シグルドの陰謀によって追い出されたあの日、俺は二度とこの門を潜ることはないと思っていた。
雨に打たれ、泥に汚れた背中を見送った門番たちは、今の俺を見ても、あの日の哀れな敗残兵だとは気づかないだろう。
俺は英雄としての礼装でも、魔導師の法衣でもなく、エリュシオンの街に馴染んだくたびれた旅装のまま、受付の列に並んだ。
「次の方、どうぞ」
事務的な声に促され、俺はカウンターへ向かう。
目の前の若い女性魔導師は、俺の顔を見るなり、一瞬だけ動きを止めた。
俺は彼女の瞳の奥に、驚きと畏怖が混ざり合う複雑な感情を、読み取ってしまった。 世界樹の息子であった時の名残だろうか。
相手の視線一つで、その思考の指向性がデータのように流れてくる。
だが、俺はそれをあえて無視した。
今はそんな「正解」を知る必要はない。
俺は彼女が口を開く前に、懐から一枚の古びた身分証を差し出した。
「宮廷魔導師団、第十三開発班所属、ルシ=ファーレン。
身分証の更新と……有給休暇申請、退職の手続きに来た」
「ル、ルシ様!? し、しかし、あなたは今や王国の救世主として……」
「そんなものは必要ない」
俺は穏やかに、けれど断固とした口調で遮った。
「俺はもう、組織の歯車として生きるつもりはないんだ。
ただの『一人の魔導師』として、名前を登録し直してほしい。
……それから、これが未提出だった有給休暇申請と退職願だ」
差し出したのは、あの日、雨の中で書き上げたまま出せずにいた退職届だった。
インクが少し滲んでいる。
その滲みを見た瞬間、胸の奥がチリリと焼けるように痛んだ。
……痛みだ。
論理的な不具合の検知ではない。
あの日、俺が抱えていた悔しさや惨めさが、ようやく自分の感情として沸き上がってきた証拠だった。
奥から慌てて出てきた高官たちが、俺を引き留めようと言葉を尽くす。
「君の才能があれば、次期団長の座も」
「国の予算を自由に使える立場を保証する」
かつての俺なら、その言葉に揺らいだかもしれない。
だが、今の俺には、それよりも価値のあるものが見えていた。
高官たちの言葉は、どれだけ積み上げても、リーフが淹れてくれた一杯のハーブティーの温度にすら及ばない。
「受理印を、頼む」
観念した高官の手によって、有給休暇申請と退職願に重々しい魔導印が押された。
その瞬間、俺の肩から、目に見えない巨大な鉄の鎖が音を立てて崩れ落ちたような気がした。
……いや、軽くなったのは肩だけではない。
張り詰めていた意識の深層が、ふっと緩んでいく。
俺を管理者という役割に縛り付けていた最後の未完了タスクが、正常に終了されたのだ。
続いて、隣の窓口で年金の手続きを行う。
「五年分の貢献度と、今回の功労金……一生遊んで暮らせるほどの額になります」
「……これで、本当に隠居だな」
手続きを終え、俺は宮廷の長い回廊を歩いた。
かつてはここを通るたび、世界樹の調律の事や、食事や睡眠事情に胃を痛めていた。
不思議なことに、今の俺はその胃の痛みさえもどこか愛おしく感じていた。
苦しみも、焦りも、すべては俺が人間として生きていた証なのだ。
建物の外に出ると、王都の空は高く、突き抜けるように青かった。
かつて追放されたあの日、俺を打った雨はもう降っていない。
俺は、胸ポケットに入れた新しい身分証をそっと叩いた。
宮廷魔導師、ルシ=ファーレンは今日、公式に死んだ。
そして今、エリュシオンの酒場で働くただの男、ルシが、眩い陽光の中に一歩を踏み出す。
「さて、お土産でも買って帰るか」
不意に、リーフの笑顔を思い浮かべる。
すると、今まで色の薄かった景色が、一気に鮮やかさを増したように見えた。
感情が動くたびに、世界が色彩を取り戻していく。
リーフには新しいリボン、ネロとエルフィには甘い菓子。
それを選ぶ自分の心が、どんな術式よりも複雑で、そして温かな喜びに満ちているのを俺は感じていた。
英雄の義務も、組織の重圧も、もうどこにもない。
俺は、かつてないほど軽い足取りで、駅へと続く坂道を下っていった。
事実上の隠居生活――その公式な初日が、こうして静かに、けれど完璧な形で始まった。
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