15-0 世界で一番静かな朝
耳を打つのは、遠い潮騒の音と、春の柔らかな風が崖を撫でる音だけだった。
銀鱗の港、エリュシオンの街を一望する断崖の頂。 かつて宮廷を追放された直後の俺が、世捨て人のように隠れ住むつもりで購入したログハウスで、俺はゆっくりと意識を浮上させた。
目を開けると、天井の木目が淡い朝日に照らされている。
(……静かだ)
これまで俺の視界を埋め尽くしていた、膨大な魔力の流れ(ログ)はもう流れていない。
耳元で世界を呪っていた神の囁きも、無理やり脳内に流し込まれる警報も、一切聞こえない。
そこにあるのは、空虚ではなく、満たされた、ただの静寂だった。
だが、その静寂はどこか、よそよそしい。
視界の端で世界の解像度を計算しようとする癖が抜けず、木目の節を数えそうになる自分を、俺は意識的に宥めた。
俺はベッドの中で、しばらくその静けさを噛み締めていた。
かつては一秒を争う調律に追われていた俺にとって、この何もしない数分間こそが、世界で最も贅沢な贈り物に感じられた。
体を起こし、ベッド脇の窓を開ける。
眼下には、目覚めたばかりの港町が広がっていた。
朝日を浴びてキラキラと輝く海、港に停泊する船の帆、そして通りを歩き始めた人々の小さな影。
かつては光子の反射率や風速の数値として処理していた光景が、今はただの眩しい朝として、ひどく曖昧なままそこに存在している。
階下から、包丁がまな板を叩くトントンという規則正しい音が聞こえてくる。
俺は軽い頭痛……神の負荷ではなく、単なる寝すぎによる心地よい気だるさを感じながら、一階へと降りていった。
洗面所へ向かうと、そこには先客がいた。
「あ、ルシ兄ちゃん、おはよう! 今日は僕の方が早かったね」
「おはようございます、お兄さま。 顔を洗って、すっきりしてきてくださいね」
元気にタオルを振り回すネロと、丁寧に髪を整えるエルフィ。
かつては部品や端末として育てられた子供たちが、今はただの兄妹のように洗面台を奪い合っている。
その微笑ましい光景に、俺の口元も自然と緩んだ。
「ああ、おはよう。 二人とも、朝から元気だな」
冷たい水で顔を洗う。
肌を刺すような水の冷たさが、分析されるべき「水温」ではなく、単なる「刺激」として脳を叩く。
その感覚が、自分の意識を現実へと繋ぎ止める。
鏡に映った自分の右腕、かつては神罰のように明滅していた魔導回路の紋様は、今は肌の一部として静かに沈黙していた。
食堂へ向かうと、リーフがエプロン姿で最後の大皿をテーブルに置いたところだった。
湯気を立てるスープ、香ばしく焼けたパン、そして新鮮な野菜。
「おはよう、ルシ。 ……よく眠れた?」
リーフが、花が綻ぶように笑う。
彼女の琥珀色の瞳には、世界の重荷ではなく、今日の献立への自信が宿っていた。
「ああ、泥のように眠れたよ」
四人で食卓を囲み、静かに手を合わせる。
リーフが淹れてくれた温かいお茶に、ふわりと蒸気が立ち上った。
そのハーブの香りが鼻を抜け、喉を通った瞬間、俺の全身に温かな感覚が広がっていく。
……いや、それは「温かさ」という情報の入力だけではない。
喉を通る際のかすかな苦味、鼻腔をくすぐる青臭さ。
かつて世界樹の息子として味覚を失っていた俺にとって、その不純な雑味こそが、何よりも懐かしく、涙が出るほどに人間的な情報だった。
魔力の補充でも、強化薬の服用でもない。
ただ、美味しいと感じるための一杯。
(……ああ。 俺は、ただの人間になったんだな)
その確信が、何よりもルシの心を安らがせた。
朝食を終えた俺は、かつての戦装束ではなく、動きやすい普段着に着替え、腰に大きな魔法の袋をぶら下げた。
今日は俺たちが経営を手伝うことになった酒場『潮風亭』の仕入れの日だ。
家を出て、潮風に吹かれながら港へと下りていく。
朝の港は活気に溢れていた。漁師たちが水揚げしたばかりの、銀色に光る魚が跳ねている。
「おっ、ルシの旦那! 今日もいいのが入ってるぜ!」
「こっちのカニも持っていきな、サービスだ!」
気さくに声をかけてくれる漁師たちと交渉し、最高の海の幸を買い取っていく。
さらに市場を回り、瑞々しい山の幸や、熟成したチーズ、香辛料を厳選して袋に納めていく。
以前の俺なら、タンパク質の含有量や鮮度の劣化率を瞬時に見抜いていただろう。
だが今は、漁師の威勢の良い声や、市場の喧騒を、心地よい雑音として楽しみながら、自分の直感だけで食材を選んでいる。
かつて世界を救うための素材を探し回った俺が、今は今夜の客を喜ばせるための食材を吟味している。
その落差が、たまらなく心地よかった。
仕入れを終え、街の中ほどにある『潮風亭』へと向かう。
看板を掲げ、店裏の搬入口から中へ入る。
俺は自ら調整した魔導冷凍庫を開け、鮮度が命の魚介類を次々と納めていった。
庫内の温度を一定に保つ魔法の回路は、かつて世界樹の安定に使ったものと同じ原理だが、今はただ、エビを凍らせるためだけに使われている。
「冷やさなくていい根菜類は、こっちだな……」
バックヤードの棚を整理し、一仕事終えた俺は店の入り口にある黒板を手に取った。
チョークを持ち、今日入った最高の食材を、丁寧な筆致で書き出していく。
『本日のおすすめ:銀鱗魚のムニエル、北風の蜂蜜酒入荷』
黒板を店先に掲げ、店の鍵を開ける。
まだ昼前だが、エリュシオンの飲兵衛たちはすでに扉の外で待っていた。
「開いたぞ! マスター、いつものやつを頼む!」
店が開くと同時に、賑やかな活気が流れ込んでくる。
俺はカウンターの奥に腰を下ろし、自分でも一番出来の良い蜂蜜酒をグラスに注いだ。
琥珀色の液体が陽光に透けて輝く。
一口含む。
強烈な甘みと、少しのアルコールが鼻に抜ける。
まだ完全には戻りきっていない味覚の回路が、その過剰な刺激に驚き、脳に快楽を伝えてきた。
昼間から飲む酒は、背徳的で、そして最高に甘美だった。
「よう、ルシ。 今日も平和だな」
「ああ……全くだ」
常連客のとりとめもない話――隣の家の猫が逃げただの、今度のお祭りの出し物がどうだの――を肴に、ゆっくりとグラスを傾ける。
かつては世界の命運を左右する決断に追われていた右腕が、今はただ、重いグラスを持ち上げるためだけに使われている。
これが、俺の望んだ永久有給休暇の始まり。
神様、悪いが……この仕事は、誰にも譲る気はないぞ。
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