14-0 七人の負荷分散
深い、深い、漆黒の淵だった。
三つの『理の鍵』を臨界点まで回し、旧き世界の理を強制上書きするための分散の種を蒔いた俺の意識は、その代償として無限の虚無へと突き落とされていた。
肉体の感覚はとうに消失している。
あるのは、全生命の生存権を一手に引き受けたかのような、絶望的なまでの演算負荷だけだ。
それは、たった一人の心という脆弱な回路を、塵より細かく磨り潰そうとする理の鉄槌だった。
(……ああ、そうか。
やっぱり、一人の背中じゃ、この世界を支えるには足りなかったんだな……)
諦めに似た吐息が、冷たい意識の海に泡となって消えていく。
回路は焼き切れ、思考は白濁し、俺という存在の記述が消去を待つだけのノイズへと変わっていく。
――だが、その絶対零度の暗闇を、一閃の熱が切り裂いた。
胸の奥で、一つの琥珀が爆発するように輝く。
リーフとエルフィが、世界樹の核という神の深淵から救い出し、祈りと共に俺の胸へと押し付けてくれた球体。
冷徹な管理者としてアーカイブされていた俺の、不合理で、不完全で、けれど何よりも愛おしい人としての心が、猛烈な勢いで脈動を始めたのだ。
「――ルシ!! 戻ってきなさい!この大馬鹿者の、朴念仁!!」
リーフの、魂を削らんばかりの叫びが、氷結していた全魔導回路を強引に叩き起こす。
視界が、火花を散らすように弾け飛んだ。
戻ってきた現実。
そこは、崩壊の瀬戸際にあるエリュシオンの心臓部だった。
目の前では、俺が蒔いた種によってその支配基盤を揺るがされ、怒りと恐怖に狂った『旧き理の化身』が、世界そのものを拒絶するような一撃を振りかざしている。
アップデートはまだ、胎動を始めたばかりの序盤に過ぎない。
システムが全生命に浸透し、理が完全に書き換わるまでの間、この神級の負荷に耐えきれなければ、新世界の芽は吹く前に枯れ果てる。
再起動したばかりの俺の身体は、すでに内部から発する高熱で発火し、指先から黄金の粒子となって崩れ落ちようとしていた。
限界だった。
一秒先さえ、俺一人では支えられない。
その、絶望の刹那。
「独りで背負うなと言ったはずだ、この馬鹿弟子が」
右肩に、岩のように重厚で、あまりにも確かな生の温もりが重なった。
バナード師匠だ。
折れた大剣を杖代わりにして、全身から鮮血を流しながらも、その眼光は少しも衰えていない。
彼は俺の崩れゆく肩を、引きちぎらんばかりの力で繋ぎ止めた。
「ルシ。 お前の術式は、冷たい数字の羅列ではないはずだ。
……私たちの命も、演算の礎にするがいい。 お前の夢に、皆を乗せて走れ!」
メギストス師父が俺の背中に震える手を添え、古代の禁呪を編み上げて俺の精神隔壁を補強する。
「お兄ちゃんが消えちゃうなんて、ボクは絶対に嫌なんだから! これ、全部使って!」
ネロが俺の腰にしがみつき、子供の細い身体から、身を削るような純粋な魔力を俺の回路へと強引に流し込んでくる。
「……ネロ、お前……」
「ボクだって、ルシ兄ちゃんの家族なんだ!
エルフィと一緒に、お兄ちゃんを支えるって決めたんだ!」
ネロは涙を溜めながらも、その視線を隣にいるエルフィへと向けた。
エルフィもまた、力強く頷き、ネロの空いた手をぎゅっと握りしめる。
二人の間に、ルシへの想いを媒介にした小さな、けれど熱い共鳴が生まれた。
「約束したわよね、ルシ。 一緒に生きて帰るって……。
貴方が掲げた平和、貴方がいないなら意味なんてないですの。
私の命、すべて貴方に預けますわ!」
アイリスの剣が、自身の魂を燃料に燃え上がるような烈火の輝きを放ち、敵が放つ消去の圧を物理的に切り裂き、俺を包み込む。
そして。
「ルシ、もうあなたは独りじゃない。 ……絶対に、その手を離さないわ」
「一緒です、お兄さま。 私たち三人と……そしてネロ君も!
みんなでずっと一緒だって、あの時決めたんですから!」
リーフが右手を、エルフィが左手を。
そしてその二人の手に、ネロとアイリス、さらには師父たちの想いが重なっていく。
俺の左右の手は、指が白くなるほど強く、強く握りしめられた。
不意に、古い記憶が脳裏をかすめる。
かつて、シグルドの卑劣な罠に嵌められ、宮廷魔導師団という居場所を追放されたあの日。
自分の理想を嘲笑われ、組織の腐敗に絶望し、静かにその不条理を受け入れて独り雨の中に消えていった俺の背中は、確かに孤独だった。
あの時、俺の隣には誰もいなかった。
俺の叫びに耳を貸す者も、汚れきった手を握ってくれる者もいなかった。
冷たい仕様書だけを抱えて、独りで世界の不条理と戦うのが当たり前だと思い込んでいた。
だが、今は。
琥珀色の心が胸の中で熱く吠え、六人の仲間たちが俺というノードに、魂の直結を果たしている。
「……ああ、わかっている。 ……みんな、繋がれッ!!」
俺の右腕から溢れ出した黄金の魔導回路が、もはや俺一人のものではない、七人の命を一本の鋼よりも強固な鎖で繋ぎ止めた。
化身が放った、存在の記述を根底から抹消する絶滅の一撃が、俺たちの頭上で炸裂する。
――瞬間、世界から重みが消えた。
本来なら俺一人の魂を瞬時に焼き切るはずの重圧が、直列に繋がった七人の魂へと等しく分散され、一滴の雫が大いなる海に溶けゆくように、静かに、確実に受け流されたのだ。
「な……に……!? 理の重圧を……『分散』して相殺したというのか!?」
驚愕と屈辱に顔を歪める化身を、俺は六人の鼓動と温もりを背中に感じながら、真っ直ぐに見据えた。
俺の瞳に宿るのは、冷徹な理の代弁者などではない。
仲間と共に泥を啜り、明日を渇望する、不完全で不屈な魔導師の光だ。
「悪いが、ここからは多人数同時接続の時間だ。
旧き理……お前の仕様書は、もう俺たちが書き換えた。
……世界に、独裁者はもう必要ない」
七人で一つの絶対不可侵領域。
俺たちは、揺るぎない一歩を踏み出す。
ルシ=ファーレンが蒔いた分散の種が、仲間という名の土壌で、最初に力強く芽吹いたこの場所から。
次なる接続先――俺に命の火を預けてくれた、エリュシオンの人々が待つ地上のノードへと、光の糸を伸ばしていく。
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