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13-9 虚無に灯る一割の体温

 掌にある『理の鍵』が、銀白の虚無を震わせるほどの共鳴を始めた。


 三つの鍵が揃った瞬間、エリュシオンの地下深くから天を衝く巨大な光の柱が立ち昇る。


 それは空を割らんばかりの勢いで広がり、崩壊の淵にあった世界の理を、強引に繋ぎ止める黄金の鎖となった。


 書き換えの準備は整った。


 だが、運命はそれを容易には許さない。


「……見つけたぞ。 世界の王座を空けたまま、消え去るつもりか」


 光の柱の根元、集積所の魔力を強引に吸い上げ、歪な形に変貌を遂げた最後の障壁が立ちふさがった。


 かつてシグルドが刻んだ歪んだ魔導式の残滓を取り込み、神に成り代わろうとするその存在は、かつてアイズベルク家が執着した核へのアクセスポイントとしてのエリュシオンの上空――大気を、自らの肉体として受肉させていた。


 それは、旧き世界の理そのものが、自己保存のために生み出した最後の拒絶反応だった。


「ルシ……戻ってこいッ!」


 バナード師匠の大剣が、烈風を巻き起こして巨像に叩きつけられる。


「テメェがただの機械になっちまったら、誰が俺の拳を受け継ぐんだ!

 帰ってこい、この馬鹿弟子が!」


「ルシ、聞こえているか!」


 メギストス師父の杖が、古代の禁呪を次々と編み上げる。


「お主の術式は、冷たい計算のためにあるのではない。

 人々の明日を照らすための光だったはずだ。

 思い出せ、お主を導いたわしの言葉を!」


「……ルシ! 私を見なさい!」


 アイリスの剣が、自身の魂を削り出すかのような烈火の輝きを放つ。


 彼女は砕け散る防壁の破片を浴びながら、一歩も引かずに叫んだ。


「貴方が守ろうとしたこの世界に、貴方がいなくてどうするのです!

 貴方のいない平和なんて、私は認めませんわ!

 私たちと一緒に、生きて帰ると約束しなさいませ!」


「お兄ちゃん……。 ボクは、人間になりたかった。

 お兄ちゃんが人間じゃなくなるなんて、ボクは許さない!」


 ネロが、己の魔力を極限まで振り絞って、敵の権限を削り取っていく。


 仲間たちの魂の叫びが、システムへと溶けゆく俺の意識の表面を、かすかな波紋となって打った。


 ◆


 その頃、リーフとエルフィは、もはや世界樹の息子として冷徹な静止を保つルシの傍らで、精神を世界樹の最深層へと投じていた。


 そこは、かつてシグルドの策略で心を失いかけたリーフを、ルシが命懸けで救い出してくれた約束の場所。


「……あの時、ルシが私を見つけてくれた。 今度は、私たちがルシを連れ戻す番。

 エルフィ、力を貸して」


 リーフは、魔力集積所から伝わる灼熱に身を焼きながら、エルフィの手を強く握った。


 だが、世界樹の記録の海はあまりにも広大だった。


 管理者の理に呑まれたルシの心を探すのは、砂漠で一粒の宝石を探すような絶望的な作業だ。


「ルシ、聞こえている?  私よ、リーフよ! 戻って来なさい!

 今のただの魔導式の貴方は、本当の貴方じゃない!

 蜂蜜酒ミードをだらしなく飲んでいた、貴方が好きなの! 戻って来て!」


「ルシ兄さま、エルフィです! みんな、元のお兄さまを望んでいるの!

 機械にならないで、冷たい術式にならないで!」


 二人の悲痛な叫びに応じるように、世界樹の核が重厚な脈動と共に語りかけた。


『……今の彼は、管理者として完璧だ。 情に流されず、常に適切な判断を下せる。

 それでも、人としての彼を求めるか?』


「もちろんです、母様!」


 リーフが即座に叫ぶ。


「私は冷徹なルシより、ちょっぴり抜けていて、失敗もするルシが良いの!

 朴念仁のルシが良いの!」


「私もです!」


 エルフィも続く。


「私も、あの朴念仁なルシ兄さまが良いです!」


 沈黙の後、世界樹の核は慈しむように光り輝く琥珀色の球体を差し出した。


『ならばこれを持っていきなさい。

 彼が管理者となる直前に、私が保護アーカイブしておいた彼の心だ。

 これを彼の胸に。

 それで不完全で朴念仁の彼に戻るでしょう』


「母様、ありがとう……!」


『いいえ。

 かつて貴方の心が消え去りそうになった時、彼は命を賭して同じことをした。

 貴方たちは似た者同士ね……幸せになりなさい。

 それとエルフィ、ネロが最近構ってもらえなくて寂しがっているようです。

 たまには構ってあげなさいね』


 光り輝く一割の愛。


 それは、街のパン屋の香りに目を細めた記憶。


 仲間と交わした他愛ない冗談。


 リーフの手の温もり。


 アイリスの凛とした背中。


 エルフィの小さな成長に、こっそり涙ぐんだ夜のこと。


 冷徹な世界樹の心臓がノイズとして切り捨てようとしていた、あまりにも人間らしく、あまりにも不合理な、一割の愛。


 二人は、光り輝く一割の愛を抱きしめ、精神のダイレクト・リンクから帰還した。


 そして、無機質な装置へと変わり果てたルシの胸に、その琥珀色の玉を力強く押し付けた。


 ◆


 その瞬間、閉ざされていた感情の回路が強引に再接続され、黄金のマナに染まっていた俺の瞳に、人としての光が宿った。


 だが、現実はなおも残酷だった。


 旧き理の化身は、世界樹の全権限を盾に、物理法則そのものを武器として俺たちを押し潰そうとする。


 バナードの剣が折れ、アイリスの剣は光を失い、ネロの魔力は底を突いた。


「理は絶対だ。 末端の端末風情が、世界の根幹ルールを書き換えることなど、許されぬ傲慢」


 化身の放つ圧倒的な権限の重圧に、一行は膝をつく。


 俺の身体は、防衛機構からの過負荷でボロボロになり、リーフやエルフィの輪郭さえも霧散しそうに薄れていく。


「……ダメだ、個の権限じゃ足りない。 このままじゃ、全員が焼き切られる……!」


 俺の叫びが、崩壊を始めた空間に響く。


 エリュシオンの海が逆流し、空がガラスのように割れ、世界が漆黒の暗転ブラックアウトに包まれ始めた。


 絶望。


 すべてが消え去るはずの暗闇の中で、俺は、リーフたちが届けてくれた心の温もりを燃料に、最後の手を打ち込んだ。


「――独りで支えるから、重すぎるんだ。

 だったら……この重荷を、いつか世界中で分かち合えるようにしてやる」


 それは、管理者が決して選ばない、禁忌の分散の種。


 俺は三つ目の鍵を、自分を守るためではなく、世界中の魔力脈を『繋ぎ直す』ために捧げた。


「俺は、俺を辞める。 ……だが、世界を終わらせることも、もう辞めだ!」


 エリュシオンの夜空に、見たこともないほど巨大で複雑な接続の起点となる魔導式が展開され、地上の隅々へと向かって光の糸を伸ばしていく。


「全魔力回路、開放。

 これより、全生命への共鳴――ユグドラシル・アップデートを開始する」


 化身が放った絶滅の一撃は、俺の手前で分散の種を乗せた光の粒子へと変換された。


 攻撃そのものが、これから始まる書き換えのための莫大なリソースとして、世界へと放たれたのだ。


 何が起きたのか理解できず、愕然と立ち尽くす旧き理の化身。


 そして、その眩い光の中で、すべての希望を未来の接続コネクトへ託した俺の意識は、深い、深い眠りへと落ちていった。

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