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13-6 境界の海 ―世界の終端―

 螺旋階段の最後の一段を降り立った瞬間、俺たちの耳を支配していた魔力の咆哮が、嘘のように消え去った。


 そこは、エリュシオンの地下数千メートルという地理的な概念が、もはや何の意味も持たない異界だった。


「……何という、静寂か」


 一行の最後尾から、低く、地を這うような声が響いた。


 メギストス師父だ。


 古代魔術の深淵にその身を浸し、理の表裏を知り尽くした老魔導師は、杖を突く音さえ立てず、眼前に広がる光景を凝視していた。


 そこには、見渡す限りの銀白の海が広がっていた。


 波一つ立たない鏡のような海面。


 そして、その上空に広がるのは、星も太陽もない、鈍色に沈んだ無限の空。


 海と空の境界線は曖昧に溶け合い、どこまでが足元で、どこからが天頂なのかさえ判別がつかない。


「ルシよ。 ……ここはもはや、人の語る『世界』ですらないぞ」


 メギストスが、深い洞察を湛えた瞳を水平線の向こうへと向けた。


 彼の手にする古びた杖が、周囲に満ちる高密度の魔力に反応し、微かな警告の光を放っている。


「物理法則が霧散し、記述前の純粋な理だけが漂う『終端』。 古代の伝承にのみ記された、世界の記述の『余白』だ。

 ……我ら魔導師にとっては聖域だが、個の魂を維持するには、あまりにも過酷な無秩序よ」


「……ルシ、見て。 足元が……透けているわ」


 リーフの言葉に視線を落とすと、俺たちが立っているのは石造りの床ではなく、薄氷のような魔力の膜に過ぎなかった。


 一歩踏み出すごとに、水面に広がる波紋のように黄金の術式が足元から伝わり、空の色を微かに変える。


 ここでは物理的な質量や重力といった地上の法則は死滅し、ただ純粋な意志の強度だけが、存在の輪郭を定義しているのだ。


「師父。 ここを渡れば、特異点の心臓部に届きますか」


 俺の問いに、メギストスは厳かに頷いた。


「届くであろう。 だが、ゆめゆめ忘れるな。

 魔導とは本来、意志で理を書き換える業。

 ……だがこの海では、お主の意志そのものが世界に呑まれ、書き換えられる側へと転ずる。

 お主を繋ぎ止める『えにし』を、決して手放すのではないぞ」


 師父の視線が、俺の左手を握るリーフへと向けられた。


 古代魔術の大家である彼は、俺の右半身がすでにこの虚無の海と共鳴を始め、管理者としての機能を強制的に起動させようとしていることを見抜いていた。


 俺は、変質した右腕を強く握り締めた。


 鏡のような海面の底に、巨大な影が沈んでいるのが見える。


 それは世界の因果を司る巨大な歯車であり、同時に、今この瞬間も赤黒い綻びによって食い荒らされている世界の心臓部だ。


「……いたぞ。 この世界の終端を、終わらせようとしている元凶が」


 水平線の向こう側から、空間そのものがひび割れるような不協和音が響いてきた。


 鏡のような海面が、そこだけ黒く染まり、泥のように泡立っている。


 世界の記述を拒絶し、すべてを無効化する虚無の渦。


「アイリス、ネロ、みんな。 ここからは、一歩の踏み外しが魂の消滅に繋がるぞ」


 俺の警告に、アイリスは無言で剣の柄を握り直した。


 彼女の纏う勇気という意志が、この法則の失われた空間において、微かな光の殻となって彼女を守っている。


 ネロは、その幼い瞳に世界の終端を映しながら、静かに俺の隣へ並んだ。


 エルフィは、この異質な静寂に圧倒されたように、俺の裾をぎゅっと握りしめていた。


 人造の娘としてこの世に産み落とされた彼女にとって、世界の記述が途切れたこの場所は、ある意味で自らの出自に近い色をしているのかもしれない。


 だが、その瞳に宿っているのは絶望ではなく、この虚無に呑み込まれまいとする強固な拒絶だった。


 彼女の小さな身体から溢れ出す魔力が、ルシの右腕が放つ冷たい光を和らげるように寄り添っている。


 メギストス師父は、自らの周囲に何重もの幾何学模様を浮かべ、この無秩序な空間を観測することで固定していた。


 彼の杖が刻む一定の魔力の拍動は、混沌とした海においてメトロノームのように機能し、一行の精神がバラバラに霧散するのを防ぐ楔となっている。


 老練な魔導師の顔には、未知への恐怖を塗り潰すほどの、真理への渇望が静かな炎となって灯っていた。


 一方、武の極致を往くバナード師匠は、魔導的な干渉を一切排し、ただ己という実存を極限まで研ぎ澄ますことで、空間の歪みを撥ね除けていた。


 彼が踏み出す一歩は、どれほど足元が不安定であろうとも、確実な大地の感触を空間に強制させている。


「術式だの因果だの、小難しいことは分からんがな……。

 俺がここに立っているという事実、それだけは神様でも曲げられんさ」


 豪胆な笑みを浮かべながらも、その目は鋭く水平線の歪みを捉え、いつでも剣を抜ける重心を維持していた。


「行きましょう、ルシ。

 この海の向こうに、私たちが取り戻すべき明日があるのね」


 リーフが、俺の左手を再び握りしめた。


 冷たい虚無の海の中で、彼女の体温だけが唯一の現実であり、俺を人間として定義する絶対的な重しだった。


「……よし、行くぞ。 理が死に、意志が試される場所へ」


 俺たちは、海と空が溶け合う黄金の水平線を目指し、物理法則の死滅した境界の海を渡り始めた。


 メギストス師父の杖が放つ淡い輝きが、暗い虚無の海に細い一本の道を刻んでいく。


 世界の終端。


 そこは、物語が終わる場所であり、俺たちが新たな記述を刻むべき、最初の空白地帯だった。

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