13-5 浸食される管理者
奈落の階段を一段下るごとに、世界の密度が異常な変容を遂げていく。
空気はもはや気体としての体をなさず、高濃度の魔力が肺を満たすたびに、内側から細胞が魔術式に書き換えられていくような感覚に襲われた。
特に、世界の核に直接触れた右半身の変貌は凄まじかった。
「……っ、ぐあぁッ!」
突如、右肩から指先にかけて、灼熱の杭を打ち込まれたような激痛が走る。
見れば、右腕を覆っていた人造の外殻が内側から弾け飛び、そこから剥き出しになった魔導の術式が、血管のように脈打ちながら、周囲の空間から魔力を強制的に吸い上げていた。
皮膚は蒼白な光を放つ紋様に塗り潰され、肉の感触は失われ、硬質な魔導結晶のような質感へと変質していく。
浸食が、加速している。
それは単なる負傷ではない。
世界の管理システムの一部として、俺という個が、巨大な全体へと溶け込もうとする不可逆の現象だった。
「ルシ……! 身体が……あなたの半分が、光に呑まれそうよ!」
リーフの悲痛な叫びが、遠くの方で響いた。
視界が二重に重なり、意識が引き裂かれる。
左目に見えるのは、不安に顔を歪める仲間たちの姿。
だが、右目に見えるのは、もはや物質としての世界ではない。
空間を構成する膨大な術式の奔流、世界の因果を記述する光の糸、そして、俺を管理者として迎え入れようとする非情な深淵の意思だ。
『……管理個体。 境界の維持は不要。 全体への帰還を……』
思考の隙間に、直接、無機質な声が響く。
意識が急速に薄れ、指先の感覚が、壁の向こうを流れる魔力と同化していく。
俺が俺でなくなる。
ルシという一人の魔導師の記憶が、世界樹が抱える悠久の記録の中に霧散し、ただの機能へと成り下がろうとしていた。
「逃がさないわ……ルシ、私を見て!」
その瞬間、熱を帯びた生身の温もりが、感覚を失いつつあった左手を強く握りしめた。
リーフだ。
彼女は、荒れ狂う魔力の奔流に吹き飛ばされそうになりながらも、必死に俺の手を掴んでいた。
世界樹の娘である彼女の瞳は、俺の魂が人間の境界線から溢れ出し、深淵へと滑り落ちようとしているのを、はっきりと捉えていた。
「私の声を聴いて!
あなたは、この街を救った魔導師で、不器用で、私たちの……私の大切な人なんだから!」
その一言が、轟音を切り裂いた。
私たちと言いかけ、あえて選び直された私のという言葉。
その響きに含まれた、隠しきれない独占欲と、魂を削るような切実な祈り。
それは、抽象的な世界の理などが決して持ち得ない、あまりにも人間臭く、あまりにも強い感情の質量だった。
その声こそが、俺という存在をこの世界に繋ぎ止める、最後にして最強の錨となった。
「……ああ、わかっている。 まだ、向こう側へ行くわけにはいかない」
俺は、光に浸食され、透け始めた右半身を強引に引き戻すように、残された左半身に力を込めた。
一割。
俺の中に残された、不完全で、脆く、だがかけがえのない人間としての自分。
その最後の領分にリーフの声を刻み込み、俺を飲み込もうとする世界の意思を撥ね除ける。
ネロが静かに歩み寄り、俺の右側に立った。
彼は何も言わなかったが、その身に宿る古代の権限を行使し、俺の右腕から溢れ出す過剰なエネルギーを中和するように、その掌を空間にかざしている。
アイリスは剣を抜き、実体のない魔力の重圧を物理的に切り裂くかのように俺の前に立った。
エルフィは、涙を溜めた瞳で俺の裾を強く掴んでいる。
仲間たちの存在が、温もりが、そしてリーフのあの声が。
浸食される俺の精神の境界線を、絶対的な重みとなって押し留めていた。
「……もうすぐだ。 そこにあるのは、理じゃない。 俺たちの未来を阻む、ただの敵だ」
俺の言葉に、右腕の術式が鋭く共鳴した。
管理者としての冷徹な権限と、人間としての燃えるような執念。
その二つが危うい均衡を保ったまま、俺たちはついに、螺旋階段の終点――特異点の心臓部へと辿り着いた。
そこには、世界のすべての光と闇が渦巻く、巨大な断層が口を開けていた。
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