13-4 アイズベルク家の残滓
黄金の光が降り注ぐ螺旋階段を降り切った先に待っていたのは、神聖な静寂ではなかった。
そこは、おぞましい人の業が、数十年もの時を経て凝固し、沈殿したような、澱んだ静寂が支配する空間だった。
剥き出しの壁面には、かつて地上を揺るがし、世界の理を歪めた狂気の魔導一族――アイズベルク家の紋章が刻まれている。
こここそが、世界の核に最も近い場所に隠された、彼らの私的な実験場。
かつてネロが兵器としての調整を施され、その無垢な魂を一片ずつ削り取られた場所であり、同時に、世界樹の神秘を解明するためにあらゆる禁忌が試みられた、呪われた揺り籠だった。
「……空気が、澱んでいる。
世界樹の清浄な魔力とは違う、吐き気を催すような執着の臭いだ」
俺が呟いた言葉は、重く湿った大気に遮られ、薄暗い部屋の奥へと消えていった。
室内には、かつての主が急いで立ち去ったかのように、整然と並ぶ魔導書やひび割れた結晶管がそのまま残されていた。
棚に並ぶ記録媒体には、千数年前に捨て置かれたはずの狂気の軌跡が、今もなお生々しい魔力の残滓を帯びて息づいている。
ネロが、一箇所の古びた作業机の前で足を止めた。
その幼い無表情な横顔に、微かな、だが鋭い痛みが走るのを俺は見逃さなかった。
机の上には、子供の体格に合わせた冷たい革の拘束具と、幾層にも重ねられた魔術式が複雑に走り書きされた古い羊皮紙が置かれている。
それはネロを調整するための仕様書――彼が人間であることを捨てさせられ、単なる人造魔導師へと作り替えられていった、魂の剥奪記録そのものだった。
「……ルシ、見て。 これ……」
傍らにいたリーフが、震える指で一つの大きな結晶管を指差した。
管の根元には、“世界樹の娘に関する適合実験:検体乙型”と題された記録媒体が収められている。
かつてリーフとは別に存在していたという、古の世界樹の娘。
不老にして魔力の奔流を視認し、世界そのものと接続する本物の娘。
彼女がアイズベルク家に捕らえられていた時代、彼らはその不老の仕組みを奪い取り、意のままに操るための術式を編もうとしていた。
だが、本物の娘の神秘はあまりにも強大で、人の手には余った。
だからこそ、彼らは扱いやすい予備を、人の手で造り出そうとしたのだ。
俺は、最奥の棚に置かれた、一冊の不気味なほど分厚い日誌を手に取った。
黒い表紙には、エルフィの名前の原型と思われる識別番号が、金のインクで無機質に記されていた。
ページを捲るごとに、白日の下に晒されるのは、神を恐れぬ残酷な真実だった。
「……嘘だろ……」
日誌に記されていたのは、ある計画の全貌だった。
エルフィは、どこかの村から拉致されてきたわけでも、誰かの子として祝福されて生まれたわけでもなかった。
彼女は、世界樹の魔力を安定して受け止めるための依代として、先代の世界樹の娘の因子を基底に、数多の少女の素質を魔導的に合成し、この冷たい地下室で培養された【人造の娘】だったのだ。
本物の娘を解析し、その劣化コピーとして、あるいは代替可能な部品として、この世に産み落とされた存在。
記録によれば、エルフィと同じ工程で造られた多くの姉妹たちは、世界樹が流し込む膨大な情報量に器が耐えきれず、産声を上げる前に精神を崩壊させ、泥のように溶けていったという。
唯一、奇跡的に人間の自我を持ち、激痛に適応し、生命として定着した個体。
それが、エルフィだった。
「私……は……」
エルフィの声が、細く震え、途切れた。
彼女が心のどこかで大切に抱えていた自分という存在の根底が、音を立てて崩れ落ちていく。
いつか本当の両親に会えるかもしれない、自分にも帰るべき場所があったはずだという、少女らしい微かな希望。
それが今、ただの比較実験用の副産物という無機質な言葉に塗り潰されていく。
「私は、作られた……ただの、器だったの……?」
彼女の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
しかし日誌の記述は、その涙さえも実験の成功を裏付ける高次感情の表出という生理現象として、淡々と肯定していた。
生命への敬意など、ここには欠片も存在しない。
アイリスがエルフィを抱きしめようと手を伸ばしたが、突きつけられた真実のあまりの重さに、その手が空中で止まる。
バナード師匠は苦々しく顔を背け、メギストス師父は静かに目を閉じて、この地に散った無数の魂へ祈りを捧げていた。
だが、俺は違った。
そんな記録など無価値だと、日誌を床に叩きつけた。
俺はエルフィの元へと歩み寄り、膝をついて彼女の目線に合わせる。
「違う。 エルフィ、そんな文字の羅列が君の正体なわけがない」
俺の身体の九割は、すでに世界樹の術式に侵食されている。
ネロは、古代の兵器として設計された。
そしてエルフィは、この地下で依代として編み上げられた。
俺たちは、誰もが普通の人間の物語という軌道から外れてしまった異端者だ。
だが、だからこそ。
「俺が今、こうして君の頭を撫でているこの手の温もりや、君が俺を『ルシお兄さま』と呼んでくれたあの瞬間の喜び。 それを、誰かに定義させる必要なんてない」
たとえ始まりがどれほど歪んだ場所だったとしても、俺たちがいま共に感じているこの絆だけは、何物にも侵されない真実だ。
「始まりがどうあれ、君は世界樹の娘だ。
アイズベルクのクズ共が何を書き残そうと、俺がそう決めた」
俺は一割しか残っていない人間としての力を振り絞り、エルフィの小さな肩を、壊さないように、けれど決して離さないように強く抱き寄せた。
アイズベルク家の残滓――。
それは、俺たちが真の深淵へ至るために乗り越えなければならない、過去という名の最後の鎖だった。
特異点の中心へ進む前に、俺たちは自分たちが何者として造られたかではなく、誰と共に在るかという答えを、この地獄のような部屋で見つけ出したのだ。
「……行こう。 この狂気の続きを、俺たちの手で終わらせるために」
俺は指先でエルフィの涙を拭い、再び奈落の奥を見据えた。
背後で、ネロが静かに、だがかつてないほど力強く俺の歩調に合わせた。
その足音は、呪縛を断ち切った者だけが鳴らせる確かな響きを帯びていた。
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