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13-0 懐かしき銀鱗の港

 空を焼くような極北の戦いを経て、飛空艇の船窓に映る景色は、冷涼な白から深い群青へと溶け始めていた。


 南西へと舵を切り、全速力で翔け続けた先に、懐かしき潮の香りが風に乗って届く。


 銀鱗ぎんりんの港、エリュシオン。


 かつて俺とリーフが、あるいはメギストス師父とバナード師匠、アイリスと共に追われるように、あるいは未知の運命に導かれるようにして出発した、あの場所だった。


 夕闇が降り始めた港町は、家々の窓から漏れる琥珀色の灯火ともしびに包まれ、まるで海辺に散らばる宝石箱のように輝いている。


 かつて俺がこの街を訪れた際、暴走する大地の魔力脈を鎮め、不安定だった魔導体系を切り離し、独立稼働させたことで、街には真の意味での平穏が戻っていた。


 停泊場に降り立つと、活気ある人々の声が波音に混じって聞こえてくる。


「……ここが、エリュシオン。

 ルシ兄さまたちが、旅を始めた場所なのですわね」


 エルフィが、初めて目にする自由な港町の風景に、感嘆の声を上げた。


 彼女にとって、そして隣で無表情ながらも興味深げに周囲を見渡すネロにとって、この活気ある街並みは、物語の中でしか知らなかった外の世界そのものだった。


 だが、そのエルフィの指先は、相変わらず夜の闇に溶けるように透けている。


 リーフの瞳も、時折走る不安定な光の乱れを隠しきれずにいた。


 俺の身体の奥底、九割を占める魔導式もまた、地底から伝わる微かな震えに共鳴して、焼けるような痛みを訴えている。


 神経を魔力の奔流が焼き、皮膚の裏側で術式が火花を散らすような感覚。


 俺は、溢れそうになる呻きを奥歯で噛み殺した。


「今夜は、身体を休めよう。 ……明日は、地獄のような大仕事になる」


 俺の言葉に、皆が静かに頷いた。


 一行が向かったのは、かつてリーフが看板娘として働いていた酒場『潮風亭しおかぜてい』だ。


 扉を開けると、潮気と麦酒エール、そして焼き魚の香ばしい匂いが一気に五感を叩いた。


「いらっしゃい!」


 カウンターの奥で、髭を蓄えたマスターが、いつもと変わらぬ穏やかな声で俺たちを迎えた。


 マスターや店員たちは、リーフがその魔導の才をもって作り出した存在だ。


 彼らにとってリーフや俺が戻ることは、朝が来れば陽が昇るのと同じくらい当然のことわりでしかない。


 彼らの瞳には驚きも、過剰な喜びもなかった。


 ただ、主の帰還を待っていた従者のような、静謐な受容があるだけだ。


 しかし、店を埋め尽くす常連客たちは違った。


「ルシじゃないか! それに、連れのみんなも……無事だったのか!」


「リーフちゃん! まさかまた会えるなんてな!」


 ジョッキを置く音、椅子を引く音が重なり、驚愕の声が店内に満ちる。


 店内は以前にも増して賑わっていた。


 魔力脈が安定したことで、船の魔導機関は絶好調、漁獲量も飛躍的に上がったらしい。


 俺が仕事をしたあの日は、この街の運命の分岐点だったのだと、常連客の弾むような声が物語っていた。


 俺たちは隅の席で、遅い夕食を囲んだ。


 出されたのは、エリュシオン名物の銀鱗魚ぎんりんぎょのパイ包み。


 サクサクとした生地の中に、濃厚な旨味の詰まった白身が踊る。


 初めて口にする港町の料理に、ネロが目を丸くし、エルフィが頬を緩める。


 温かな食事。


 仲間たちの笑い声。


 明日には世界の核に触れ、自分の命を、そして世界の在り方を書き換えようとしている戦士たちの束の間の休息。


 九割を失った俺の一割の人間性が、この温もりを、記憶の底に焼き付けるように咀嚼した。


「おいしい……。 本当に、戻ってこられたのね」


 リーフが、ノイズの混じる手を震わせながら、フォークを口に運ぶ。


 その光景はあまりにも尊く、俺はただ、胸の奥を締め付けられるような想いで彼女を見つめていた。


 ◆


 翌朝。


 窓から差し込む眩い朝日と、カモメの鳴き声で目を覚ました。


 潮風亭を後にし、一行がかつて東の王都を目指して出発した、あの懐かしい桟橋へと向かう。


 人混みの中、ふと足を止めた。


 そこには、一人の少女が立っていた。


 かつて、俺たちがこの港を旅立つ時、まだつぼみのような銀鱗草の花を一輪、手渡してくれた少女だ。


「……無事に戻ってきてくれたのね」


 少女の声は、潮騒のように澄んでいた。


 彼女の大きな瞳には、堪えきれない涙が溢れている。


 俺は懐の奥から、ボロボロになっても大切に持ち続けていた、あの時の一輪を取り出した。


「ああ。 君がくれたこの『銀鱗草の花』に、俺はいつも勇気づけられたよ。

 どんなに暗い北の空の下でも、この草が、エリュシオンの輝きを思い出させてくれたんだ」


 俺がそう言って微笑むと、少女は満足そうに、けれど慈愛に満ちた深い笑みを浮かべた。


 そして。


「……え?」


 ネロが、驚きに目を見開いた。


 少女の姿が、朝日に溶ける金色の霧のように、ふわりと輪郭を失っていく。


 まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、彼女の存在は風に攫われ、ただ潮の香りが残るだけとなった。


 その場にいた誰もが言葉を失う中、リーフとエルフィが、同時に天を仰いだ。


「……まさか、母様の……」


「ええ。 世界樹が、自らの崩壊を悟りながらも、最後に私たちを見送るために遣わした……化身だったのでしょうか」


 世界樹の意志。


 それは、五歳の俺を端末に変えた非情な神の意志ではなく、消えゆく間際、せめて娘たちと、その運命を背負った俺に「さよなら」を言いに来た、母親の愛だったのかもしれない。


 その神秘的な余韻を断ち切るように、俺は意識を切り替えた。


「……行くぞ」


 俺は解析眼を起動した。


 リーフとエルフィも、それぞれが持つ世界樹の娘としての感覚を研ぎ澄ませる。


 視界が、単なる港町の風景から、世界の構造を記述する魔導式の羅列へと塗り変わる。


 美しく活気に満ちたエリュシオンの足元。


 大地の底、かつて俺が手を加えた魔力集積所。


 そこは今、世界樹から逆流してきた膨大な再起動負荷に晒され、今にも臨界点を突破しようとしていた。


 俺たちの感覚が同期する。


 地下に走る数千、数万の魔力回路が、真っ赤に加熱され、断末魔を上げている。


 火を噴く寸前の、世界という名のことわりの心臓。


「限界まで、残り時間は少ない。 ……爆発すれば、エリュシオンごと世界が消える」


 俺の言葉に、仲間たちの瞳に決意の炎が宿った。


 懐かしき港町の美しさを守るため、そして、一人の背負う重荷を、みんなで分かち合う新しい理を築くため。


 俺たちは、賑わう市場の喧騒を背に、深淵へと繋がる地下遺跡の入り口へと走り出した。

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