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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第7話】場所の意味

 翌朝、迅は沢の出口に立っていた。


 手には、坂部角兵衛から渡された縄がある。


 古い縄だった。


 太くもない。

 立派でもない。

 ところどころ、ささくれ立っている。


 けれど、今の迅には、槍より重く感じられた。


 槍は、敵を止めるものだ。


 縄は、人を止めるものだ。


 止めるだけではない。


 流す。

 分ける。

 押し寄せる人の足を、違う道へ向ける。


 それを自分がやる。


 そう思うと、腹のあたりが重くなった。


「顔、昨日より死んでるぞ」


 隣で喜助が言った。


「お前、毎朝それ言うつもりか?」


「だって毎朝死んでるし」


「お前も似たようなもんだろ」


「俺は今日は、少しだけ生きてる」


「ずいぶん控えめな生存だな」


 喜助は少しだけ笑った。


 その肩には、水桶を運ぶための棒がかけられている。


 昨日、何度も人を背負い、荷物を運んだせいで、喜助の動きは少しぎこちない。


 それでも、逃げてはいない。


 迅は、そのことを口には出さなかった。


 言えば、喜助が調子に乗るからだ。


 沢の出口には、昨日よりも人が増えていた。


 足軽が四人。

 人足が三人。

 米を配る者が二人。

 水を運ぶ者が二人。


 そして、迅と喜助。


 それだけで、この場所を回すことになっている。


 多いのか少ないのか、迅には分からない。


 ただ、人が来れば足りなくなることだけは分かっていた。


 沢道の脇には、昨日より大きな木札が立てられている。


 怪我人。

 子ども連れ。

 歩ける者。

 浄火寺(じょうかじ)


 字は、昨日よりも大きい。


 坂部の配下が書き直したものだ。


 迅の書いた字は、読みづらいと言われた。


 腹が立ったが、実際に読みづらかったので何も言えなかった。


「火守」


 声がした。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)が近づいてくる。


 今日も顔は厳しい。


 朝から厳しい顔をして疲れないのか、と迅は思ったが、口には出さなかった。


「はい」


「昨日と同じだ。怪我人は右。歩ける者は左。子ども連れは一度水を飲ませる。座り込ませるな」


「分かってます」


「本当に分かっているか?」


「昨日、百回くらい言いました」


「なら今日は二百回言え」


「喉が潰れます」


「潰れる前に水を飲め」


 瀬川はそう言って、水袋を一つ渡した。


 迅は少しだけ驚いた。


「俺にですか?」


「声が出なくなれば困る」


「気遣いじゃなくて道具扱いですね」


「戦場では、使えるものは守る」


 迅は水袋を受け取った。


 褒められているような気はしない。


 だが、捨てられているわけでもない。


 よく分からない気持ちだった。


「それと」


 瀬川は、沢の奥を見た。


「今日は浄火寺(じょうかじ)から迎えが来る」


「迎え?」


「寺へ送る民を、途中で受ける者だ。僧兵も来る」


「僧兵」


 迅はその言葉を繰り返した。


 寺の者が兵を持つ。


 それも戦なのだろうか。


「寺の人って、戦うんですか?」


「戦う寺もある」


「祈る場所じゃないんですか?」


「祈るだけで守れるなら、誰も槍を持たん」


 瀬川の声は淡々としていた。


 迅は何も言えなかった。


 その答えは、どこか冷たくて、どこか本当だった。


     *


 朝のうちは、流れは穏やかだった。


 避難民は少しずつ来た。


 老いた夫婦。

 鍋を抱えた女。

 背中に赤ん坊を負った母親。

 肩に鍬を担いだ男。


 昨日のように、押し寄せるほどではない。


 それでも、迅は声を出し続けた。


「怪我人は右です!」


「歩ける人は左!」


「水を飲んだら、浄火寺(じょうかじ)への道へ進んでください!」


「荷物を置かないで! 道が詰まります!」


 最初は声が裏返った。


 次に、少し慣れた。


 同じ言葉を何度も言うと、口が勝手に動くようになる。


 けれど、気を抜くとすぐに人の流れが乱れる。


 子どもが泣く。

 母親が立ち止まる。

 老人が座り込む。

 荷物を落とす。

 後ろの者が詰まる。


 たった一人が止まるだけで、道はすぐ重くなる。


 迅は昨日より、それが見えるようになっていた。


「あの人、座らせるな」


 迅が言うと、喜助がすぐに走った。


「おじいさん、こっちです。座るなら岩じゃなくて、あっちの日の当たる場所に」


「そこに荷物置かないでください! 後ろの人が通れない!」


「子どもは水を先に!」


 喜助も、声が出るようになっている。


 本人は気づいていないかもしれない。


 だが、昨日より動きが早い。


 迅はそれを横目で見た。


「喜助」


「なんだ!」


「少しは役に立つようになったな」


「今それ言う?」


「今しか言えない」


「もっと優しく褒めろ!」


「無理だ!」


 二人の声が、沢の音に混じった。


 少しだけ、周囲の空気が軽くなった。


 泣いていた子どもが、ぽかんと二人を見ている。


 その隣で、母親がほんの少し笑った。


 迅はそれを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 笑えるなら、まだ大丈夫。


 そう思いたかった。


     *


 昼前、浄火寺(じょうかじ)からの一団が来た。


 先頭に立っていたのは、背の高い僧だった。


 頭は丸めている。

 だが、ただの僧には見えなかった。


 肩幅が広い。

 手には長い杖。

 背後には、槍を持った僧兵が四人いる。


 白い衣の上に、簡素な鎧をつけていた。


 祈る者の姿でありながら、戦う者の姿でもあった。


 迅は、思わずじっと見てしまった。


 その僧が、迅の前で足を止める。


「ここを任されている者か?」


「えっと……任されているというか、立たされています」


 喜助が隣で顔をしかめた。


「そこは任されてますって言えよ」


「嘘はよくない」


「言い方の問題だろ」


 僧は少しだけ目を細めた。


 笑ったのかもしれない。


「名は」


「火守迅です」


蓮昭(れんしょう)だ。浄火寺(じょうかじ)の僧兵を束ねている」


 迅は少しだけ背筋を伸ばした。


「僧兵の……偉い人ですか?」


「偉いかどうかは知らん。面倒なことを押しつけられる役だ」


「あ、それなら少し分かります」


 喜助が肘で迅を小突いた。


「失礼だろ」


 蓮昭は今度こそ少し笑った。


「構わん」


 その後ろで、浄火寺(じょうかじ)の僧兵たちは無言で周囲を見ていた。


 避難民。

 釜。

 水桶。

 木札。

 沢道。


 彼らの目は、祈る者の目というより、戦場を見る目だった。


 瀬川が近づいてくる。


「蓮昭殿」


「瀬川殿。寺では受け入れの場を空けております。ただし、条件があります」


 迅は、思わず二人を見る。


 条件。


 この状況で、条件があるのか。


 瀬川の表情は変わらない。


「聞きましょう」


 蓮昭は静かに言った。


「武具を持つ者は、寺の内へ入れませぬ。避難民の中に刀や槍を持つ者がいれば、門前で預かります」


「敵が混じる可能性を考えてですか?」


「それもあります。ですが、寺の中で争いを起こさせぬためです」


 喜助が小声で言った。


「寺の中でも揉めるのか?」


 迅も小声で返す。


「米があれば揉めるだろ」


「悲しいこと言うな」


「本当のことだろ」


 蓮昭は二人の声が聞こえていたのか、少しだけこちらを見た。


 それから続ける。


「もう一つ。浄火寺(じょうかじ)の井戸は使えますが、米は多くありませぬ。城からの配分が必要です」


「それは倉橋正継(くらはしまさつぐ)殿へ伝えます」


「最後に」


 蓮昭の声が、少しだけ重くなった。


「寺へ入れるのは、避難民です。兵を隠すためには使わせません」


 瀬川の目が細くなる。


浄火寺(じょうかじ)は中立を保つ、ということですか?」


「はい」


荒砥(あらと)の者が民のふりをして来た場合は?」


「武器を持っていれば止めます。怪我人であれば治します。敵か味方かは、門の外で詮議してください」


 迅には、その言葉が少し不思議に聞こえた。


 敵でも、怪我人なら治す。


 そんなことができるのか。


 瀬川はしばらく蓮昭を見ていた。


 やがて、短くうなずく。


「承知しました。避難民を送ります」


「受けましょう」


 話は終わったようだった。


 だが、迅の中には引っかかるものが残った。


 敵か味方かは、門の外で。


 寺の中では、怪我人は怪我人。


 それは優しいのか。

 それとも、冷たいのか。


 迅には分からなかった。


     *


 浄火寺(じょうかじ)の僧兵が来たことで、人の流れは少し変わった。


 歩ける者は、僧兵に導かれて寺へ向かう。

 怪我人は、沢の出口で布を巻かれる。

 熱のある者は、いったん日陰へ寝かされる。


 蓮昭は、動きが速かった。


 僧兵に短く命じる。


「子ども連れを先に」


「水を飲ませすぎるな。腹を壊す」


「老人は二人で支えろ」


「荷を持ちすぎている者は減らせ。命より重い荷はない」


 最後の言葉に、迅は少しだけ反応した。


 命より重い荷はない。


 正しい。


 きっと正しい。


 だが、昨日の女は位牌を離さなかった。


 あれは、命より軽いのだろうか。


 迅には答えが出なかった。


「火守」


 蓮昭が声をかけた。


「はい」


「お前は、よく人の足元を見ているな」


「そうですか?」


「怪我を隠す者を見つけるのが早い」


「ああ……歩き方が変なので」


 迅は、自分でも不思議だった。


 前は、こんなものを見ていなかった。


 いや、見ていたのかもしれない。


 ただ、気にしていなかっただけで。


 小夜は、最初から見ていた。


 人の顔。

 足跡。

 馬の蹄。

 風向き。


 自分は、小夜には遠く及ばない。


 それでも、少しだけ、見えるものが増えていた。


「戦に向いている目だ」


 蓮昭が言った。


 迅は顔をしかめた。


「嬉しくないです」


「だろうな」


「分かるんですか?」


「戦に向いている者が、戦を好むとは限らん」


 蓮昭は、沢道の奥を見た。


「むしろ、好まぬ者の方が、見落とさぬこともある」


「どういう意味ですか?」


「死にたくない者は、死ぬ場所を見る。人を死なせたくない者は、倒れそうな者を見る」


 迅は黙った。


 似たようなことを、黒羽甚内(くろばじんない)にも言われた気がする。


 死にたくない者は、道を見る。


 戦を知る者たちは、なぜ同じようなことを言うのだろう。


 その時だった。


 沢道の奥から、男の叫び声が聞こえた。


「待ってくれ! 置いていかないでくれ!」


 迅は振り向いた。


 数人の避難民が現れた。


 だが、その中の一人が、両手を縛られている。


 周りの男たちが、その者を引きずるように連れてきていた。


「何ですか?」


 迅が駆け寄る。


 縛られていた男は、二十代半ばほどだった。


 顔に殴られた跡がある。


 連れてきた男が、怒鳴るように言った。


「こいつ、荒砥の者だ!」


 周囲がざわついた。


 避難民たちが一歩下がる。


 足軽が槍を構える。


 喜助が水桶を抱えたまま固まった。


 縛られた男は、必死に首を振る。


「違う! 違う! 俺は薄尾(すすきお)の者だ! 荒砥に連れていかれただけだ!」


 薄尾。


 迅の頭に、沼原弥平の言葉がよみがえった。


 荒砥に従わされた土地。


 瀬川が近づく。


「武器は」


「持っていました!」


 連れてきた男が言う。


「短刀を隠していた!」


「違う! 道中で拾ったんだ! 身を守るために!」


「嘘をつけ!」


 周囲の声が荒くなる。


「敵だ!」


「ここに入れるな!」


「そいつらが村を焼いたんだ!」


 縛られた男の顔が青くなる。


 迅は、何も言えなかった。


 敵かもしれない。


 でも、従わされた者かもしれない。


 短刀を持っていた。


 けれど、本当に身を守るためかもしれない。


 分からない。


 分からないのに、周りの怒りだけが大きくなっていく。


 このままだと、誰かが殴る。


 いや、殺すかもしれない。


 蓮昭が一歩前へ出た。


 その杖が、地面を強く打った。


 乾いた音が響く。


 ざわめきが止まった。


「ここは浄火寺(じょうかじ)へ続く道だ」


 蓮昭の声は低かった。


「怒りは分かる。だが、ここで殺せば、この道は避難路ではなくなる」


 誰もすぐには言い返せなかった。


 瀬川が足軽へ言う。


「短刀は預かれ。男は別に座らせる。詮議は城で行う」


「しかし」


「ここで決めるな」


 瀬川の声が鋭くなった。


「ここは人を流す場所だ。裁く場所ではない」


 迅は、その言葉に息をのんだ。


 ここは人を流す場所。


 裁く場所ではない。


 自分が立っている場所の意味が、少しだけはっきりした。


「火守」


 瀬川が迅を見る。


「道を止めるな」


「……はい」


 迅は息を吸った。


 声を出す。


「怪我人は右! 歩ける人は左! 止まらないでください! 詰まります!」


 最初は、誰も動かなかった。


 皆、縛られた男を見ている。


 迅はもう一度叫んだ。


「ここで止まったら、後ろの人が来られません! 歩ける人は左へ! 水を飲んだら浄火寺(じょうかじ)へ!」


 喜助も声を出した。


「こっちです! 子ども連れは先に水を!」


 僧兵も動いた。


 足軽も道を開けた。


 少しずつ、人が動き出す。


 怒りは消えていない。


 恐怖も消えていない。


 でも、人の流れは戻った。


 迅は、縄を握った手に汗を感じた。


 戦っている。


 坂部の言葉を思い出す。


 槍を振らなくてもな。


     *


 昼過ぎ、沢の出口に雨が落ち始めた。


 最初は細い雨だった。


 すぐに、粒が大きくなった。


 釜の火が弱くなる。

 薪が湿る。

 足元がぬかるむ。

 避難民たちが身を寄せ合う。


「薪を濡らすな!」


 喜助が叫んだ。


「水桶の布をこっちへ!」


「子どもを木の下へ!」


 迅も声を張る。


「足元に気をつけてください! 走らないで! 走ると転びます!」


 雨は、すべてを重くした。


 服が重い。

 荷物が重い。

 足が重い。


 それでも人は来る。


 沢道の奥から、次々に。


 迅の喉はもう痛かった。


 だが、声を止めると、人の流れが乱れる。


 止められない。


 坂部の配下が追加の木札を持ってきた。


「火守! こっちにも札を立てるぞ!」


「そこじゃ見えません! もう少し前!」


「前だと倒れる!」


「石で押さえればいい!」


「石を持ってこい!」


 迅は、知らないうちに指示を出していた。


 言ってから、自分で驚く。


 自分が何を偉そうに。


 そう思った。


 だが、人足たちは動いた。


 木札が立つ。

 石で押さえる。

 縄が張られる。

 人が流れる。


 それを見て、迅は唇を噛んだ。


 自分の声で人が動く。


 怖い。


 間違えれば、人が転ぶ。

 間違えれば、道が詰まる。

 間違えれば、誰かが逃げ遅れる。


 声を出すことも、槍を出すことと同じくらい重いのかもしれない。


 その時、雨の向こうから鐘が鳴った。


 一つ。


 民の到着。


 続いて、もう一つ。


 二つ。


 敵影。


 沢の出口にいた者たちが、一斉に顔を上げた。


 迅の手が、縄を強く握った。


 また来る。


 瀬川が刀に手をかける。


 蓮昭が僧兵へ合図を出す。


 足軽たちが道の脇へ散る。


 迅は、逃げる民の列を見た。


 雨で見えづらい。

 足元は悪い。

 子どもが多い。


 ここで乱れたら、終わる。


「喜助!」


「何!」


「縄を張る!」


 二人で縄を道の中央に渡す。


 完全に塞ぐのではない。


 幅を狭める。


 一度に押し寄せないようにするためだ。


「一人ずつ! 押さないで! 子どもから!」


 迅は叫んだ。


 雨で声が消えそうになる。


 それでも叫ぶ。


「怪我人は右! 歩ける人は左! 走らないで!」


 敵影は、沢道の奥にちらついていた。


 まだ遠い。


 だが、見える。


 瀬川が足軽に言う。


「前に出すぎるな。民の流れを切るな」


 蓮昭も僧兵に命じる。


「槍は低く。脅すな。道を空けろ」


 僧兵と足軽が並ぶ。


 寺と城の者が、同じ道を守っている。


 迅はその間で縄を握っていた。


 雨が顔を打つ。


 目に入る。


 それでも、見た。


 倒れそうな者。

 荷物を落とした者。

 泣いて止まる子ども。

 足を引きずる男。


「喜助、あの子!」


「分かった!」


「そこの荷物、捨てなくていい! 持てる人に渡して!」


「水場に止まらないで! 進んで!」


 敵の姿が近づく。


 だが、民は流れている。


 昨日より、速い。


 昨日より、乱れていない。


 少しずつ、道が生きている。


 迅は、そう感じた。


 その時、縛られていた薄尾の男が立ち上がった。


 足軽が槍を向ける。


「座っていろ!」


 男は叫んだ。


「違う! そっちの道じゃだめだ!」


 迅は振り向いた。


 男は沢道の奥を指していた。


「右の林に入るな! そこはぬかるむ! 馬も人も沈む!」


 避難民の一部が、敵を避けようとして右の林へ逃げかけていた。


 迅は目を凝らす。


 雨で泥が黒くなっている。


 確かに、足を取られそうだった。


「右に行くな!」


 迅は叫んだ。


「道に戻れ! そこは沈む!」


 数人が足を止めた。


 僧兵が走り、右へ逃げかけた者たちを戻す。


 その直後、一人の男が試しに踏み込んだ場所が、深く沈んだ。


 膝まで泥に入る。


 周囲が息をのんだ。


 薄尾の男は、肩で息をしていた。


 瀬川がその男を見る。


「なぜ知っている」


「昔、通ったことがある。雨の日は沈む」


 迅は、その男を見た。


 敵かもしれない。

 従わされた者かもしれない。

 でも今、道を救った。


 呼び方が、また揺れる。


「火守!」


 瀬川の声で、迅は我に返った。


「止まるな!」


「はい!」


 迅は縄を握り直した。


 今は考える時ではない。


 流す時だ。


     *


 雨の中、避難民の列は何とか崩れずに抜けた。


 敵影は近づいたが、瀬川と足軽、蓮昭の僧兵たちが道を押さえ、深追いはさせなかった。


 敵は数人だった。


 こちらの備えを見て、すぐに林の中へ消えた。


 追わなかった。


 黒羽甚内なら、きっとそう言っただろう。


 見たことを持ち帰れ。


 迅は、雨に濡れたまま立っていた。


 足元は泥だらけ。

 手は縄で擦れて赤くなっている。

 喉は焼けるように痛い。


 それでも、道は詰まらなかった。


 浄火寺(じょうかじ)へ向かう列は、ゆっくり進んでいる。

 怪我人は岩の横で手当てを受けている。

 釜の火も、何とか残っている。


 喜助が隣に座り込んだ。


「俺、もう動けない」


「俺もだ」


「でも、動けって言われるんだろ」


「たぶんな」


 二人は雨の中で、しばらく黙っていた。


 すると、さっきの薄尾の男が近づいてきた。


 縄はかけられたままだ。


 足軽がそばについている。


 男は、迅に頭を下げた。


「さっきは、信じてくれて助かった」


「信じたわけじゃないです」


 迅は言った。


「見たら、危なそうだったから」


 男は少しだけ笑った。


「それで十分だ」


「名前は?」


 迅は聞いた。


 男は少し驚いた顔をした。


佐平(さへい)


「薄尾の?」


「ああ」


 迅はうなずいた。


「俺は迅です」


「知ってる。皆、火守って呼んでる」


「それは名字です」


「じゃあ、迅」


 佐平は、雨に濡れた顔で言った。


「俺は敵なのか?」


 迅は答えられなかった。


 敵ではない、と言い切れない。

 敵だ、とも言い切れない。


 だから、正直に言った。


「分かりません」


 佐平は目を伏せた。


「そうか」


「でも」


 迅は、少しだけ言葉を探した。


「さっき、道は助かりました」


 佐平は顔を上げた。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「それで十分だ」


 同じ言葉を、もう一度言った。


     *


 その日の夕方、沢の出口の報告は、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ届けられた。


 雨で狼煙(のろし)は使いづらかった。

 だが、鐘の合図は役に立った。


 民の到着。

 敵影。

 火。


 その三つの音が、混乱を少しだけ早く知らせた。


 迅たちは、夜になってようやく城へ戻った。


 雨は弱くなっていたが、服は重かった。


 体の芯まで冷えている。


 それでも、迅の手には縄があった。


 泥で汚れ、濡れて、さらに重くなった縄だ。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)がそれを見た。


「捨てなかったか」


「捨てたら怒るでしょう」


「怒るな」


「嘘ですね」


「少し怒る」


 坂部は笑った。


 それから、迅の手を見た。


 縄で擦れた赤い跡。


「痛むか?」


「痛いです」


「なら覚える」


「何をですか?」


「人を流すのは、手も声も使うということだ」


 迅は何も返さなかった。


 坂部は続けた。


「今日、沢の出口は詰まらなかった」


「皆がいたからです」


「そうだ。だが、お前が声を出した」


「出さないと怒られるので」


「理由は何でもいい。出したことが残る」


 坂部は、荷駄置き場の方へ歩き出した。


「明日も頼むぞ、道の番」


「その呼び方やめてください」


「嫌か?」


「嫌です」


「なら覚えやすい」


「最悪だ」


 坂部は笑いながら行ってしまった。


 迅はため息をついた。


 道の番。


 嫌な呼び方だ。


 でも、少しだけ胸に残った。


     *


 夜。


 迅は、城の壁際で縄を乾かしていた。


 火に近づけすぎると傷む、と坂部に言われたので、少し離している。


 槍は壁に立てかけてある。

 炭の欠片は懐にある。

 縄は目の前にある。


 持つものが、また一つ増えた。


 その分、逃げるのが下手になる気がした。


 喜助はすでに横で寝息を立てている。


 疲れ切った顔だった。


 だが、昨日より少しだけ、眠れているように見えた。


 迅は、目を閉じた。


 雨の音が、まだ耳に残っている。


 鐘の音。

 怒鳴り声。

 泣き声。

 蓮昭の杖の音。

 佐平の声。


 俺は敵なのか。


 その問いに、迅は答えられなかった。


 これからも、答えられないことが増えていくのだろう。


 それでも、道は作らなければならない。


 誰かが逃げるために。

 誰かが生きるために。

 誰かが、明日も飯を食うために。


 徒火(あだび)


 誰かを守ろうとして灯す火。


 その火は、時には槍になり、時には釜になり、時には木札になり、時には縄になる。


 今日の迅には、そう思えた。


 まだ、小さな火だ。


 風が吹けば消えそうな、頼りない火だ。


 それでも、沢の出口で、確かに誰かの道を照らした。


 迅は、濡れた縄を見つめた。


 明日もまた、あの場所に立つ。


 怖い。


 嫌だ。


 逃げたい。


 けれど、そこに立たなければ、道が詰まる。


 そう思ってしまった時、迅はもう、昨日までの迅ではなかった。

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