【第6話】道を示す声
朝の灰ヶ峰城は、湯気の匂いがした。
釜で煮える粥。
濡れた薪。
人の汗。
馬の匂い。
湿った土。
城の中に、いくつもの匂いが混じっていた。
迅は、荷を担いだまま、西の馬場を歩いていた。
昨日よりも、人が増えている。
座り込む老人。
子どもを抱いた女。
足に布を巻いた男。
何も持たずに立ち尽くす少年。
みんな、どこかの村から逃げてきた者たちだった。
どの顔も、眠れていない。
どの手も、何かを失ったように空いていた。
「道を開けろ! 釜を運ぶぞ!」
前方で、坂部角兵衛の配下が声を張った。
人足たちが大きな釜を運んでいる。
その後ろに、米袋、水桶、薪の束が続く。
迅も、その列の一人だった。
今日は、沢の出口へ行く。
そこで小さな炊き出し場を作る。
昨日の評定で決まったことだ。
逃げてくる民を、すべて城の中に入れることはできない。
西の馬場だけでは足りない。
浄火寺へ送る道も使う。
沢道から来る者は、沢の出口でいったん休ませる。
言葉にすれば簡単だった。
だが、実際にやるとなると、何もかも足りなかった。
米が足りない。
薪が足りない。
水桶が足りない。
人手が足りない。
足りないものばかりだ。
それでも、やらなければならない。
「迅、こっち重い」
横で喜助が顔をしかめていた。
肩に薪を担いでいる。
「俺も重い」
「お前、米袋一つだろ」
「米袋を軽いものみたいに言うな」
「俺の薪の方が多い」
「なら交換するか?」
「しない」
「じゃあ言うな」
喜助は口を尖らせた。
それでも、歩く足は止めない。
昨日、子どもを背負って戻ってきた時よりは、少し顔がましだった。
怖がっているのは変わらない。
だが、完全に足が止まるほどではない。
迅は、それに少しだけ安心した。
自分も同じだった。
怖い。
行きたくない。
でも、足は前に出ている。
それが良いことなのかは、まだ分からない。
ただ、止まれば誰かが困る。
そのことだけは分かっていた。
*
城門の内側で、瀬川源次郎が一団を待っていた。
隣には、倉橋正継の配下らしい男がいる。
腰に帳面を下げ、米袋の数を一つずつ確認していた。
「沢の出口へ送る分」
男が読み上げる。
「米二俵。塩半袋。干し大根一束。薪十束。水桶六。縄三。木札二十」
喜助が小声で言った。
「足りるのか?」
「足りないだろ」
「だよな」
「聞くな。悲しくなる」
迅が答えると、帳面の男がこちらを見た。
「足りぬから数えるのだ」
低い声だった。
迅は慌てて口を閉じた。
男は続ける。
「米は勝手に増えん。だから、誰にどれだけ渡したかを記す。記さねば、昨日食べた者も今日食べられず、今日来た者も明日死ぬ」
迅は何も言えなかった。
米を数える。
それは冷たいことに見える。
だが、数えなければ、誰かが食べられなくなる。
兵糧とは、そういうものなのだろう。
瀬川が一歩前へ出た。
「聞け」
その場の者たちが顔を上げる。
足軽。
人足。
煤谷村から来た男たち。
城下から借り出された者たち。
全部合わせても、三十人ほどだった。
「今日の役目は、敵と戦うことではない」
瀬川は言った。
「沢の出口に炊き出し場を作る。逃げる民を受ける。怪我人を見つける。歩ける者は浄火寺への道へ送る。歩けぬ者は、馬場へ戻す」
足軽の一人が尋ねた。
「敵が来た場合は?」
「鐘を鳴らす。狼煙を上げる。逃げる」
即答だった。
喜助が、小さく息を吐く。
迅も同じ気持ちだった。
戦わなくていい。
そう聞くと、少しだけ体が軽くなる。
だが、瀬川はそこで終わらなかった。
「ただし、民を置いて逃げるな」
空気が締まる。
「逃げ道を作るのが、今日の仕事だ。お前たちが先に崩れれば、民も崩れる」
瀬川は、迅を見た。
「火守」
「はい」
「お前は沢道を見ている。道の入口に立て。来た者を、歩ける者と歩けぬ者に分けろ」
「俺がですか?」
「そうだ」
「俺、人を分けるとか、そういうの向いてないんですけど」
「向いていなくてもやれ」
「いつもそれですね」
「戦は向いている者だけで回らん」
反論できなかった。
瀬川は続ける。
「喜助」
「はいっ」
「お前は火守につけ。子ども、荷物、怪我人を運べ」
「またですか?」
「嫌ならもっと速く逃げられる顔をしろ」
「顔で決まるんですか?」
「半分はな」
喜助は何とも言えない顔をした。
迅は少しだけ笑いそうになった。
すぐにやめた。
笑える空気ではない。
それでも、ほんの少し、胸の硬さがほどけた。
*
沢の出口は、城から東へ少し下った場所にあった。
山の斜面から細い沢が流れ出し、そこから道が二つに分かれている。
一つは灰ヶ峰城へ戻る道。
もう一つは、遠回りをしながら浄火寺へ続く道。
沢の出口には、開けた場所があった。
広いとは言えない。
だが、釜を置き、人を休ませるだけなら何とかなる。
ただし、周囲は木が多い。
身を隠すには向いている。
逆に言えば、敵も隠れやすい。
瀬川はすぐに指示を出した。
「釜は沢の近く。ただし水際に寄せすぎるな。足場が崩れる」
「薪は乾いた場所へ積め」
「怪我人はあの大きな岩の横。日が当たる」
「歩ける者は、休ませすぎるな。浄火寺へ送る」
迅は、荷を下ろしながら周囲を見た。
沢の音。
木々の揺れ。
ぬかるんだ足元。
逃げてきた者が通りそうな道。
昨日見た足跡の場所も、まだ少し残っている。
泥は、嘘をつかない。
小夜なら、もっと見えるのだろうか。
そんなことを思った。
「火守」
呼ばれて振り向くと、坂部角兵衛が立っていた。
荷駄頭らしく、腰に短い縄をいくつも下げている。
大柄で、目つきは鋭い。
だが、声は意外と軽かった。
「お前、沢道を見たんだってな」
「はい」
「じゃあ、ここに立て」
坂部は、道の分かれ目を指した。
「ここで人を止める。怪我人は右。歩ける者は左。子ども連れは一度水を飲ませてから左。泣いて動けない者は、無理に引っ張るな。座らせると立たなくなるから、肩を貸して歩かせろ」
「多いですね」
「覚えろ」
「一度に言われても」
「なら、書いてやる」
坂部は近くの人足に木札を持ってこさせた。
そこに炭で文字を書く。
怪我人。
子ども。
歩ける者。
浄火寺。
馬場。
「読めるか?」
「少しなら」
「なら十分だ」
坂部は木札を道の脇に立てた。
「人は、怖い時ほど字を読まん。だから、お前が声を出せ」
「俺が?」
「声が小さいと流されるぞ」
「俺、そういうの本当に向いてないです」
「さっきも誰かに言ってなかったか?」
「言いました」
「なら、そろそろ諦めろ」
坂部は笑った。
迅は全然笑えなかった。
それでも、木札の前に立った。
喜助が隣に来る。
「大役だな」
「うるさい」
「道の番人みたいだ」
「やめろ。余計に嫌になる」
「でも、似合ってるぞ」
「嬉しくねえ」
二人が小声で言い合っていると、沢道の奥から声が聞こえた。
人の声。
複数だ。
迅は、息を吸った。
最初の避難民が来る。
*
沢道から現れたのは、五人だった。
年寄りの夫婦。
若い男。
小さな女の子。
それから、肩を押さえた少年。
皆、泥だらけだった。
若い男が前に出る。
「ここは、城へ行く道で合ってるか?」
迅はうなずいた。
「合ってます。怪我人は右。歩ける人は左。水を飲んでから浄火寺へ」
「寺?」
「城の中は人が多すぎる。歩ける人は寺へ回すことになってます」
男は不安そうに顔をしかめた。
「城に入れないのか?」
「入れないんじゃなくて、分けてます」
迅は、瀬川や真木重頼が言っていたことを思い出した。
一箇所に集めれば、一度崩れた時に全て失う。
「寺には井戸と広場があるそうです。そこなら休める」
「本当か?」
「俺は見てないので、絶対とは言えません」
言ってから、迅はまずいと思った。
男の顔が強張る。
喜助が横から慌てて言った。
「でも、灰ヶ峰城の命令です。道に足軽もつきます」
男は少しだけ安心したようだった。
迅は小さく息を吐く。
言葉は難しい。
嘘はつきたくない。
でも、本当だけ言えば人は不安になる。
これも、戦の中なのか。
少年の肩を見た。
布が赤くなっている。
「そっちの子は右です」
「俺は歩ける」
少年が睨んだ。
「歩ける人は左です。でも血が出てる人は右です」
「これくらい平気だ」
「平気な顔じゃない」
少年は言い返そうとしたが、ふらついた。
迅は肩を支えた。
「右」
「……分かったよ」
少年は悔しそうに言った。
その顔が、少しだけ烈に似ていた。
迅は胸の奥が重くなった。
「喜助」
「分かった」
喜助が少年を支え、岩の横へ連れていく。
迅は次の者たちへ声をかけた。
「怪我人は右! 歩ける人は左! 水を飲んだら、浄火寺への道へ進んでください!」
声は少し震えた。
それでも、出た。
人が動く。
右へ。
左へ。
水場へ。
岩の横へ。
小さな流れができた。
迅は、それを見ていた。
ただ叫んだだけだ。
ただ道を分けただけだ。
それなのに、人が少しずつ動く。
道が詰まらない。
釜の前に人が固まらない。
怪我人が踏まれない。
もしかしたら、こういうことも守ることなのかもしれない。
そう思った。
*
昼前には、沢の出口は人でいっぱいになった。
避難民は次々に来る。
一人で来る者。
家族で来る者。
何も持たない者。
鍋だけ抱えた者。
鶏を抱えている者までいた。
喜助がそれを見て、思わず言った。
「鶏まで逃げてくるのか?」
迅は汗を拭いながら答えた。
「家族なんだろ」
「鶏が?」
「知らねえけど、大事なんだろ」
その鶏を抱えた女は、誰にも渡さないように必死に抱いていた。
迅は何も言わなかった。
失ったものが多い時、人は残ったものを強く抱く。
それが鶏でも、鍋でも、小さな木箱でも。
笑う気にはなれなかった。
釜の前では、倉橋正継の配下が粥をよそっていた。
「一人一杯! 子どもと怪我人を先に!」
「押すな! こぼれる!」
「水はあちらだ!」
混乱は何度も起きかけた。
そのたびに、迅は声を張った。
「怪我人は右です!」
「歩ける人は左!」
「子ども連れは水を飲んでから!」
「座らないで! 少し休んだら浄火寺へ!」
喉が痛い。
足も痛い。
頭も痛い。
だが、止まれない。
喜助も走り回っていた。
子どもを背負う。
荷物を持つ。
転んだ老人を起こす。
水桶を運ぶ。
昨日まで、槍なんか持ったことがないと泣きそうだった男には見えなかった。
「喜助!」
「なんだ!」
「その人、右!」
「右ってどっちだっけ!」
「怪我人の方!」
「最初からそう言え!」
「覚えろ!」
二人とも怒鳴っていた。
でも、怒っているわけではない。
声を張らなければ、人の波に飲まれる。
道を作るとは、こういうことなのだと、迅は少しずつ分かってきた。
その時、沢道の奥から鐘が鳴った。
一つ。
民の到着。
迅は顔を上げた。
また来る。
息を整える暇もない。
瀬川が近づいてきた。
「火守、まだ声は出るか?」
「出ないと言ったら?」
「出せ」
「聞く意味あります?」
「ない」
瀬川はあっさり言った。
迅は思わず顔をしかめた。
だが、次の避難民が見えた瞬間、また声を出した。
「怪我人は右! 歩ける人は左! 水は先に飲んでください!」
*
午後になって、空が少し曇った。
山の上から、重い雲が降りてくる。
湿った風が、木々を揺らした。
坂部が空を見上げる。
「降るな」
瀬川も顔を上げた。
「狼煙は使いづらくなる」
「鐘を増やすしかねえ」
「人手は」
「足りねえ」
「知っている」
二人の会話は短い。
だが、迅には分かる。
また、何かが足りなくなっている。
空から雨が落ち始めれば、沢道はもっと滑る。
怪我人は増える。
火も起こしにくくなる。
狼煙も使いにくくなる。
何か一つ悪くなるだけで、全部が重くなる。
「火守」
坂部が呼んだ。
「はい」
「沢道の入口に置いた木札を、もう少し手前に移せ」
「なぜですか?」
「人がここまで来てから迷うと詰まる。迷う前に分ける」
迅ははっとした。
確かに、沢の出口まで来てから人が立ち止まると、後ろの者がつかえる。
怖がった者が座り込む。
子どもが泣く。
荷物が倒れる。
そうなる前に分ける。
「分かりました」
「喜助も連れていけ」
「はい」
迅は木札を抜き、喜助を呼んだ。
「行くぞ」
「どこへ?」
「少し沢道へ戻る。木札を移す」
「また沢道かよ」
「俺も嫌だよ」
「ならやめよう」
「やめたら怒られる」
「誰に?」
迅は瀬川と坂部を見た。
喜助も見た。
「行こう」
「急に物分かりいいな」
二人は木札を抱えて、沢道へ入った。
*
沢道は、朝よりも荒れていた。
多くの人が通ったせいで、土が削れている。
足跡が重なり、泥が深くなっていた。
迅は道の脇を見ながら歩いた。
折れた枝。
踏まれた草。
小さな布切れ。
荷物からこぼれた米粒。
ここを、何人もの人が通った。
泣きながら。
急ぎながら。
誰かを支えながら。
その跡が、道に残っている。
「この辺りか?」
喜助が言った。
沢道が少し広くなる場所だった。
ここなら、早めに人を分けられる。
迅は木札を立てた。
怪我人。
子ども連れ。
歩ける者。
浄火寺。
「文字だけじゃ、分からない人もいるよな」
迅は言った。
「どうする?」
喜助が聞く。
迅は少し考え、木札の下に石を置いた。
右の道には、大きな石を一つ。
左の道には、小石を三つ並べる。
「大きい石は、休む場所。小さい石は、歩く道」
「誰が分かるんだよ」
「分からねえか」
「いや、分かるかもしれないけど」
喜助は首をひねった。
迅も、自信はなかった。
小夜なら、もっと分かりやすく置くのだろう。
そう思った。
小夜が土の上に小石を置いていた姿が浮かぶ。
あれは、遊びではなかった。
道を分かるようにする力だった。
「小夜なら、どうするかな」
迅がつぶやくと、喜助が笑った。
「妹に聞きたくなってるじゃん」
「うるさい」
「でも、あの子なら何か言いそうだな」
「言うだろうな。『迅兄、石の置き方が雑』とか」
「言いそう」
二人は少しだけ笑った。
その時だった。
遠くで鐘が鳴った。
一つ。
民の到着。
迅は顔を上げた。
沢道の奥から、数人の影が見える。
だが、その動きがおかしかった。
走っている。
ただ逃げているだけではない。
追われているように見えた。
次の瞬間。
鐘が、もう一つ鳴った。
二つ。
敵影。
喜助の顔から血の気が引いた。
「迅」
「戻るぞ」
迅は木札を立て終えると、走り出した。
だが、すぐに立ち止まった。
沢道の奥から来る影の中に、子どもがいる。
老人もいる。
走れない。
このまま戻れば、彼らを置いていくことになる。
迅は歯を食いしばった。
「喜助」
「何?」
「あの人たちをこっちへ寄せる」
「敵が来るんだぞ」
「だからだよ」
「無理だって」
「無理でもやる」
迅は、自分の声に驚いた。
震えている。
でも、止まってはいなかった。
喜助も少し遅れてうなずいた。
「分かったよ。くそ」
二人は沢道の奥へ走った。
*
逃げてきたのは七人だった。
男が二人。
女が一人。
老人が一人。
子どもが三人。
その後ろ、木々の間に、別の影が動いている。
敵か。
それとも、別の避難民か。
まだ分からない。
だが、鐘は二つ鳴った。
誰かが敵を見たのだ。
「こっち!」
迅は叫んだ。
「走れる人は左! 走れない人はこっちへ!」
意味が伝わったかは分からない。
だが、声に反応して、避難民たちがこちらへ向かってきた。
老人が転びかける。
喜助が駆け寄って支えた。
「立てますか!」
「足が……」
「迅!」
喜助が叫ぶ。
迅は周りを見る。
沢の脇に、少しだけくぼんだ場所があった。
木の根が張り出し、外からは見えにくい。
「そこに座らせろ! でも寝かせるな!」
「なんで!」
「寝たら起きられない!」
「分かった!」
子どもたちが泣いている。
女が一人、抱える荷物を離そうとしない。
「荷物は置いて!」
迅が言うと、女は首を振った。
「これはだめ!」
「何ですか!」
「位牌!」
迅は息をのんだ。
それ以上、何も言えなかった。
「じゃあ持って! でも走って!」
女はうなずき、荷物を抱え直した。
背後の影が近づく。
足軽の声がした。
「敵影! 下がれ!」
木々の間から、足軽が二人現れた。
その後ろに、敵らしき男が数人見える。
数は多くない。
だが、こちらには老人と子どもがいる。
戦えば、逃げ道が詰まる。
迅は槍を握った。
まただ。
また、選ばなければならない。
逃げるか。
止めるか。
その時、沢の出口の方から瀬川の声が響いた。
「火守! 民を流せ! 止まるな!」
迅は顔を上げた。
止まるな。
戦うな、でもない。
逃げろ、でもない。
民を流せ。
道を詰まらせるな。
迅は叫んだ。
「喜助! 老人を支えろ! 子どもは前に出すな! 歩ける人から左へ!」
「分かった!」
「足軽の人! 右を少し空けてください! 民が通れない!」
足軽が一瞬だけ驚いた顔をした。
だが、すぐに一歩横へずれた。
その隙間を、避難民が抜けていく。
迅は槍を構えたまま、道の端に立った。
敵を倒すためではない。
道を塞がせないために。
敵の一人がこちらを見た。
若い男だった。
槍を持っている。
また、若い。
迅の喉が乾いた。
沢道の血を思い出す。
足が震えそうになる。
だが、背後で子どもが泣いている。
迅は、槍を強く握りすぎないようにした。
逃げ道を残す。
手にも、足にも。
敵が踏み込む。
その瞬間、足軽が横から槍を出した。
敵の足が止まる。
迅は前へ出なかった。
ただ、道を塞がせない位置に立った。
「今! 行け!」
喜助が老人を支えながら叫ぶ。
避難民が通り抜ける。
一人。
二人。
三人。
最後の子どもが転びそうになる。
迅はとっさに手を伸ばした。
槍を片手に持ち替え、子どもの腕を掴む。
敵が動く。
まずい。
そう思った瞬間、瀬川が間に入った。
刀が光る。
敵が後ろへ下がる。
「行け!」
瀬川が怒鳴った。
迅は子どもを押し出す。
喜助が受け取る。
道が空いた。
鐘が三つ鳴った。
火。
どこかで火が上がった。
迅は反射的に山の上を見た。
木々の向こうに、細い煙が立ち始めている。
沢の出口ではない。
北の林道の方だ。
「戻るぞ!」
瀬川が叫ぶ。
足軽たちが敵を押し返しながら下がる。
迅も下がった。
逃げたのではない。
道を守って、下がった。
そう思いたかった。
*
沢の出口に戻ると、そこは混乱していた。
鐘の音で、避難民たちがざわついている。
釜の前に人が集まり、何人かが城へ戻ろうとしていた。
坂部が怒鳴る。
「走るな! 荷を倒すな! 道を塞ぐな!」
倉橋正継の配下が米袋を守るように立っている。
喜助が老人を座らせ、肩で息をしていた。
迅は息を吸った。
声が出るか分からない。
だが、出すしかない。
「怪我人は右! 歩ける人は左! 火は北です! ここじゃない!」
声がかすれた。
それでも、人がこちらを見た。
「ここで止まるな! 歩ける人は浄火寺へ! 子ども連れは水を飲んでから!」
何度も言う。
同じ言葉を、何度も。
混乱している人間には、一度では届かない。
迅はそれを知った。
喜助も叫び始める。
「こっち! こっち通れ! 荷物持てる人は自分で持って!」
瀬川が迅を見た。
ほんの少しだけ、うなずいた。
褒めたのか、命じたのかは分からない。
でも、迅は声を出し続けた。
やがて、人の流れが戻り始めた。
怪我人は岩の横へ。
歩ける者は浄火寺へ。
子ども連れは水場へ。
釜は倒れなかった。
米袋も守られた。
誰も踏まれなかった。
そのことに気づいた時、迅は膝から力が抜けそうになった。
だが、座らなかった。
まだ終わっていない。
北の林道から煙が上がっている。
鐘は三つ鳴った。
火がついたのだ。
*
夕方。
迅たちは、灰ヶ峰城へ戻った。
沢の出口の炊き出し場は、足軽と人足を残して続けられることになった。
北の林道の火は、大きくはならなかった。
見張りが早く見つけ、木を切って火の回りを止めたらしい。
それでも、灰ヶ峰城の空気は重かった。
敵はもう、ただ東から来るだけではない。
道を焼く。
民を追う。
火を入れる。
混乱を狙う。
戦は、どこからでも入ってくる。
迅は城の隅に座り込み、水を飲んだ。
喉が痛い。
声を出しすぎたせいだ。
喜助が隣に倒れるように座った。
「俺、今日は十年分くらい走った」
「十年分にしては遅かったな」
「お前、疲れてる時も嫌なこと言うな」
「元からだ」
喜助は笑おうとして、途中でやめた。
「でも、今日は……誰も踏まれなかったな」
迅は水袋を下ろした。
沢の出口を思い出す。
人の波。
泣き声。
鐘の音。
火の報せ。
その中で、道は崩れなかった。
少なくとも、迅の目の届く範囲では。
「たぶんな」
「たぶんかよ」
「全部は見えてない」
迅は言った。
「でも、見えるところは見た」
喜助は、少し驚いたように迅を見た。
「お前、なんか変わったな」
「悪い方にか?」
「分からん」
「分からないなら言うな」
「でも、前より少しだけ……逃げなかった」
迅は黙った。
逃げたかった。
本当に逃げたかった。
敵影を見た時も、鐘が鳴った時も、足は後ろへ行きたがっていた。
それでも、声を出した。
道を分けた。
人を流した。
槍を構えた。
それが逃げなかったことになるのかは、分からない。
だが、少なくとも、何もしなかったわけではなかった。
瀬川が近づいてきた。
「火守」
「はい」
「坂部角兵衛殿が呼んでいる」
「何かしましたか?」
「したから呼ばれている」
「悪い意味ですか?」
「行けば分かる」
迅は嫌そうな顔をした。
喜助が小さく笑う。
「道の番人、出世かもな」
「やめろ」
迅は立ち上がった。
足が重い。
でも、歩いた。
*
坂部角兵衛は、荷駄置き場の前にいた。
周囲には、木札、縄、水桶、空になった米袋が置かれている。
坂部は、その一つを足で寄せた。
「火守」
「はい」
「沢の出口で、道を詰まらせなかったそうだな」
「俺だけじゃありません」
「知ってる。お前だけだったら、とっくに詰まってる」
「ひどくないですか?」
「事実だ」
坂部は笑った。
「だが、最初に声を出したのはお前だと聞いた」
迅は目をそらした。
「出せって言われたので」
「命じられても、出せない奴はいる」
坂部は、腰の縄を一つ外した。
「明日から、沢の出口の木札と人の流れは、お前が見ろ」
迅は固まった。
「俺が?」
「そうだ」
「俺、ただの村人なんですけど」
「今は、ただの村人ではない」
その言葉に、迅の胸が少しだけ重くなった。
嬉しい、ではなかった。
怖い、に近い。
ただの村人ではない。
それは、逃げ道が一つ消える言葉に聞こえた。
「人数は」
坂部が続ける。
「お前と喜助。それに人足三人をつける。足軽の指示は瀬川殿が見る。お前は民の流れを見る」
「人を使うんですか?」
「使うというほど大げさではない。だが、声は出せ」
「……無理です」
「今日やった」
「今日だけです」
「明日もやれ」
迅は言葉に詰まった。
坂部は、迅の手に縄を渡した。
「これは、道を仕切る縄だ。人が一気に押し寄せたら張れ。倒れそうな者を見つけたら、喜助に運ばせろ。木札は増やす。字は大きく書け」
「そんなこと、俺に言われても」
「お前は見ている」
坂部の声が、少しだけ真面目になった。
「荷駄を守る者は、荷だけ見ていればいいわけではない。人の流れも荷の流れも、同じだ。詰まれば腐る。流せば生きる」
迅は縄を見た。
ただの縄だ。
でも、それで人の流れを分ける。
道を作る。
守る。
「俺は、戦いたくないです」
「戦っている」
坂部は言った。
「槍を振らなくてもな」
迅は黙った。
また一つ、逃げ道が消えた気がした。
けれど同時に、少しだけ分かった。
敵を止めるだけが戦ではない。
人を流すことも、米を運ぶことも、火を見つけることも、戦の中にある。
ならば、自分にもできることがあるのかもしれない。
嫌だけれど。
怖いけれど。
「分かりました」
迅は小さく答えた。
坂部はうなずいた。
「明朝、沢の出口へ出る。遅れるな」
「それ、みんな言いますね」
「遅れる奴が多いからだ」
迅はため息をついた。
*
その夜。
迅は城の壁際に座り、渡された縄を見ていた。
槍。
炭の欠片。
縄。
手元にあるものが、少しずつ増えている。
どれも、欲しくて持ったものではない。
だが、どれも誰かを守るために必要なものだった。
遠くで、鐘が一つ鳴った。
また民が来たのだろう。
迅は空を見上げた。
雲の隙間から、星が少しだけ見えた。
小夜なら、あの星の並びを覚えるのだろうか。
烈なら、今日の敵影を見て、戦いたがっただろうか。
母上なら、無事に帰れとだけ言うだろうか。
迅は目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
だが、明日も立たなければならない。
沢の出口に。
人の流れの前に。
逃げ道を作る場所に。
徒火。
誰かを守ろうとして灯す火。
その火は、槍の先だけにあるのではない。
釜の火にもある。
道を示す木札にもある。
人を分ける声にもある。
震える手で握る縄にもある。
迅はまだ、それを言葉にはできなかった。
ただ、胸の奥で小さく燃えるものを感じていた。
それは、消えるには少しだけ早い火だった。




