【第8話】信じすぎず、疑いすぎず
雨は、夜明け前にやんだ。
けれど、地面は乾かなかった。
灰ヶ峰城の馬場には、まだ泥が残っている。
人の足跡。
馬の蹄の跡。
米俵を引きずった跡。
転んだ子どもの手の跡。
雨は止んでも、昨日の混乱は地面に残っていた。
迅は、縄を肩にかけたまま、城の井戸のそばに立っていた。
手のひらが痛い。
縄で擦れたところが赤くなっている。
水に触れると、少ししみた。
「うわ、痛そう」
横から喜助がのぞき込んだ。
「見なくていい」
「いや、見るだろ。痛そうだし」
「見るだけなら誰でもできる」
「手当てしてやろうか?」
「お前、不器用だろ」
「失礼だな。包むくらいできる」
「昨日、水桶を二回こぼした奴に言われてもな」
「一回半だ」
「半分ってなんだよ」
喜助は少しだけ笑った。
その笑いも、昨日より弱い。
疲れが残っているのだろう。
迅も同じだった。
体が重い。
頭も重い。
喉はまだ痛い。
それでも、沢の出口へ行く準備をしなければならないと思っていた。
今日も避難民は来る。
今日も誰かを分ける。
今日も声を出す。
そう思っていると、背後から足音が近づいた。
「火守迅」
振り返ると、そこに黒羽甚内が立っていた。
細い目で、迅の顔ではなく、肩の縄を見ている。
「はい」
「評定へ来い」
迅は固まった。
「……俺がですか?」
「ほかに火守迅がいるなら、そいつでもいい」
「いませんけど」
「なら来い」
黒羽はそれだけ言うと、さっさと歩き出した。
迅は喜助を見る。
喜助も目を丸くしていた。
「評定って、偉い人たちが話すやつだよな?」
「たぶん」
「お前、何したんだ」
「知らねえよ」
「怒られるんじゃないか?」
「やめろ。今それ言うな」
迅は、肩の縄を外そうとした。
だが、なぜか手が止まる。
昨日、沢の出口で握っていた縄。
これを持ったまま行くのは変だろうか。
変に決まっている。
でも、外すと落ち着かない。
結局、迅は縄を持ったまま黒羽の後を追った。
*
評定の間には、すでに人が集まっていた。
上座に、燧景胤が座っている。
その少し下に、真木重頼。
右手には倉橋正継。
左手には坂部角兵衛。
さらに、鷹見左近、赤松弥八、黒羽甚内が並ぶ。
濡れた具足を脱ぎきれず、足元だけ泥を残した者もいる。
部屋の空気は重かった。
戦の匂いがする。
刀の匂いではない。
血の匂いでもない。
濡れた地図。
乾かない着物。
減っていく米。
集まってくる報告。
そういうものが混じった匂いだった。
迅は入口で止まった。
「入れ」
真木が言った。
逆らえる声ではなかった。
迅は畳の端に座る。
縄は膝の上に置いた。
場違いだ。
心の底から、そう思った。
景胤が迅を見た。
若い当主の顔にも、疲れが見える。
「火守迅。昨日、沢の出口にいたな」
「はい」
「見たことを聞く。思ったことではなく、見たことを言え」
迅は喉を鳴らした。
思ったことではなく、見たこと。
黒羽が以前に言っていたことと同じだった。
「はい」
景胤がうなずく。
「まず、昨日の沢の出口の状況を、黒羽」
黒羽が静かに口を開いた。
「昨日、雨の中で避難民およそ百二十余名が沢の出口を通過。怪我人二十三。歩行困難の老人七。子ども二十六。浄火寺へ送った者は八十余。城へ戻した重傷者は六」
倉橋がすぐに帳面へ目を落とす。
「沢の出口で使った米は一俵と三分の一。塩はわずか。粥に薄めたため、量は出せましたが、腹を満たすほどではありません」
坂部が顔をしかめた。
「釜は足りた。水も沢で何とかなる。足りねえのは人手だ。人を流す者が少ない。木札を立てても、声を出す者がいなきゃ止まる」
鷹見左近が低く言った。
「敵影は何度出た」
黒羽が答える。
「確認できたものは二度。いずれも小勢。数は五から八。深追いせず、民の流れを乱す動きでした」
「攻めるためではなく、詰まらせるためか」
「その可能性が高いかと」
部屋の空気が、さらに重くなった。
敵は、城を直接攻めていない。
だが、民を追い、道を詰まらせ、火を入れている。
迅にも分かり始めていた。
槍で突いてくるだけが敵ではない。
道を詰まらせるのも、敵の攻め方だ。
真木が地図を広げた。
濡れた紙を乾かしたものらしく、端が少し波打っている。
「沢道。北の林道。浄火寺への道。赤土峠。荒砥の先触れが動いているとすれば、このあたりだ」
真木の指が地図をなぞる。
「赤土峠を固めるのは予定通りだ。だが、敵は本隊が来る前に、こちらの足を鈍らせようとしている」
坂部がうなずいた。
「民で道が詰まれば、荷駄は動かねえ。荷駄が動かなきゃ、兵糧も矢も火薬も動かねえ。兵は腹が減り、鉄砲は鳴らず、前線は干上がる」
赤松弥八が苦い顔をした。
「火薬は湿気にも弱い。雨で運びが遅れれば、赤土峠へ回す分も厳しくなる」
倉橋が帳面を閉じた。
「避難民を受け入れること自体は必要です。ですが、城へ集めすぎれば、米が尽きます。浄火寺へ送る流れを止めるわけにはいきません」
鷹見が言った。
「ならば、沢の出口を守ることは、城を守ることと同じか」
その言葉に、迅は思わず顔を上げた。
沢の出口。
あの泥の場所。
釜と木札と縄の場所。
泣き声と怒鳴り声の場所。
それが、城を守ることと同じ。
そんな大げさな話に聞こえた。
けれど、誰も笑わなかった。
景胤は、しばらく地図を見ていた。
そして言った。
「火守迅」
「はい」
「昨日、雨の中で民が右の林へ逃げかけたと聞いた」
「はい」
「なぜ止めた」
迅は、佐平の声を思い出した。
右の林に入るな。
そこは沈む。
「薄尾の男が、そこは沈むと言いました」
「お前は、それを信じたのか」
「信じたというより、見ました」
「何を」
「泥の色です。雨で黒くなっていて、草も倒れ方が変でした。あと、男が嘘をついて逃げるなら、あんな言い方はしないと思いました」
言ってから、不安になった。
思ったことではなく、見たことを言えと言われたばかりだ。
最後の部分は、思ったことだったかもしれない。
だが、景胤は怒らなかった。
黒羽が細い目で迅を見る。
「泥の色か」
「はい」
「誰に教わった」
「小夜が、そういうのをよく見ていたので」
「妹か」
「はい」
黒羽は短くうなずいた。
それだけだった。
けれど、迅にはそれが少し怖かった。
小夜のことまで見られている気がしたからだ。
真木が地図の右側を指した。
「佐平という男は、薄尾の者だったな」
黒羽が答える。
「本人はそう申しております。沼原弥平の話とも一部合う。薄尾は荒砥に従属させられた土地。道を知る者は多いはずです」
鷹見が目を細める。
「使えるか」
その一言で、場の空気が変わった。
使える。
人を、道具のように言う言葉。
迅は膝の上の縄を握った。
縄も道具だ。
木札も道具だ。
槍も道具だ。
では、人は。
佐平は。
倉橋が慎重に言った。
「薄尾の者の地勢を使えれば、避難路の危険は減らせます。ですが、敵の間者である可能性は残ります」
赤松が鼻を鳴らした。
「道案内と見せて、火薬を狙われても困る」
坂部が腕を組む。
「なら、ひとりで歩かせなきゃいい。足軽二人をつける。縄を解くな。話だけ聞く。道を歩かせるなら、前に出しすぎるな」
鷹見が言う。
「捕らえた者を道案内に使うのは、兵の不満を招く。村を焼かれた民も黙っていまい」
真木がうなずいた。
「それでも、知らぬ道で民を沈ませるよりはましだ」
景胤は黙って聞いていた。
誰か一人の声で決まる場ではなかった。
迅は、それを初めて肌で感じた。
評定とは、偉い者が一方的に命じるだけの場ではない。
米を見る者がいる。
火薬を見る者がいる。
道を見る者がいる。
兵の不満を見る者がいる。
民の命を見る者がいる。
それぞれ見ているものが違う。
違うから、言葉がぶつかる。
景胤はその全部を聞いている。
それは、思っていたより苦しそうな役目だった。
「火守迅」
また呼ばれた。
「はい」
「お前から見て、佐平という男はどう見えた」
迅は困った。
「分かりません」
正直に言った。
部屋が少し静かになる。
「敵かもしれません。従わされた者かもしれません。嘘もついているかもしれません。でも、昨日は道を助けました」
迅は、言葉を探した。
「だから……全部信じるのは怖いです。でも、全部嘘だと決めるのも怖いです」
自分で言って、情けないと思った。
何も決めていない。
結局、分からないと言っているだけだ。
だが、真木が小さく息を吐いた。
「その程度がよい」
迅は顔を上げた。
真木は地図を見たまま言った。
「全部信じる者は騙される。全部疑う者は使えるものを捨てる。戦では、どちらも死ぬ」
景胤がうなずいた。
「佐平は城で詮議を続ける。ただし、沢道と北の林道、浄火寺への道については話を聞く。道を歩かせる場合は、瀬川の監視をつける。黒羽、裏を取れ」
「はっ」
「坂部」
「はい」
「沢の出口の人手を増やす。木札を増やし、縄を二本にする。子ども連れ、怪我人、歩ける者の三つに流れを分けよ」
「承知」
「倉橋」
「はい」
「浄火寺へ送る米を増やせるか」
倉橋の顔が険しくなる。
「増やすことはできます。ですが、その分、城内の粥が薄くなります」
「どれほど」
「今日一日なら耐えます。三日続けば不満が出ます。五日続けば、兵にも響きます」
部屋が重くなる。
米は、言葉で増えない。
誰かへ多く渡せば、別の誰かが少なくなる。
景胤は目を閉じた。
ほんの短い間だった。
そして、目を開く。
「今日一日、浄火寺へ回す米を増やす。明日の朝、改めて数を見よ」
「承知しました」
「赤松」
「はっ」
「火薬は赤土峠優先だ。ただし、沢の出口には鉄砲を置くな。音で民が崩れる」
赤松は少し眉を動かした。
「敵が押した場合は」
「弓と槍で止める。沢の出口は戦場にするな」
その言葉に、迅は胸の奥がざわついた。
沢の出口は、人を流す場所。
裁く場所ではない。
そして、戦場にしてはいけない場所。
場所には意味がある。
第七話で知ったことが、ここで形になっていく。
景胤は最後に、迅を見た。
「火守迅」
「はい」
「お前は今日も沢の出口へ行け。見たものを、戻って報告せよ。勝手な判断で敵を追うな。人を裁くな。だが、道が詰まると思えば声を出せ」
「……はい」
「お前に武功を求めてはいない」
景胤の声は静かだった。
「だが、見たものを持ち帰る者は要る」
迅は返事をしようとして、少し遅れた。
武功ではない。
でも、役目はある。
それが少しだけ、怖かった。
「はい」
今度は、はっきり答えた。
*
評定が終わった後、迅は廊下に出た。
外の空気は冷たかった。
胸の中に、まだ評定の声が残っている。
米。
道。
火薬。
民。
寺。
敵。
佐平。
全部が一つにつながっている。
どれか一つだけ見ていればいいわけではない。
「疲れた顔だな」
横から声がした。
坂部角兵衛だった。
「疲れました」
「座っていただけだろ」
「座ってるだけで疲れる場所もあるんですね」
「ある」
坂部は短く笑った。
それから、迅の膝の縄を見た。
「持ってきたのか」
「外すの忘れました」
「嘘つけ」
「……少し、落ち着かなかっただけです」
「なら持っていろ」
坂部は廊下の柱にもたれた。
「お前、今日から沢の出口で縄を二本使え」
「二本?」
「一本は人を止める。もう一本は人を流す」
「違うんですか?」
「違う」
坂部は指を二本立てた。
「止める縄は、押し寄せた時に張る。流す縄は、道の形を作る。人は、空いている方へ行く。だから空け方を間違えるな」
迅は眉を寄せた。
「そんなこと、俺に分かるんですか?」
「昨日、少し分かっていた」
「少しです」
「最初は少しでいい」
坂部は声を落とした。
「荷駄も同じだ。道が細ければ、一列にする。坂なら軽い荷を先に行かせる。川なら濡れて困るものを上に積む。人も荷も、流れを見れば詰まりどころがある」
「人を荷みたいに見ろってことですか?」
「違う」
坂部の声が、少しだけ強くなった。
「荷のように乱暴に扱うな。だが、流れは同じだ。人は怖くなると止まる。荷は重いと止まる。止まったものを責めるだけでは、道は動かねえ」
迅は黙った。
止まったものを責めるだけでは、道は動かない。
昨日、怒りで佐平を囲んだ人々を思い出す。
泣いて動けなくなった子どもを思い出す。
荷物を手放せなかった女を思い出す。
止まった者には、止まる理由がある。
でも、道は動かさなければならない。
難しすぎる。
迅は顔をしかめた。
「俺、本当に向いてないです」
「向いている奴は、たいてい余計なことをする」
「それ、褒めてます?」
「半分な」
「瀬川殿みたいなこと言いますね」
「最悪だな」
坂部は本気で嫌そうな顔をした。
迅は少しだけ笑った。
*
佐平は、城の片隅に座らされていた。
縄で手を縛られ、足軽が二人ついている。
顔の腫れは、昨日より少し引いていた。
だが、目の下には疲れがある。
迅が近づくと、佐平は顔を上げた。
「迅」
「呼び捨て早くないですか?」
「昨日、名前を言った」
「そうですけど」
迅は佐平の前に座った。
足軽がこちらを見る。
「評定で、あんたの話を聞くことになりました」
「俺の首はつながったのか?」
「まだ分かりません」
「正直だな」
「嘘ついても仕方ないので」
佐平は小さく笑った。
それから、視線を落とした。
「薄尾の者は、皆、荒砥の犬と思われる」
迅は答えなかった。
「違うと言えば嘘になる。従った。米を出した。男を出した。道を教えた。逆らえば焼かれるからだ」
「……そうですか」
「だが、従ったことに変わりはない」
佐平の声は静かだった。
開き直っているわけではない。
言い訳しているわけでもない。
ただ、事実を置いているような声だった。
「迅」
「はい」
「昨日、右の林を止めただろ」
「はい」
「あの辺りは、雨が降ると沈む。足を取られる。だが、乾いていれば抜け道になる」
迅は顔を上げた。
「抜け道?」
「沢道から北の林道へ抜ける細い道がある。地元の者しか使わない。荒砥の先触れが知っているかは分からない」
「それ、早く言った方がいいやつじゃないですか」
「誰に言えばいい」
佐平は手の縄を少し上げた。
「俺が大声で言えば、また敵の嘘だと言われる」
迅は言葉に詰まった。
確かに、そうだ。
佐平の言葉は、そのままでは届かない。
誰かが聞き、見て、確かめ、持ち帰らなければならない。
迅は、評定で景胤に言われた言葉を思い出した。
見たものを持ち帰る者は要る。
「その抜け道、どこですか?」
迅が聞くと、佐平は周囲を見た。
「土があれば描ける」
迅は少し迷った。
勝手に聞いていいのか。
だが、聞かなければまた誰かが沈むかもしれない。
「待ってください」
迅は近くの庭の端へ行き、湿った土の上を手でならした。
佐平は足軽に見張られたまま、膝で少し近づく。
そして、縛られた手の指先で土に線を引いた。
「ここが沢の出口。ここが浄火寺へ行く道。右の林は、雨の日は沈む。だが、この岩のところから上がると、尾根に出る」
土の上に、細い線が増えていく。
迅はそれを見た。
小夜の小石遊びを思い出す。
村。
道。
川。
山。
あの時は、ただの遊びに見えた。
今は違う。
線一つで、人が助かる。
線一つで、人が死ぬ。
「この尾根道は、どこへ?」
「北の林道に出る。だが狭い。荷駄は無理だ。人なら通れる」
「敵も?」
「通れる」
迅の背中が冷えた。
抜け道は、逃げ道にもなる。
敵の道にもなる。
道は、味方だけのものではない。
「これ、黒羽殿に言います」
「信じるか?」
「信じるかどうかは分かりません。でも、言わないとまずい」
佐平は、土に描いた線を見つめた。
「薄尾では、道を知っている者から先に荒砥に連れていかれた」
「なぜ?」
「道を知らぬ軍は、山で迷う。道を知る百姓は、槍より役に立つ時がある」
迅は黙った。
百姓が、槍より役に立つ。
戦場とは、そういう場所なのか。
農具を持っていた手が、道を教えるために使われる。
米を作る者が、兵糧を奪われる。
山を知る者が、敵を案内させられる。
戦は、人の暮らしを全部、戦の道具に変えてしまう。
迅は拳を握った。
「嫌ですね」
「何が」
「そういうの全部」
佐平は少しだけ笑った。
「嫌でも来る」
「知ってます」
迅は立ち上がった。
「でも、嫌だと思っておきます」
「それで何か変わるのか?」
「分かりません。でも、嫌だと思わなくなったら、たぶん終わりなので」
佐平は黙った。
迅は土の線をもう一度見て、頭に入れようとした。
沢の出口。
右の沈む林。
岩。
尾根。
北の林道。
小夜なら、すぐ覚えるのだろう。
迅は、同じ線を自分でも横に描いた。
少し歪んだ。
「下手だな」
佐平が言った。
「うるさいです」
「でも、分かればいい」
迅はうなずいた。
分かればいい。
今は、美しさよりも、道が要る。
*
迅は、土に描いた道を黒羽へ伝えた。
黒羽は一度聞いただけではうなずかなかった。
佐平を呼び、同じ道を別の場所に描かせた。
さらに、昨日沢道へ出ていた足軽にも確認した。
木の種類、岩の形、沢の曲がり方、雨で沈んだ泥の深さ。
一つずつ確かめる。
迅は、その様子を見ていた。
信じるのではない。
疑うだけでもない。
確かめる。
それは時間がかかる。
面倒だ。
けれど、そうしなければ人が死ぬのだろう。
黒羽は最後に言った。
「火守」
「はい」
「お前は、今日の沢の出口で右の林をよく見ろ。岩があるか。尾根へ上がる跡があるか。足跡が新しいか」
「俺がですか?」
「お前が最初に泥を見た」
「たまたまです」
「たまたま見た者が、次も見ろ」
また、それだ。
迅は心の中でため息をついた。
逃げ道が、どんどん消えていく。
「分かりました」
黒羽はうなずく。
「敵が使っている跡があれば、追うな。戻れ」
「はい」
「見たことを持ち帰れ」
「はい」
その言葉は、もう何度も聞いた。
けれど、聞くたびに少し重くなる。
見たことを持ち帰る。
それだけで済むなら、楽に聞こえる。
だが、見てしまったものは、忘れられない。
迅はもう、それを知っていた。
*
昼前。
迅は再び沢の出口に立った。
昨日と同じ場所。
だが、同じには見えなかった。
木札は増えている。
縄も二本になっている。
水桶の位置も変わった。
怪我人を休ませる場所には、雨除けの布が張られていた。
浄火寺へ向かう道には、寺の僧兵が二人立っている。
城の足軽も二人いる。
寺と城。
違う者たちが、同じ道に立っている。
喜助が縄を持ってやってきた。
「また始まるな」
「始まるな」
「今日は何回走ると思う?」
「数えたくない」
「俺、昨日の分も合わせたら、もう侍より働いてる気がする」
「侍に怒られるぞ」
「じゃあ心の中で思う」
「口に出てる」
喜助は慌てて口を閉じた。
迅は少し笑った。
だが、すぐに沢道の奥を見る。
右の林。
沈む泥。
岩。
尾根へ上がる跡。
まだ、はっきりとは分からない。
でも、見るべき場所は分かっている。
迅は縄を握った。
「喜助」
「何?」
「今日は、右の林を見る。人がそっちへ行きそうなら止める」
「分かった」
「あと、敵が出ても追うな」
「俺が追うと思うか?」
「思わない」
「なら言うなよ」
「俺が追いそうになるかもしれない」
喜助は、少し驚いた顔をした。
「お前が?」
「分からないだろ。俺も、自分が何するか分からない時がある」
沢道で槍を握った時。
子どもを掴んだ時。
声を出した時。
評定で答えた時。
いつも、後から自分で驚いている。
自分は、こんなことをする人間だったのかと。
喜助は少しだけ真面目な顔になった。
「じゃあ、俺が止める」
「頼む」
「その代わり、俺が逃げそうになったら止めろ」
「それは毎回だろ」
「ひどい」
「事実だ」
その時、沢道の奥から鐘が鳴った。
一つ。
民の到着。
迅は息を吸った。
喉はまだ痛い。
手も痛い。
足も重い。
それでも、声は出た。
「怪我人は右! 歩ける人は左! 子ども連れは水を飲んでから、浄火寺へ進んでください!」
人が来る。
道が動く。
迅は、右の林を見た。
黒い泥。
倒れた草。
その奥に、岩。
佐平の描いた線が、頭の中で重なった。
土の上に描かれた線が、目の前の景色になる。
迅は、背筋が冷えるのを感じた。
見たものを並べる。
それだけで、道が見えることがある。
そして、道が見えれば。
敵の影も、少しだけ見える。
*
夕方近く、迅は右の林の奥に、新しい足跡を見つけた。
避難民のものではない。
足跡の向きが違う。
沢道へ向かうのではなく、尾根へ上がっている。
数は多くない。
三つか、四つ。
だが、草の折れ方が新しい。
迅は息を止めた。
「喜助」
「何?」
「瀬川殿を呼んで」
「敵か?」
「まだ分からない」
「分からない顔じゃないぞ」
「早く」
喜助が走る。
迅は足跡を見つめた。
追うな。
戻れ。
見たことを持ち帰れ。
黒羽の声が、頭の中で響く。
迅は足跡の先を見た。
林の奥は暗い。
そこに何かがいるかもしれない。
いないかもしれない。
追えば、分かるかもしれない。
だが、追わない。
今の迅の役目は、敵を斬ることではない。
道を守ることだ。
迅は縄を握り直した。
足跡から目をそらさずに、声を出す。
「右の林へ入らないでください! 道に戻って! そこは危ない!」
避難民が戻る。
道が動く。
足跡は、林の奥へ消えている。
その先に何があるのか、迅にはまだ分からない。
けれど、分からないものを見つけた。
それだけでも、持ち帰るものになる。
遠くで、鐘が二つ鳴った。
敵影。
迅の背中に、冷たいものが走った。
だが、足は動かなかった。
逃げるためでも、追うためでもない。
迅は沢の出口に立ったまま、声を張り上げた。
「道を止めるな! 歩ける人は左! 子ども連れは水を飲んでから浄火寺へ!」
声が、沢の出口に響いた。
小さな声だったかもしれない。
震えていたかもしれない。
それでも、人は動いた。
迅の前で、道はまだ生きていた。
それは今日、土に描かれた細い線の上にもあった。
泥の色を見る目にもあった。
追わずに戻る足にもあった。
そして、震えながらも道を止めない声にもあった。
迅は、林の奥の足跡を見つめた。
戦は、まだ始まったばかりだった。




