【第9話】追わぬ足
鐘が二つ鳴った。
敵影。
沢の出口にいた者たちの肩が、一斉に強張った。
迅は、右の林の奥に残る足跡を見つめたまま、動かなかった。
足跡は、三つか四つ。
沢道へ向かうものではない。
逃げる民のものでもない。
林の奥へ入り、尾根へ上がる方へ消えている。
乾いた日なら、ただの獣道に見えたかもしれない。
けれど、雨の後の泥は、踏まれたものを隠さなかった。
新しい。
誰かが、ここを通った。
「迅!」
喜助が走って戻ってきた。
その後ろに、瀬川源次郎がいる。
瀬川源次郎は、迅の横に立つと、すぐに足跡を見た。
「どこだ」
「そこです。右の林の奥。沢道から外れてます」
迅は指を差した。
瀬川源次郎は膝を折り、泥に顔を近づけた。
雨水がまだ草の先に残っている。
泥の表面に、草履の跡が浅く沈んでいた。
「三人……いや、四人か」
「たぶん」
「追ったか」
「追ってません」
迅はすぐに答えた。
黒羽甚内に言われた言葉が、まだ頭に残っていた。
追うな。
戻れ。
見たことを持ち帰れ。
瀬川源次郎は、ほんの少しだけ目を細めた。
「それでいい」
その一言で、迅は少しだけ息を吐いた。
喜助も横で息を吐く。
「よかったな。怒られなかった」
「お前、俺が怒られる前提で見てるだろ」
「いつも怒られてるから」
「違う。注意されてるだけだ」
「同じだろ」
「違う」
瀬川源次郎が二人を見る。
二人は同時に黙った。
「火守」
「はい」
「人の流れを止めるな。この足跡は俺が見る。喜助、お前は水場へ戻れ」
「はい」
「火守は残れ」
喜助が迅を見た。
「また何かに巻き込まれてるな」
「言うな」
「無事に戻れよ」
「お前こそ水桶こぼすなよ」
「一回半だからな」
喜助はそう言って、沢の出口へ戻っていった。
迅は、再び足跡を見る。
敵影の鐘は、まだ耳に残っている。
沢道では避難民が動いている。
子どもの泣き声も聞こえる。
浄火寺へ向かう列も、少しずつ進んでいる。
道は、まだ生きている。
だが、そのすぐ横に、別の道が口を開けていた。
瀬川源次郎は、足軽二人を呼んだ。
「林の入口を塞げ。ただし中へ入るな。民を近づけるな」
「はっ」
「鐘は二つのまま。三つにはするな。火は見えていない」
足軽が走る。
瀬川源次郎は迅へ視線を戻した。
「火守。お前が見たものを言え。足跡だけではない。周りもだ」
「周り?」
「草。枝。泥。石。何でもいい」
迅は、林の入口を見た。
泥が黒い。
草が倒れている。
細い枝が折れている。
だが、折れた枝は一本だけではない。
「草は、右へ倒れてます。沢道から林へ入る向きです。枝は……上の方じゃなくて、腰くらいの高さが折れてます。荷物を背負った人じゃなくて、かがんで通った感じです」
言いながら、迅は自分の言葉に不安になった。
合っているのかは分からない。
ただ、そう見えただけだ。
瀬川源次郎は黙って聞いていた。
「続けろ」
「足跡は深くないです。重い荷物は持ってなさそうです。でも、草履の跡が揃いすぎてます。逃げてきた人なら、もっとばらばらになると思います」
「なぜそう思う」
「逃げてる人は、誰かを支えたり、荷物を落としたり、止まったりします。でもこれは、迷わず入ってます」
迅は、林の奥を見た。
「知ってる人の足です」
口にしてから、背中が冷えた。
知ってる人。
つまり、この道を知っている者が通った。
佐平が言っていた。
道を知る百姓は、槍より役に立つ時がある。
瀬川源次郎は、短く言った。
「よし」
「よし、なんですか?」
「お前は戻って声を出せ」
「えっ」
「ここに立っていても、足跡は増えん。道が詰まれば、人は死ぬ」
「……はい」
迅はうなずいた。
結局、戻る場所は同じだった。
沢の出口。
木札の前。
縄の横。
自分の役目は、まだそこにある。
迅は沢道へ戻りながら、林の奥をもう一度見た。
追わない。
見た。
言った。
戻る。
それだけなのに、胸の中がざわついていた。
*
その日の夕方、右の林の足跡について、灰ヶ峰城で評定が開かれた。
迅は、また呼ばれた。
正直、呼ばれたくなかった。
沢の出口で声を出すより、評定の間に座る方が疲れる。
偉い者たちの前で話すたびに、足の裏が冷える。
それでも、黒羽甚内が迎えに来た時点で逃げ道はなかった。
評定の間には、前回と同じ面々がいた。
燧景胤。
真木重頼。
倉橋正継。
坂部角兵衛。
黒羽甚内。
鷹見左近。
赤松弥八。
その脇には、佐平も座らされていた。
手には縄がかかっている。
足軽が二人、近くに立っている。
佐平の顔は固かった。
自分の言葉で何かが動き始めていることを、分かっているのだろう。
燧景胤が口を開いた。
「右の林の足跡について、まず黒羽」
黒羽甚内が静かに頭を下げる。
「沢の出口より右手、昨日佐平が示した沈む林の奥に、新しい足跡がありました。数は四。荷は軽い。沢道から外れ、尾根へ向かっています。足跡の向きから、避難民ではなく、道を知る者の動きと見ます」
鷹見左近が言った。
「間者か」
「その可能性があります」
赤松弥八が眉を寄せる。
「火薬庫を狙う道か?」
黒羽甚内は首を横に振った。
「火薬庫へ直接は続きません。ですが、北の林道へ抜ければ、荷駄の通る道を横から見られます」
坂部角兵衛が低く唸った。
「荷駄を見られるのはまずい。数と時刻を見られれば、襲う場所を選ばれる」
倉橋正継が帳面を押さえた。
「明日、赤土峠へ米を送る予定です。遅らせれば峠の小砦が薄くなります。進めれば、林道の危険を抱えます」
真木重頼が地図を広げた。
「選択は三つだ」
部屋の空気が引き締まる。
真木重頼の指が、地図の上を動く。
「一つ。予定通り荷駄を出す。速いが、敵に見られる危険がある」
指が別の線へ移る。
「二つ。荷駄を遅らせ、先に物見を出す。安全は増すが、赤土峠の兵糧が遅れる」
さらに、右の林を指す。
「三つ。右の林へ斥候を入れ、抜け道を潰す。だが、敵の伏兵がいれば、こちらが釣られる」
迅は、地図を見ていた。
三つ。
どれかを選ぶ。
だが、どれも嫌だった。
速く進めば危ない。
遅らせれば峠が困る。
調べに行けば罠かもしれない。
どれを選んでも、何かを失うかもしれない。
評定とは、正しい道を探す場所ではないのかもしれない。
まだましな道を選ぶ場所なのかもしれない。
燧景胤は、黙って地図を見ていた。
鷹見左近が言う。
「荷駄を予定通り出すのは危うい。敵はこちらが民に手を取られていることを知っている。林道の影は、荷駄狙いと見るべきです」
坂部角兵衛が反論する。
「だからといって遅らせれば、赤土峠が薄くなる。敵の本隊が来る前に峠を固めるのが先だ」
倉橋正継が静かに言った。
「米はある場所に置いておくだけでは兵糧になりません。届いて初めて兵糧になります」
赤松弥八も続ける。
「火薬も同じです。湿気を避けて運べる日を選びたいが、敵は待ってくれません」
黒羽甚内が地図の右を指した。
「抜け道に小勢を入れた痕跡があるなら、敵はまだこちらの動きを探っている段階かと。すぐに大きく襲うより、荷駄の時刻を見ようとしている可能性が高い」
真木重頼がうなずく。
「ならば、見せる荷駄と隠す荷駄を分ける手もある」
坂部角兵衛の目が動いた。
「空荷を混ぜるか」
「そうだ」
倉橋正継が眉を寄せる。
「米俵に見せた空俵を先に出すのですか」
真木重頼はうなずいた。
「敵が見ているなら、見せるものを選ぶ」
鷹見左近が低く言う。
「偽りの荷駄で敵を誘う、と」
「誘いすぎれば危うい」
黒羽甚内が言った。
「敵が小勢なら、空荷に食いつくとは限りません。見て戻るだけかもしれません」
坂部角兵衛は腕を組んだ。
「だが、荷駄を全部止めるよりはいい。小荷駄を二つに割る。ひとつは見える道。ひとつは遅らせて本命。人足には中身を知らせすぎない」
倉橋正継が険しい顔をする。
「米を分けるなら、帳面も分けねばなりません。混乱すれば、こちらが自分で兵糧を失います」
赤松弥八が言う。
「火薬は偽には混ぜられん。湿った空俵とはわけが違う」
話が重なっていく。
誰かが言うたびに、別の誰かが問題を出す。
迅は、頭の中が追いつかなくなっていた。
米。
空俵。
小荷駄。
抜け道。
右の林。
赤土峠。
火薬。
全部が絡まっている。
縄なら、ほどけばいい。
だが、これはほどいている間にも敵が来る。
燧景胤が、そこで佐平を見た。
「佐平」
佐平の肩が小さく動いた。
「はい」
「右の林から尾根へ上がる道は、荷駄が通れるか」
「無理です」
佐平はすぐに答えた。
「人ひとりなら通れます。二人並ぶのは難しい。荷を背負った者なら通れますが、俵を担いで速く進むのは無理です」
「馬は」
「沈みます。雨の後ならなおさらです」
坂部角兵衛が聞く。
「敵がそこから荷駄を襲うなら、どこへ出る」
佐平は地図を見た。
だが、地図だけでは分かりにくそうだった。
「土に描いても?」
燧景胤がうなずく。
近くの小姓が、浅い箱に湿った土を入れて運んできた。
佐平は縛られた手のまま、指先で線を引いた。
「ここが沢の出口。ここが右の林。ここから尾根へ上がります。荷駄道を見るなら、この曲がりです」
土の上に、線が増えていく。
迅は、それを見た。
前にも見た線だ。
けれど、評定の間で見ると、まるで違うものに見えた。
ただの道ではない。
敵が見る場所。
荷駄が襲われる場所。
民が逃げる場所。
誰かが死ぬかもしれない場所。
黒羽甚内が、土の線を見ながら言った。
「ここに敵が潜めば、荷駄の数は見える。だが、襲うには少し遠い」
真木重頼が言う。
「ならば、敵はまだ襲う段階ではなく、見る段階か」
「はい」
鷹見左近が佐平を見る。
「この道を知る者は多いか」
佐平は少し黙った。
「薄尾の者なら、山仕事をする男は知っています。子どもでも、途中までは知っている者がいます」
「荒砥も知っていると見るべきだな」
「連れていかれた者が話していれば」
佐平は唇を噛んだ。
「知っていると思います」
部屋に沈黙が落ちた。
道は、もう隠れていない。
燧景胤は、土の上の線を見ていた。
「黒羽」
「はい」
「抜け道には斥候を入れる。ただし、深く追うな。足跡の数、向き、火を入れた跡、待ち伏せの有無を見て戻れ」
「承知」
「坂部」
「はい」
「明日の荷駄は二つに分ける。先に見せる荷駄は軽く、護衛を厚くしすぎるな。本命は時刻をずらす。ただし、兵糧の帳面を乱すな」
坂部角兵衛は、倉橋正継を見た。
「倉橋殿、帳面はそちらに任せる」
「当然です。そちらで勝手に俵を動かされては困ります」
「怖いな」
「米を失う方が怖い」
坂部角兵衛は苦笑した。
燧景胤は続ける。
「赤松」
「はい」
「火薬は本命の荷駄へ。偽の荷駄には混ぜるな。湿気を避ける布を増やせ」
「承知」
「鷹見」
「はっ」
「兵の不満を見ろ。捕らえた者の道案内を使うことに、反発が出る」
「心得ました」
燧景胤の視線が、最後に迅へ向いた。
まただ。
迅は背中を伸ばした。
「火守迅」
「はい」
「お前は明朝、沢の出口に立て。右の林へ入る民を止めろ。斥候が戻るまで、道を乱すな」
「はい」
「そして、見たものを黒羽へ伝えよ。自分で追うな」
「はい」
「怖いか」
突然の問いだった。
迅は、少し言葉に詰まった。
評定の間で、怖いですと言うのは情けない気がした。
だが、嘘をついても仕方がない。
「怖いです」
燧景胤はうなずいた。
「なら、よく見える」
その言葉に、迅は黙った。
怖いなら、よく見える。
それは慰めではなかった。
逃がしてくれる言葉でもなかった。
怖いまま、そこに立てという言葉だった。
「はい」
迅は小さく答えた。
*
評定の後、迅は佐平と廊下に出た。
もちろん、二人だけではない。
足軽がついている。
佐平の手には、まだ縄がかかっていた。
「また、お前に迷惑をかけたな」
佐平が言った。
「迷惑かどうかは分かりません」
「じゃあ何だ」
「面倒です」
佐平は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「正直だな」
「嘘ついても仕方ないので」
「そればかりだな」
「便利なので」
二人は少しだけ黙って歩いた。
廊下の外では、兵たちが慌ただしく動いている。
荷駄を分ける準備。
俵の確認。
縄の用意。
火薬を包む布。
評定で決まったことが、すぐに人の動きになる。
迅は、それを見ていた。
言葉だけではない。
言葉が、荷になり、道になり、命令になり、人の疲れになる。
「佐平さん」
「さんはいらない」
「じゃあ、佐平」
「何だ」
「薄尾の人たちは、どうして道を教えたんですか?」
佐平は足を止めなかった。
ただ、顔だけ少し暗くなった。
「家があるからだ」
「家?」
「親がいる。子がいる。田がある。逆らえば焼かれる。連れていかれた男が黙れば、村が燃える。だから話す」
迅は何も言えなかった。
「正しいことを選べる時ばかりじゃない。選ばされることもある」
「従わされた者、ですか」
「そう呼べば、少しは楽に聞こえるな」
佐平は苦く笑った。
「だが、焼かれた村の者から見れば、俺たちは敵だ」
迅は、沢の出口で佐平を囲んだ人々を思い出した。
怒り。
恐怖。
憎しみ。
あの人たちも間違ってはいない。
佐平も、全部が嘘ではない。
どちらかだけを正しいと言えれば楽なのに、そうはいかない。
「俺は、まだ分からないです」
迅は言った。
「だろうな」
「でも、道を教えてくれたことは、助かりました」
佐平は横目で迅を見た。
「それで十分だ」
「またそれですか」
「便利なので」
迅は少しだけ笑った。
笑ってから、すぐに胸が重くなった。
明日、その道に斥候が入る。
もし敵がいれば、誰かが死ぬかもしれない。
もし道が使えれば、誰かが助かるかもしれない。
道とは、そういうものなのだ。
*
夜。
迅は、城の壁際で縄を整えていた。
明日は二本使う。
一本は人を止める縄。
もう一本は人を流す縄。
坂部角兵衛に言われた通り、結び目を確認する。
ほどけにくく、ほどきやすい。
それが良い結びだと言われた。
迅には、まだよく分からない。
「それ、楽しいか?」
喜助が横から聞いた。
「楽しいわけないだろ」
「ずっと見てるから」
「見ないと明日困る」
「真面目になったな」
「やめろ。不吉だ」
「真面目って不吉なのか?」
「俺にとってはな」
喜助は笑ったが、すぐに声を落とした。
「明日、危ないのか?」
「分からない」
「またそれか」
「分からないものは分からない」
迅は縄を手に巻き、ほどいた。
「でも、敵は右の林を使ってるかもしれない」
「沢の出口のすぐ横だろ」
「ああ」
「じゃあ、俺たちの横を敵が通ってたかもしれないってことか」
「そうなる」
喜助は嫌そうに顔を歪めた。
「怖すぎるだろ」
「怖いな」
「お前、落ち着いてるな」
「落ち着いてない」
「そうか?」
「落ち着いてたら、こんなに縄見てない」
喜助は少し黙った。
それから、ぽつりと言った。
「逃げたいな」
「逃げたい」
「でも、逃げたら沢の出口が詰まるんだろ」
「たぶん」
「最悪だな」
「本当に最悪だ」
二人は小さく笑った。
笑うしかなかった。
その時、遠くで鐘が一つ鳴った。
民の到着。
夜でも、誰かが逃げてくる。
迅は目を閉じた。
戦は眠らない。
城も眠らない。
道も眠らない。
明日もまた、沢の出口に立つ。
*
翌朝。
空は白く曇っていた。
雨は降っていない。
だが、地面はまだ湿っている。
迅は二本の縄を持ち、沢の出口に立った。
喜助は水桶のそばにいる。
瀬川源次郎は足軽を配置し、黒羽甚内は斥候を右の林へ向かわせた。
斥候は三人。
軽い身なりで、余計な音を立てない。
迅は、その背中を見送った。
追うな。
自分に言い聞かせる。
自分の役目は、ここだ。
木札の前。
縄の横。
人の流れの前。
沢道の奥から、避難民が来た。
迅は息を吸う。
「怪我人は右! 歩ける人は左! 子ども連れは水を飲んでから、浄火寺へ進んでください!」
声はまだ痛い。
だが、出る。
一本目の縄で、押し寄せる人を止める。
二本目の縄で、歩ける者の道を作る。
人が流れる。
昨日より少しだけ、流れが見える。
止まりそうな場所。
詰まりそうな場所。
泣き声が広がりそうな場所。
見えるから、怖い。
でも、見えるから、声を出せる。
「そこに荷物を置かないでください!」
「子どもを先に!」
「右の林へ入らないで! 道に戻って!」
右の林は静かだった。
斥候はまだ戻らない。
迅は、何度もそちらを見そうになった。
だが、そのたびに沢道へ目を戻す。
目の前の人を流せ。
道を止めるな。
瀬川源次郎の声が、頭に残っている。
昼前。
右の林から、一人の斥候が戻った。
息を切らしている。
黒羽甚内がすぐに近づく。
迅は声を出しながらも、耳だけそちらへ向けた。
「足跡あり。四人ではなく六人。尾根の上に小さな火の跡。昨夜のものと思われます」
黒羽甚内の目が細くなる。
「敵は」
「姿は見えず。ただし、荷駄道を見下ろせる場所に草を敷いた跡がありました。伏せて見ていたものかと」
迅の背中が冷えた。
見られていた。
沢の出口も。
荷駄道も。
人の流れも。
知らないうちに、敵の目がそこにあった。
黒羽甚内が短く命じる。
「二人目を待つ。深追いはしない」
その時、沢道の奥で子どもが泣き叫んだ。
迅ははっとして振り向いた。
人の流れが乱れかけている。
右の林の報告に気を取られた一瞬で、老人が転び、後ろが詰まりかけていた。
迅は縄を握った。
「止まらないで! 右に寄って! 歩ける人は左へ!」
喜助が老人を起こす。
「大丈夫ですか! 迅、こっち空けろ!」
「分かった!」
迅は二本目の縄を少し下げ、道を広げた。
人が流れる。
詰まりかけた場所が、少しずつ動く。
迅は歯を食いしばった。
敵のことを聞きたい。
右の林を見たい。
でも、今目を離せば、目の前の人が倒れる。
見るべきものが多すぎる。
体が一つでは足りない。
それでも、今はここを見る。
迅は声を張った。
「道を止めるな! 浄火寺へ進んでください!」
*
二人目の斥候が戻ったのは、しばらく後だった。
報告は短かった。
尾根の奥に、荒砥勢らしき小勢の跡。
数は十に満たない。
すでに移動した可能性が高い。
だが、荷駄道を見ていたのは間違いない。
黒羽甚内は、すぐに伝令を城へ走らせた。
迅は、沢の出口に立ったまま、それを見送った。
伝令の背中が遠ざかる。
見たものが、城へ運ばれていく。
昨日、自分が見た足跡も。
佐平が土に描いた道も。
斥候が見た火の跡も。
全部が、次の判断につながっていく。
戦は、槍がぶつかる前から始まっている。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
夕方前、沢の出口の人の流れはようやく落ち着いた。
迅の声はかすれていた。
喜助は泥だらけだった。
水桶は一度もこぼれなかった。
「今日は一回半じゃないな」
迅が言うと、喜助は胸を張った。
「成長した」
「水桶で胸を張るな」
「大事だろ、水」
「大事だな」
二人は笑った。
すぐに、笑いは消えた。
右の林の奥には、まだ敵の気配が残っている気がした。
見えない敵。
足跡だけ残して消える敵。
それは、槍を持って向かってくる敵よりも、嫌な怖さがあった。
瀬川源次郎が迅の横に立つ。
「今日は追わなかったな」
「追うなと言われたので」
「言われても、追う者はいる」
「俺は怖いので」
「怖い者ほど追うこともある。怖さを消したくてな」
迅は何も言えなかった。
確かに、林の奥へ走りたくなる瞬間はあった。
見えないものが怖い。
分からないものが怖い。
だから、見に行きたくなる。
でも、それは自分の怖さを消したいだけかもしれない。
「追わぬ足も、役に立つ」
瀬川源次郎は言った。
「今日のお前は、それを覚えろ」
迅は、自分の足元を見た。
泥に沈んだ足。
逃げるためでもなく、追うためでもなく、そこに立っていた足。
「はい」
小さく答えた。
*
夜、灰ヶ峰城へ戻ると、伝令の報告によって荷駄の予定が変わっていた。
先に出すはずだった見せ荷駄は、さらに軽くされた。
本命の荷駄は、夜明け前に動かすことになった。
赤土峠へ向かう兵糧は遅れるが、完全には止めない。
迅には、すべての意味は分からなかった。
だが、自分が見た足跡が、その一部になったことだけは分かった。
怖かった。
ほんの小さな足跡が、米の動きや兵の動きにつながっていく。
見間違えれば、誰かが違う道を行く。
言わなければ、誰かが知らずに進む。
見た者には、見た者の役目がある。
第4話で黒羽甚内に言われたことが、今さら胸に沈んできた。
迅は城の隅に座り、泥のついた草履を脱いだ。
足が痛い。
追っていないのに、痛かった。
立っていただけなのに、ひどく疲れていた。
喜助は隣で寝転がり、すぐに眠った。
迅は眠れなかった。
右の林の足跡。
尾根の火の跡。
荷駄道を見下ろす場所。
佐平の土の線。
燧景胤の声。
怖いか。
怖い。
なら、よく見える。
迅は、手のひらを見た。
縄の跡が赤い。
槍を握った手。
縄を握った手。
子どもを引いた手。
泥を触った手。
どれも、まだ弱い手だった。
けれど、その手で見つけたものが、誰かの道を変えることがある。
徒火。
誰かを守ろうとして灯す火。
それは、敵を追う足にだけ宿るのではない。
追わずに立ち止まる足にも宿る。
見たものを持ち帰る口にも宿る。
怖さを消さずに、道の前に立つ体にも宿る。
迅は、右の林の暗がりを思い出した。
まだ戦は始まったばかりだ。
敵は、姿を見せずに近づいてくる。
ならば、自分は見なければならない。
逃げたいと思いながら。
追いたい衝動を押さえながら。
道が詰まらないように、そこに立っていなければならない。
迅は目を閉じた。
眠りは浅かった。
けれど、足はまだ、沢の出口に立っている気がした。




