【第10話】空俵の列
夜明け前の灰ヶ峰城は、まだ暗かった。
空は白み始めている。
だが、城の中はすでに動いていた。
荷駄置き場では、俵が並べられている。
米の入った俵。
中身を抜いた空俵。
湿気を避けるために布を巻かれた荷。
縄で固く縛られた箱。
人足たちは、眠そうな顔で動いていた。
誰も大声では話さない。
それでも、足音と縄の擦れる音だけで、そこが戦の中だと分かる。
迅は、少し離れた場所からそれを見ていた。
沢の出口へ向かう前に、坂部角兵衛に呼ばれたのだ。
「見ておけ」
坂部角兵衛はそう言った。
それだけだった。
何を見ればいいのか、迅には分からない。
ただ、見るしかない。
荷駄頭の配下が、空俵を米俵のように積んでいく。
外から見れば、どれが本物で、どれが空なのか分からない。
だが、持つ者には分かる。
重さが違う。
米の詰まった俵は、肩に食い込む。
空俵は軽い。
けれど、軽いからといって雑に扱うことは許されない。
雑に扱えば、偽だと分かる。
「変な感じですね」
迅が言うと、坂部角兵衛が横目で見た。
「何がだ」
「空なのに、大事そうに運ぶところです」
「空だから大事なんだ」
「どういうことですか?」
「敵に見せる荷だからだ」
坂部角兵衛は、空俵を積む人足たちを見た。
「米は食わせるために運ぶ。空俵は敵の目を動かすために運ぶ」
「目を動かす」
「敵がこちらを見ているなら、見せるものを選ぶ。見せたものに敵が食いつけば、敵の目がどこにあるかも分かる」
迅は俵の列を見た。
荷駄は、ただ物を運ぶだけではない。
敵に見せることもある。
敵を迷わせることもある。
米ではない俵が、戦の中では役目を持つ。
そのことが、少し気味悪かった。
「嫌なやり方ですね」
「戦はだいたい嫌なものだ」
「それ、よく聞きます」
「なら覚えろ」
坂部角兵衛は、俵の縄を一つ直した。
「だが、嫌でもやらなきゃ、米を本当に失う」
迅は何も言えなかった。
空俵を運ぶのも嫌だ。
米を失うのも嫌だ。
どちらも嫌なら、まだましな嫌を選ぶしかない。
評定の間で感じたことと同じだった。
戦は、正しいものを選ぶ場所ではない。
ましなものを選ぶ場所なのかもしれない。
「火守」
坂部角兵衛が呼んだ。
「はい」
「今日は沢の出口に立て。だが、耳は荷駄道にも向けろ」
「耳?」
「鐘が二つなら敵影。三つなら火。荷駄道から早鐘が鳴れば、荷駄に何かあったということだ」
「俺が行くんですか?」
「行くな」
即答だった。
「お前は沢の出口を動かすな。荷駄道で何かあっても、民の流れを止めるな」
「でも」
「でも、じゃねえ」
坂部角兵衛の声が低くなった。
「敵は一つの場所だけを攻めるとは限らねえ。荷駄で騒ぎを起こして、沢の出口を崩すかもしれん」
迅は、背筋が冷えるのを感じた。
荷駄道で何かが起きる。
皆がそちらを見る。
沢の出口の人の流れが止まる。
避難民が詰まる。
敵が狙うのは、荷だけではない。
こちらの気を散らすことも攻めになる。
「見たいものを見るな」
坂部角兵衛は言った。
「見るべきものを見ろ」
迅は、小さくうなずいた。
「はい」
その返事は、自分でも少し重かった。
*
朝の評定は、荷駄置き場に近い小部屋で行われた。
正式な評定の間ではない。
だが、集まっている顔ぶれは重かった。
燧景胤。
真木重頼。
倉橋正継。
坂部角兵衛。
黒羽甚内。
鷹見左近。
赤松弥八。
そこへ、瀬川源次郎も呼ばれていた。
迅は本来、入るような立場ではない。
だが、黒羽甚内が「沢の出口の者も聞け」と言ったため、部屋の端に座らされた。
喜助はいない。
あいつは呼ばれなくてよかったな、と迅は思った。
自分も呼ばれたくなかった。
部屋の中央には、粗い地図が広げられていた。
赤土峠。
北の林道。
沢の出口。
浄火寺への道。
右の林。
佐平が示した尾根道。
その上に、黒い石と白い石が置かれている。
黒い石は敵の可能性。
白い石は味方の荷駄。
迅は、小夜の小石遊びを思い出した。
村の土の上に並べられた小石。
小夜は、あれで道や人の動きを見ていた。
今、評定の場でも同じようなことをしている。
ただし、ここで動くのは遊びではない。
石の置き方で、誰かが死ぬかもしれない。
真木重頼が地図を指した。
「見せ荷駄は、夜明けから半刻後に出す。道は北の林道寄り。敵から見えやすい曲がりを通る」
坂部角兵衛が続ける。
「俵は二十。うち米は五。残りは空俵と雑荷だ。人足には『軽い荷は濡れやすいから慎重に扱え』と言ってある」
倉橋正継が帳面を見ながら言う。
「米五俵は本物です。完全な空では敵に見抜かれる恐れがあります。ですが、失っても今日の赤土峠が崩れる量ではありません」
赤松弥八が不満そうに言った。
「火薬は入れん。偽の荷に火薬を混ぜれば、こちらが自分で首を絞める」
真木重頼はうなずいた。
「本命の荷駄は」
坂部角兵衛が白い石を別の道へ置いた。
「夜明け前に動かす予定だったが、まだ動かしていない。見せ荷駄の反応を見る。敵が右の林に残っているなら、何か動くはずだ」
鷹見左近が低く言った。
「民には知らせるな。沢の出口が騒げば、見せ荷駄の意味が薄れる」
瀬川源次郎が答える。
「沢の出口は通常通り回します。火守と喜助に縄を持たせ、人の流れを止めません」
迅は、自分の名前が出て肩が固くなった。
燧景胤が迅を見る。
「火守迅」
「はい」
「今日、荷駄道で騒ぎがあっても、お前は沢の出口を離れるな」
「はい」
「敵影を見ても、追うな」
「はい」
「だが、人の流れが乱れる兆しがあれば、すぐに声を出せ」
「はい」
同じ返事ばかりだった。
けれど、一つ一つの重さが違う。
燧景胤は、地図へ視線を戻した。
「黒羽」
「はい」
「右の林には物見を置く。見つかるな。敵が動いたら、追わずに知らせよ」
「承知」
「真木」
「はい」
「見せ荷駄が襲われた場合、救援は」
真木重頼は、少し考えてから答えた。
「近くに足軽二十を伏せます。ただし、すぐには出しません。敵の数を見ます」
迅は思わず顔を上げた。
すぐには出さない。
襲われても。
鷹見左近が迅の反応に気づいたのか、静かに言った。
「すぐ救えば、敵の数も狙いも分からぬ」
赤松弥八が続ける。
「全部助けようとして全部失うこともある」
迅は唇を噛んだ。
分かる。
理屈は、少しだけ分かる。
だが、見せ荷駄にも人足がいる。
米俵を担ぐ者がいる。
縄を引く者がいる。
歩く者がいる。
その人たちは、囮になるのか。
「人足には、どこまで知らせているんですか?」
気づくと、迅は口を開いていた。
部屋の空気が一瞬止まる。
しまった、と思った。
自分が口を挟む場所ではない。
しかし、燧景胤は怒らなかった。
「坂部」
坂部角兵衛が答える。
「危険はあると伝えている。ただし、敵の目を引くための荷だとは言っていない」
迅は、膝の上で拳を握った。
「それは……」
言いかけて、止まる。
何と言えばいいのか分からなかった。
ずるい。
ひどい。
でも、全部話せば作戦が漏れる。
人足が怖がって動けなくなるかもしれない。
誰かが口を滑らせるかもしれない。
何も言えない。
真木重頼が迅を見た。
「言え」
迅は、喉を鳴らした。
「全部知らせないのは、嫌です。でも、全部知らせたら動けないのも分かります。だから……嫌です」
最後は、ただの感想になった。
情けない。
だが、燧景胤は静かに言った。
「その嫌を忘れるな」
迅は顔を上げた。
「戦で人を動かす者は、いつかすべてを話せぬ時が来る。だが、それを当然と思えば、民はただの荷になる」
部屋の中が静かになった。
燧景胤の声は若い。
それでも、その言葉だけは重かった。
「坂部」
「はい」
「人足には、敵が近くにいる可能性を改めて伝えよ。逃げる合図も決める」
「承知しました」
「真木」
「はい」
「伏せた足軽は、見殺しにするためではない。敵の数を見るためだ。助ける時機を誤るな」
「承知」
迅は黙って頭を下げた。
自分が何かを変えたのかは分からない。
だが、燧景胤の言葉だけは胸に残った。
民はただの荷ではない。
当たり前のことだ。
でも、戦の中では、その当たり前を何度も言わなければ消えてしまうのかもしれない。
*
沢の出口に着いた時、朝の光は山の端にかかっていた。
湿った草が白く光っている。
木札は増えたまま。
縄は二本。
水桶は三つ。
怪我人を休ませる場所には、昨日より大きな布が張られている。
浄火寺へ向かう道には、寺の僧兵が立っていた。
その中に、蓮昭の姿もある。
蓮昭は迅を見ると、少しだけうなずいた。
「今日は顔がさらに悪いな」
「みんなそれ言いますね」
「言われる顔をしている」
「好きでしてるわけじゃないです」
蓮昭は小さく笑った。
その後ろで、喜助が水桶を運んでいた。
「迅! 今日は水桶こぼしてないぞ!」
「まだ朝だろ!」
「朝の勝利だ!」
「小さい勝利だな!」
避難民の中から、少し笑いが起きた。
迅はそれを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
笑えるなら、まだ動ける。
そう思うことが、いつの間にか増えていた。
「火守」
瀬川源次郎が近づいてきた。
「はい」
「今日は荷駄道の鐘も聞け。だが、沢の出口を離れるな」
「はい」
「右の林へ民を入れるな」
「はい」
「敵が出ても追うな」
「はい」
「返事だけは良くなったな」
「中身はまだです」
「知っている」
「ひどいですね」
「だから言っている」
瀬川源次郎は、沢道の奥を見た。
「来るぞ」
鐘が一つ鳴った。
民の到着。
迅は息を吸った。
喉はまだ痛い。
手も痛い。
足も重い。
だが、声は出る。
「怪我人は右! 歩ける人は左! 子ども連れは水を飲んでから、浄火寺へ進んでください!」
人が来る。
今日も、道が動き始めた。
*
見せ荷駄が出たのは、朝の半ばだった。
迅のいる沢の出口からは、直接見えない。
だが、荷駄道の方から、車輪のきしむ音がかすかに聞こえた。
人足の声。
牛を引く声。
縄を締め直す声。
その音だけで、迅の胸はざわついた。
あの中には空俵がある。
だが、人は本物だ。
迅は沢道を見ながらも、耳だけ荷駄道へ向けていた。
「迅」
喜助が小声で言った。
「気にしすぎると、こっち見えなくなるぞ」
「分かってる」
「分かってない顔だぞ」
「お前に言われると腹立つな」
「俺もたまにはいいこと言う」
「たまにな」
その時、避難民の列が少し乱れた。
母親が子どもの手を離し、子どもが水場の方へ走りかける。
迅はすぐに声を出した。
「走らないで! 水は順番です! 子ども連れはこっち!」
喜助が走る。
「こっちだよ。大丈夫、水はあるから」
子どもは泣きながら戻った。
母親が何度も頭を下げる。
迅は首を振った。
「止まらないでください。ゆっくりでいいので、進んでください」
言葉が、前より少しだけ自然に出た。
自分でも驚いた。
怒鳴るだけでは、人は動かない。
怖がらせすぎても止まる。
優しすぎても止まる。
難しい。
でも、前より少し分かる。
その時、荷駄道の方から鐘が鳴った。
一つではない。
短く、二つ。
敵影。
沢の出口の者たちが、一斉に顔を上げた。
迅の足も、そちらへ動きそうになった。
見たい。
何が起きたのか知りたい。
見せ荷駄は襲われたのか。
敵は出たのか。
人足は逃げられたのか。
だが、沢道の前で老人が立ち止まっている。
後ろに人が詰まりかけている。
迅は歯を食いしばった。
見るべきものを見ろ。
坂部角兵衛の声が頭に響く。
「道を止めるな!」
迅は叫んだ。
「荷駄道じゃありません! ここは進んでください! 怪我人は右! 歩ける人は左!」
声が大きく出た。
避難民が動く。
喜助もすぐに合わせた。
「こっち空いてます! 水を飲んだら浄火寺へ!」
蓮昭の僧兵たちも列を整える。
瀬川源次郎は、足軽に短く指示を出した。
「沢の出口を固めろ。荷駄道へ走るな」
足軽の一人が焦った顔をする。
「しかし」
「ここを崩すな」
瀬川源次郎の声は鋭かった。
迅は、その声に背中を押されるように、さらに叫んだ。
「止まらないでください! ここが詰まると、後ろの人が来られません!」
荷駄道の鐘は、もう鳴っていない。
何が起きているのか分からない。
分からないまま、迅は沢の出口に立ち続けた。
*
荷駄道で何が起きたのか、最初に知らせたのは伝令だった。
若い足軽が、息を切らして沢の出口へ走ってきた。
泥が膝まで跳ねている。
瀬川源次郎が前へ出た。
「報告」
「見せ荷駄、北の曲がりで敵影を確認。数は六、あるいは七。林の上から見ていましたが、襲撃はなし」
「襲ってこなかったのか」
「はい。ただし、こちらの伏せ場に気づいた様子あり。すぐに退きました」
伏せ場。
足軽を隠していた場所。
敵はそこに気づいた。
迅は、沢の出口の人の流れを見ながら、耳を澄ませる。
瀬川源次郎がさらに聞いた。
「荷駄は」
「無事です。見せ荷駄は予定通り進ませています。黒羽甚内殿は、敵の退き道を確認中。ただし、深追いはしておりません」
「分かった。城へ戻れ。ここは動かない」
「はっ」
伝令はまた走っていった。
迅は、思わず息を吐いた。
襲われなかった。
人足も無事。
だが、敵はこちらの伏せ場に気づいた。
勝ったのか、負けたのか、分からない。
「迅」
喜助が近づく。
「今の、良かったのか?」
「分からない」
「またそれか」
「本当に分からない」
敵は襲わなかった。
でも、見ていた。
こちらの伏せ場にも気づいた。
見せ荷駄は無事。
だが、本命の荷駄をどうするかは、また変わるかもしれない。
戦は、分からないことばかり増えていく。
それでも、目の前の道は止められない。
「喜助、右の列が詰まってる」
「分かった!」
喜助が走る。
迅は声を出す。
考えるのは後だ。
今は、流す。
*
昼過ぎ、沢の出口に黒羽甚内が現れた。
いつ来たのか分からないほど、静かだった。
迅は思わず肩を跳ねさせた。
「驚きすぎだ」
黒羽甚内が言った。
「気配消して来る方が悪いです」
「消していない。お前が荷駄道を気にしすぎていた」
「……すみません」
「謝るより見ろ」
黒羽甚内は、右の林を見た。
「敵は見せ荷駄に食いつかなかった。だが、見ていた。こちらの伏せ場にも気づいた。つまり、目は悪くない」
「敵がですか?」
「そうだ」
迅は、右の林の奥を見た。
見えない敵。
足跡だけ残す敵。
見るだけで退く敵。
嫌な相手だった。
「襲ってこない敵って、どうすればいいんですか?」
「見返す」
黒羽甚内は即答した。
「斬れないなら、見る。追えないなら、残った跡を拾う。敵がこちらを見るなら、こちらも敵の見た場所を見る」
「難しいですね」
「簡単な敵なら、もう終わっている」
黒羽甚内は、沢の出口を見た。
「人の流れは崩れなかったな」
「たぶん」
「たぶんではない。崩れていない」
迅は少しだけ目を伏せた。
褒められた気はしなかった。
だが、認められたような気はした。
「荷駄道の鐘が鳴った時、走りたかったか」
黒羽甚内が聞いた。
迅は少し迷ってから答えた。
「走りたかったです」
「なぜ」
「何が起きたか見たかったので」
「それは役目か」
迅は答えに詰まった。
見たかった。
知りたかった。
不安だった。
でも、それは自分の役目ではなかった。
「違います」
「そうだ」
黒羽甚内は言った。
「見たいものと、見るべきものは違う」
坂部角兵衛と同じことを言う。
迅は少し嫌な顔をした。
「みんな同じこと言いますね」
「必要なことだからだ」
「何度も言われると、逃げ場がないです」
「逃げ場を減らしている」
「わざとですか?」
「そうだ」
黒羽甚内は平然と言った。
迅は何も言えなかった。
嫌な大人ばかりだ。
そう思った。
だが、その嫌な大人たちがいなければ、自分はとっくにどこかで走って、道を崩していたかもしれない。
それも分かってしまうのが、余計に嫌だった。
*
夕方、見せ荷駄は無事に戻った。
正確には、予定の場所まで進み、そこから引き返した。
空俵も、米五俵も失われなかった。
だが、敵の姿も捕らえられなかった。
右の林から尾根へ抜ける道には、また新しい足跡が残っていた。
敵は見て、退いた。
それだけだった。
だが、その「それだけ」で、灰ヶ峰城の判断は変わった。
本命の荷駄は、夜ではなく、翌朝さらに道を変えて出すことになった。
右の林には、黒羽甚内の物見が増やされた。
沢の出口の人手も、半日だけ増えた。
迅は、沢の出口に立ったまま、その伝令を聞いた。
自分には全部の意味は分からない。
でも、荷駄が戻り、人足が無事だったことだけは分かった。
夜に城へ戻ると、荷駄置き場で人足たちが座り込んでいた。
疲れた顔。
泥のついた足。
縄の跡が残る手。
その中の一人が、空俵を叩いて笑った。
「軽いくせに、重い荷だったな」
周りの者たちが、疲れた声で笑った。
迅は、その言葉が妙に胸に残った。
軽いくせに、重い荷。
空俵なのに、重い。
敵に見られるための荷。
人足が運ぶ荷。
城の判断を動かす荷。
中身が空でも、背負うものは空ではない。
坂部角兵衛が、迅の横に立った。
「見たか」
「はい」
「何を見た」
迅は、空俵の列を見た。
「空でも、重いものがあるんですね」
坂部角兵衛は、少しだけ笑った。
「そうだ」
「あと、知らされないまま動く人がいるのは、やっぱり嫌です」
「そうだな」
「でも、全部知らせたら動けないことがあるのも、少し分かりました」
「それもそうだ」
「嫌ですね」
「嫌だな」
坂部角兵衛は、珍しく茶化さなかった。
ただ、空俵を見ていた。
「だから、忘れるな」
「何をですか?」
「嫌だと思ったことをだ」
迅は、朝の燧景胤の言葉を思い出した。
その嫌を忘れるな。
戦の中で、人を荷にしないための言葉。
迅は小さくうなずいた。
*
その夜、迅は城の隅で、二本の縄をほどいていた。
結び目が固い。
指が痛い。
隣では、喜助がぐったりしている。
「今日は、走ったような走ってないような日だった」
「何だそれ」
「分からん。でも疲れた」
「俺もだ」
「荷駄道、気になったな」
「気になった」
「でも行かなかったな」
「行けなかっただけだ」
「それでも、行かなかった」
喜助はそう言って、目を閉じた。
「俺だったら、気になって走ってたかも」
「お前は水桶で転ぶ」
「今日はこぼしてない」
「今日はな」
喜助は返事をしなかった。
もう眠っていた。
迅は、ほどいた縄を膝の上に置いた。
今日は誰も斬っていない。
敵も捕らえていない。
大きな手柄もない。
ただ、沢の出口に立っていた。
荷駄道の鐘を聞いても、走らなかった。
見たいものを我慢して、見るべきものを見た。
道を止めなかった。
それだけだ。
けれど、それだけが、誰かの無事につながったのかもしれない。
迅は、空俵の列を思い出した。
中身のない俵。
けれど、誰かが担ぎ、誰かが見て、誰かが判断する。
空でも、重いものがある。
なら、目に見えない役目にも重さがあるのだろう。
徒火。
誰かを守ろうとして灯す火。
それは、米の詰まった俵だけに宿るのではない。
空俵を担ぐ人足の肩にもある。
荷駄道へ走らなかった足にもある。
沢の出口で声を出し続けた喉にもある。
嫌だと思う心にも、まだ消えずに残っている。
迅は目を閉じた。
明日もまた、道は動く。
敵もまた、どこかで見ている。
ならば、自分も見るしかない。
見たいものではなく、見るべきものを。
迅は、縄を握ったまま眠りに落ちた。




