表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/48

【第5話】従わされた者

 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の夜は、まだ明けていなかった。


 空は暗い。


 けれど、城の中だけは、昼のように動いている。


 西の馬場では、避難してきた民たちが身を寄せ合っていた。

 釜には粥が煮え、湯気が白く上がっている。

 泣き疲れた子どもが、母親の膝で眠っていた。


 迅は、城の隅に座っていた。


 古い槍を抱えたまま、膝を抱くようにしている。


 手の震えは、まだ完全には止まっていなかった。


 目を閉じると、沢の水に広がる赤い色が見えた。


 自分が斬ったわけではない。


 それでも、自分が止めた。


 止めたから、瀬川源次郎(せがわげんじろう)が斬った。


 母子は助かった。


 敵兵は死んだ。


 どちらも本当だった。


「眠れないのか」


 声がした。


 迅が顔を上げると、瀬川源次郎(せがわげんじろう)が立っていた。


「眠れると思いますか?」


「思わん」


「なら聞かないでください」


 瀬川(せがわ)は、迅の隣に腰を下ろした。


 甲冑の金具が、小さく鳴る。


「初めて人が死ぬところを見た者は、たいてい眠れん」


瀬川(せがわ)殿もですか?」


「昔はな」


「今は?」


「眠れるようになった」


 迅は、その答えに少しだけ顔をしかめた。


「それ、いいことなんですか?」


 瀬川(せがわ)はすぐには答えなかった。


 馬場の方を見る。


 粥を受け取る避難民。

 足を引きずる男。

 子を抱く母親。

 湯気の向こうで、誰かが泣いている。


「眠れなければ、次に動けん」


 瀬川(せがわ)は言った。


「だが、忘れたわけではない」


「忘れなければ、平気になるんですか?」


「平気にはならん。ただ、持ち方を覚える」


「持ち方?」


「槍と同じだ。強く握りすぎれば、手が壊れる。緩めすぎれば、落とす」


 迅は、自分の手を見た。


 赤くなった手のひら。


 小夜に言われた言葉を思い出す。


 逃げ道を残す感じ。


「……戦も、持ち方があるんですか?」


「ある」


 瀬川(せがわ)は短く言った。


「覚えたくないです」


「俺もそうだった」


 その時、城の奥から足音が近づいてきた。


 足軽が一人、瀬川(せがわ)の前で膝をつく。


瀬川(せがわ)殿。黒羽甚内(くろばじんない)殿がお呼びです」


「捕らえた男か」


「はい。口を割りそうだと」


 迅の体がこわばった。


 捕らえた男。


 沢道で武器を捨てた敵兵のことだ。


 瀬川(せがわ)が立ち上がる。


「火守。来い」


「俺もですか?」


「見た者は話せと言われただろう」


「またですか」


「まただ」


 迅は槍を杖のようにして立ち上がった。


 本当は行きたくなかった。


 だが、足は動いた。


 もう、何も知らないふりはできなかった。


     *


 捕らえた敵兵は、城の外郭にある小さな蔵に入れられていた。


 蔵の前には、足軽が二人立っている。


 中へ入ると、湿った土と血の匂いがした。


 松明の光が、壁に揺れている。


 敵兵は、柱に縛られて座っていた。


 若くはない。

 三十を少し越えたくらいに見える。


 頬はこけ、髭は伸び、額には泥がこびりついている。


 だが、目だけはまだ死んでいなかった。


 その前に、黒羽甚内(くろばじんない)が立っている。


 隣には、瀬川源次郎(せがわげんじろう)

 少し離れて、迅も立たされた。


「名は」


 黒羽(くろば)が聞いた。


 敵兵は黙っている。


 黒羽(くろば)は、感情のない声で続けた。


「名を言え。名があれば、死んだ時に記せる」


 敵兵の眉がわずかに動いた。


「……記すだと」


「名もなく埋められたいなら、それでもいい」


 少しの沈黙。


 それから、敵兵は低く言った。


沼原弥平(ぬまはらやへい)


 迅は、その名を心の中で繰り返した。


 沼原弥平。


 敵にも、名前がある。


 当たり前のことだった。


 でも、その当たり前が、胸に重かった。


荒砥国(あらとこく)の者か」


 黒羽(くろば)が聞く。


 弥平(やへい)は口元を歪めた。


「違う」


 瀬川(せがわ)の目が細くなる。


「では、どこの者だ」


薄尾村(すすきおむら)だ」


「国は」


「……荒砥(あらと)に従わされた土地だ」


 蔵の中が静かになった。


 迅は思わず顔を上げた。


 荒砥(あらと)の兵ではない。


 荒砥(あらと)に従わされた村の男。


 それは、どういうことなのか。


 黒羽(くろば)は変わらぬ声で聞いた。


「お前たちは、沢村(さわむら)を焼いたのか」


 弥平(やへい)は黙った。


「答えろ」


「俺は火をつけていない」


「仲間は」


「知らん」


 瀬川(せがわ)が一歩前へ出る。


「逃げる民を追ったのは事実だな」


 弥平(やへい)の目が、迅の方へ一瞬向いた。


 沢道での出来事を思い出しているのだろう。


「命じられた」


「誰に」


荒砥(あらと)先陣(せんじん)の者だ」


「名は」


「知らん。本当に知らん。俺らみたいな者に、武将の名など教えるか」


 弥平(やへい)の声に、悔しさのようなものが混じった。


 黒羽(くろば)が続ける。


「逃げる民を追わせる理由は」


「道を詰まらせるためだ」


「詳しく言え」


 弥平(やへい)は唇を噛んだ。


 少しして、諦めたように息を吐く。


「村を焼く。民が逃げる。城は助けようとする。道に人があふれる。荷駄(にだ)は通れなくなる。城の兵も出にくくなる」


 迅の背中に、冷たいものが走った。


 人を逃がすためではない。


 人が逃げることまで、敵の策に入っている。


 泣き声も、怪我人も、子どもも。


 全部、道を詰まらせるためのものになる。


「ひでえな」


 思わず、迅はつぶやいた。


 弥平(やへい)が迅を見る。


「ひどくない戦があるのか」


 迅は言い返せなかった。


 弥平(やへい)は続けた。


「俺たちの村も、そうやって取られた」


「……」


「米を出せと言われた。男を出せと言われた。嫌なら村を焼くと言われた。だから出た。出なければ、俺の家が焼かれる」


 迅の喉が詰まった。


 どこかで聞いた話だった。


 男を出せ。

 米を出せ。

 命だ。


 煤谷村(すすたにむら)に来た使いの声が、頭の奥で重なった。


 敵の話なのに、遠くなかった。


 瀬川(せがわ)が言った。


「だから逃げる母子を狙ったのか」


 弥平(やへい)の顔が歪んだ。


「狙いたくて狙ったんじゃない」


「では、なぜ槍を向けた」


「向けなければ、俺が殺される」


 蔵の中に、沈黙が落ちた。


 迅は、沢道で倒れた若い敵兵を思い出した。


 烈より少し上くらいに見えた。


 あの男も、そうだったのか。


 向けなければ殺されるから、槍を向けたのか。


 それでも、母子を殺そうとしたのは事実だ。


 迅が止めなければ、あの母子は死んでいたかもしれない。


 黒羽(くろば)は問う。


赤土峠(あかつちとうげ)を狙っているのか」


 弥平(やへい)は目をそらした。


 黒羽(くろば)の声が少し低くなる。


「答えろ。そこを黙れば、話は終わる」


 弥平(やへい)は小さく舌打ちした。


「……赤土峠(あかつちとうげ)だけじゃない」


「何?」


「北の林道にも、別の小勢が回っている。逃げる民を追いながら、道を見る役だ」


 瀬川(せがわ)が顔を上げた。


「北の林道」


「本隊を通す道じゃない。だが、火をつける者や間者(かんじゃ)なら通れる」


 黒羽(くろば)は、すぐに足軽へ命じた。


「この報せを本丸へ。真木重頼(まきしげより)殿へ先に伝えろ。急げ!」


「はっ!」


 足軽が走り出す。


 黒羽(くろば)弥平(やへい)を見下ろした。


「なぜ話した」


 弥平(やへい)は笑った。


 力のない笑いだった。


「どうせ俺は戻れん」


「戻れば殺されるか」


「逃げたと言われる。捕まったと言われる。どちらでも終わりだ」


 弥平(やへい)は、迅を見た。


「お前、さっきの沢にいたな」


 迅は黙っていた。


「お前、俺の仲間を止めた」


「……はい」


「殺したのは、その武士だ」


 弥平(やへい)瀬川(せがわ)を見る。


 瀬川(せがわ)は表情を変えない。


「でも、止めたのはお前だ」


 迅は槍を握る手に力を入れた。


 弥平(やへい)の声は責めているようにも、責めていないようにも聞こえた。


「母子は助かった」


 瀬川(せがわ)が言った。


 弥平(やへい)は目を閉じた。


「なら、よかったんじゃないか」


 その言葉が、迅には一番重かった。


 よかった。


 本当にそうなのか。


 敵にそう言われても、何も軽くならなかった。


     *


 その日の朝、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の本丸では、急ぎの評定(ひょうじょう)が開かれた。


 前夜と同じ板の間に、地図が広げられている。


 だが、置かれた石の数は増えていた。


 沢村(さわむら)

 南の沢道。

 北の林道。

 赤土峠(あかつちとうげ)

 西の馬場。

 浄火寺(じょうかじ)


 火の印も増えている。


 燧景胤(ひうちかげたね)は上座に座っていた。


 その顔には、疲れがある。

 だが、目は地図から離れていなかった。


 真木重頼(まきしげより)が、東側に黒い石を置く。


「捕虜の話が正しければ、敵は赤土峠(あかつちとうげ)だけを見ているのではありません」


 黒羽甚内(くろばじんない)が続ける。


「村を焼き、民を追い、道を詰まらせる。さらに北の林道から、火付けや間者を入れるつもりです」


 鷹見左近(たかみさこん)が冷たく言った。


「捕虜の言葉をどこまで信じるか」


 黒羽(くろば)は即座に答えた。


「全ては信じませぬ。ですが、足跡と煙の位置は話と合います」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が腕を組む。


「北の林道を使われると、荷駄の回し道が塞がれますな」


 倉橋正継(くらはしまさつぐ)が帳面を開いた。


「それだけではありませぬ。西の馬場に避難民が集まり始めています。もし火をつけられれば、兵糧(ひょうろう)も民も一度に失います」


 赤松弥八(あかまつやはち)が低い声で言った。


「火薬蔵に近づかれれば終わりだ。北の林道から城下へ回り込まれるのはまずい」


 景胤(かげたね)は黙って聞いていた。


 地図の上には、いくつもの道がある。


 一本を守れば、別の一本が空く。

 民を助ければ、兵が割かれる。

 兵を集めれば、飯が減る。


 選ばなければならない。


 しかも、早く。


「意見を聞く」


 景胤(かげたね)が言った。


 真木(まき)が口を開く。


「まず赤土峠(あかつちとうげ)の小砦は予定通り固めます。ここを抜かれれば本隊が入る」


 坂部(さかべ)がうなずく。


「荷駄と人足はすでに準備中です。ただし、北の林道へも人を割くなら、木柵と土嚢の数が足りませぬ」


 倉橋(くらはし)が言う。


「米も同じです。赤土峠(あかつちとうげ)へ送る分、西の馬場、浄火寺(じょうかじ)、沢の出口。四つに分ければ、一つ一つは薄くなります」


 鷹見(たかみ)が言った。


「ならば避難民への配給を絞るべきです。戦えぬ者に米を使えば、兵が飢えます」


 部屋の空気が少し硬くなった。


 景胤(かげたね)の目が鷹見(たかみ)へ向く。


「民を飢えさせて、何を守る」


「国です」


 鷹見(たかみ)は動じなかった。


「国が残れば、民は戻ります。国が落ちれば、民も兵も残りませぬ」


 言っていることは、間違いではなかった。


 だからこそ、重かった。


 真木(まき)が静かに言う。


「配給を絞るにしても、順があります。歩ける者には薄粥。子どもと怪我人には濃くする。働ける者には、木柵作りや水運びを手伝わせる」


 倉橋(くらはし)が帳面に筆を走らせる。


「それなら、一日分は伸ばせます」


 坂部(さかべ)が言う。


「避難民の中に、木こりや炭焼きがいるはずです。道を知る者もおります。北の林道の守りに使えます」


 黒羽(くろば)がうなずいた。


「ただし、武器を持たせるなら見張りが要ります。混乱の中に間者が混じる可能性もある」


 赤松(あかまつ)が腕を組む。


「鉄砲は赤土峠(あかつちとうげ)へ回したい。北の林道には多く出せん」


 真木(まき)は地図の北側に白い石を置いた。


「北の林道は、鉄砲ではなく人の目で守る。物見を増やし、鐘と狼煙(のろし)で知らせる」


「狼煙は雨なら弱い」


 赤松(あかまつ)が言う。


「なら鐘も置く」


 真木(まき)が答えた。


「山道に三箇所。叩き方を決めておく。一つなら民の到着。二つなら敵影。三つなら火」


 景胤(かげたね)は、そこで初めて深くうなずいた。


「よい」


 それから、黒羽(くろば)を見る。


「捕虜の扱いは」


 鷹見(たかみ)が先に口を開いた。


「敵に戻すべきではありません。見せしめにする手もあります」


 迅は、部屋の隅で息をのんだ。


 今回も、迅は下座のさらに端に座らされていた。


 見た者として呼ばれたのだ。


 できれば、ここにいたくなかった。


 だが、黒羽(くろば)が「沢道の状況を聞くかもしれん」と言い、残された。


 景胤(かげたね)鷹見(たかみ)を見た。


「見せしめにすれば、従わされた兵は恐れて逃げるか」


「少なくとも、敵に与する者への警告にはなります」


 真木(まき)が首を横に振った。


「逆です。従属兵(じゅうぞくへい)たちは、戻れぬと知れば死に物狂いになります」


 黒羽(くろば)も続ける。


「捕虜は話します。荒砥(あらと)の兵ではなく、従わされた村の男です。使い道があります」


「使い道」


 景胤(かげたね)が言う。


「はい。敵に従わされている者たちへ、こちらは名を記し、命を奪わぬと示せば、逃げ込む者が出るかもしれません」


 鷹見(たかみ)が鋭く言った。


「甘い」


 黒羽(くろば)は表情を変えない。


「甘さではありませぬ。敵の兵を減らす策です」


 真木(まき)が小さくうなずく。


「戦わずに敵を減らせるなら、それも戦です」


 評定の空気が動いた。


 迅は、弥平(やへい)の顔を思い出した。


 どうせ俺は戻れん。


 そう言っていた。


 もし戻らなくていい場所があれば。


 それは、敵を減らすことになるのか。

 人を助けることになるのか。

 それとも、ただ利用するだけなのか。


 迅には分からなかった。


 景胤(かげたね)は、しばらく地図を見ていた。


 そして、言った。


「決める」


 板の間の者たちが姿勢を正した。


「一つ。赤土峠(あかつちとうげ)の小砦は予定通り固める」


「一つ。北の林道に物見を増やす。鐘を三箇所に置け。合図は一つで民、二つで敵影、三つで火」


「一つ。西の馬場、浄火寺(じょうかじ)、沢の出口に米を分ける。子どもと怪我人を優先する」


「一つ。避難民の中から、道を知る者、木を扱える者を募る。木柵作り、水運び、道案内に回せ」


「一つ。捕虜の名を記せ。殺すな。敵に従わされた者から、話を聞く」


 鷹見(たかみ)が少し眉を動かした。


 だが、何も言わなかった。


 景胤(かげたね)は最後に付け加えた。


「ただし、油断はするな。情けと隙は違う」


 真木(まき)が深く頭を下げた。


「御意」


 評定は終わらなかった。


 そこからさらに、誰がどこへ行くかが決められていった。


 坂部(さかべ)は荷駄の割り振りを読み上げた。

 倉橋(くらはし)は米の配分を書き直した。

 黒羽(くろば)は物見の人数を増やした。

 赤松(あかまつ)は鉄砲を赤土峠(あかつちとうげ)へ優先して回すと告げた。

 鷹見(たかみ)は、それぞれの命令を書き留めていく。


 迅は、その様子を見ていた。


 戦は、ただ斬るだけではない。


 誰を生かすか。

 どこへ米を送るか。

 どの道を見張るか。

 誰を信じ、誰を疑うか。


 そういうものが、全部つながっている。


「火守迅」


 また名を呼ばれた。


 迅は顔を上げた。


 真木重頼(まきしげより)がこちらを見ている。


「お前は、沢道を見たな」


「はい」


「明日、沢の出口に炊き出し場を作る。そこへ行け。荷運びと道の確認だ」


 迅は一瞬、息が止まった。


 また外へ出るのか。


 そう思った。


 だが、今度はすぐに逃げたいとは言えなかった。


 沢道には、まだ逃げてくる人がいるかもしれない。


 そう思ってしまったからだ。


「……分かりました」


 声は小さかった。


 でも、言った。


 瀬川(せがわ)が横で少しだけ目を伏せた。


 黒羽(くろば)は何も言わない。


 景胤(かげたね)は、迅を見ていた。


「怖いか」


 景胤(かげたね)が聞いた。


 迅は少し迷ってから答えた。


「怖いです」


「そうか」


 景胤(かげたね)はうなずいた。


「なら、よく見てこい」


 迅はその言葉の意味が、すぐには分からなかった。


 怖いなら逃げろ、ではない。


 怖いなら戦え、でもない。


 怖いなら、よく見ろ。


 それは、小夜の言葉に少し似ていた。


     *


 評定が終わると、迅は外へ出た。


 城の空気が、少し冷たく感じた。


 西の馬場では、まだ粥が配られている。


 避難民の列は、朝より長くなっていた。


 子どもの泣き声。

 足軽の指示。

 荷駄の車輪の音。

 釜の火の音。


 その中に、捕虜の弥平(やへい)が連れてこられるのが見えた。


 縄はかけられている。


 だが、首を落とされる様子ではない。


 弥平(やへい)は迅に気づいた。


 少しだけ、目を細める。


「お前か」


 迅は立ち止まった。


「……はい」


「俺は殺されんらしい」


「そうみたいですね」


「お前が言ったのか」


「俺は何も」


「だろうな」


 弥平(やへい)は小さく笑った。


 笑ったというより、息が漏れただけに近い。


「変な城だ」


「俺もそう思います」


 弥平(やへい)は、西の馬場を見た。


 粥を受け取る民。

 泣く子ども。

 水を運ぶ人足。

 木材を担ぐ男たち。


「ここも、いつまで持つか分からんぞ」


「分かってます」


「分かってねえ顔だ」


「分かりたくないんです」


 迅は正直に言った。


 弥平(やへい)は少し黙った。


「それでも、分かることになる」


 その言葉に、迅は何も返せなかった。


 足軽が弥平(やへい)を連れていく。


 迅は、その背中を見送った。


 敵。


 捕虜。


 従わされた兵。


 名前のある男。


 呼び方が変わるたびに、相手の見え方も変わる。


 だが、槍を向けられれば、止めなければならない。


 それだけは、変わらない。


 迅は、自分の古い槍を見た。


 柄にはまだ泥がついている。


 手のひらには、赤い痕が残っている。


 徒火(あだび)


 誰かを守ろうとして灯す火。


 それは、きれいな火ではない。


 けれど、消せば誰かが暗闇に残される。


 迅は、ゆっくりと息を吐いた。


 明日また、沢道へ行く。


 怖い。


 行きたくない。


 それでも、見なければならないものがある。


 遠くで、鐘が一つ鳴った。


 民の到着を知らせる音だった。


 迅は顔を上げた。


 戦は、まだ始まったばかりだった。


 そしてその音は、迅にとって初めての命令のように聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ