【第4話】見た者の役目
夜明け前の灰ヶ峰城は、まだ暗かった。
だが、城は眠っていなかった。
門の内側では、足軽たちが槍を持って並んでいる。
荷を積んだ馬が鼻を鳴らし、炊き出しの釜からは細い湯気が上がっていた。
迅は、古い槍を抱えたまま、門のそばに立っていた。
眠った気がしない。
壁にもたれて少し目を閉じたはずなのに、頭の奥はずっと起きていた。
遠くで煙が上がる光景。
沢村の火。
小夜からもらった炭の欠片。
黒羽甚内の声。
明朝、東へ出る。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返されていた。
「顔が死んでるぞ」
横から声がした。
喜助だった。
喜助も、目の下に濃い影を作っている。
「お前もな」
「俺は元からこういう顔だ」
「便利な顔だな」
「嬉しくねえ」
二人は小声で言い合った。
そのすぐ近くで、瀬川源次郎が数人の足軽を集めていた。
さらにその前に、物見頭の黒羽甚内が立っている。
黒羽は、地面に置かれた板の上に小石を並べていた。
板には、簡単な地図が描かれている。
灰ヶ峰城。
東へ伸びる山道。
沢村。
その北側の林道。
南へ回る細い沢道。
迅は、その地図を見て眉をひそめた。
小夜が土の上に作っていた村の地図に似ていた。
ただし、こちらは遊びではない。
人が死なないための地図だ。
「これより、東へ出る」
黒羽が言った。
声は大きくない。
だが、皆が黙った。
「目的は三つ」
黒羽は小石を一つ、沢村の近くへ置いた。
「一つ。荒砥の先触れの位置を探る」
次に、山道へ小枝を置く。
「二つ。沢村から逃げる民の道を確かめる」
最後に、灰ヶ峰城の方へ白い石を置いた。
「三つ。逃げる民を西の馬場へ誘導する」
迅は思わず口を挟みそうになった。
たった三つ。
言葉にすればそれだけだ。
だが、その三つの中には、燃えた家や、逃げ遅れた人や、泣いている子どもが入っている。
黒羽は続けた。
「我らは敵と戦うために出るのではない。敵を見つけるために出る。道を開けるために出る。余計な戦はするな」
足軽の一人が尋ねた。
「もし敵に見つかったら?」
「逃げる」
黒羽は即座に言った。
その場が少しざわつく。
黒羽は表情を変えない。
「物見が敵と正面からぶつかってどうする。敵の数、進む道、荷駄の有無。それを持ち帰るのが役目だ。首を取っても、報せが戻らねば何の役にも立たぬ」
迅は、少しだけ目を上げた。
逃げる。
武士の口から、当たり前のようにその言葉が出た。
それは迅にとって、少し不思議だった。
逃げることは、恥ではないのか。
戦では、逃げる者から死ぬのではないのか。
瀬川が低い声で言った。
「ただし、逃げる民を置いて走るな」
黒羽がうなずく。
「そこだ。だから道を見る者がいる」
黒羽の目が迅に向く。
「火守」
「はい」
「お前は足軽の前へ出るな。後ろを見ろ」
「また後ろですか?」
「不満か」
「いえ。前は嫌です」
足軽の何人かがこちらを見た。
瀬川が軽く睨む。
迅は目をそらした。
黒羽は少しも笑わなかった。
「なら向いている。後ろで転ぶ者、遅れる者、道を外れそうな者を見つけろ。逃げる民は、恐怖で前しか見えなくなる。そういう者は谷へ落ちる」
迅は黙った。
谷へ落ちる。
その言葉が妙に具体的で、腹のあたりが冷えた。
「喜助」
「は、はいっ」
「お前は火守につけ。荷を持て。人を背負うこともある」
喜助の顔が固まった。
「人を、ですか?」
「子どもか、年寄りか、怪我人だ」
「……はい」
返事は震えていた。
けれど、逃げなかった。
迅は横目で喜助を見た。
「無理すんなよ」
「お前もな」
「俺はそもそも無理したくない」
「そこは少しは格好つけろよ」
喜助が小さく言った。
迅は返さなかった。
門の外が、少しずつ白んでいく。
山の向こうから、朝が来る。
だが、その朝は明るく見えなかった。
*
灰ヶ峰城の門が開いた。
音は重かった。
木と鉄がこすれる音が、腹に響く。
先頭に黒羽甚内。
続いて足軽が八人。
瀬川源次郎と、迅、喜助。
さらに、水袋と縄を持った人足が二人。
全部で十数人の小さな一団だった。
大軍ではない。
旗もない。
太鼓も鳴らない。
それでも迅には、門の外へ出る一歩が、田んぼの泥に足を入れる時とはまるで違って感じられた。
城の外は、静かだった。
静かすぎた。
鳥の声も少ない。
風の音だけが、木々の間を抜けている。
黒羽は、すぐに歩く速さを落とした。
「足音を散らせ」
足軽たちが少し間を空ける。
「道の真ん中を歩くな。端を見ろ。折れた枝、踏まれた草、泥の跡を拾え」
迅は言われるままに、足元を見た。
朝露に濡れた草。
細い道に残った蹄の跡。
引きずられたような線。
泥に残る、小さな足跡。
小さな足跡。
迅はそこで足を止めた。
「どうした?」
瀬川が聞いた。
「子どもの足跡です」
迅はしゃがみこんだ。
「こっちに向かってます。城の方じゃない。沢の方へ逃げてる」
黒羽が近づく。
足跡を見る。
周囲を見る。
風の向きも確かめる。
「何人だと思う?」
「分かりません。でも、小さい足跡が二つ。大人の足跡が一つ。たぶん、手を引いてる」
迅は自分で言ってから、少し驚いた。
なぜそんなことが分かるのか。
ただ、見えた。
小夜ほどではない。
けれど、小夜がいつも見ていたものを、少しだけ思い出した。
人は、足元に何かを残す。
慌てていれば、なおさら。
黒羽は、迅を見た。
「悪くない」
「褒めてますか?」
「無駄口を叩くほど悪くはない」
「微妙ですね」
瀬川が低く言った。
「火守。続けろ」
迅はうなずいた。
足跡は沢の方へ向かっていた。
沢道は細い。
足場も悪い。
だが、木が多く、上からは見えにくい。
逃げるには良い道かもしれない。
転ばなければ。
*
沢へ降りる道は、湿っていた。
昨日の夜露が残り、石は滑りやすい。
喜助が何度も足を取られた。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫って言うしかない」
「便利な返事だな」
「泣き言を言ったら瀬川殿に怒られる」
「もう言ってるようなもんだろ」
二人の声は小さい。
前を行く足軽が手で合図した。
全員が止まる。
迅も息を止めた。
沢の向こうから、何かが聞こえた。
水の音。
木の葉の音。
それに混じって、かすかな声。
泣き声だった。
子どもの声だ。
黒羽が指を二本立てる。
足軽二人が先に進む。
瀬川が迅の前に出た。
「勝手に動くな」
「分かってます」
迅は答えた。
だが、足は勝手に前へ出そうだった。
泣き声が近い。
すすり泣き。
それを押さえようとする大人の声。
枝が折れる音。
少し開けた場所に出た。
そこに、三人いた。
若い母親。
その手を握る男の子。
背中におぶわれた、さらに小さな子ども。
母親の足は血で汚れていた。
草履が片方ない。
足首が腫れている。
「助け……」
母親が声を出しかけて、すぐに口を閉じた。
足軽の槍を見たからだ。
敵か味方か分からない。
そういう顔だった。
黒羽は槍を下げた。
「灰ヶ峰城の者だ。騒ぐな。怪我は?」
母親は震える声で答えた。
「足を……途中で……」
背中の子どもが泣き始める。
男の子は、母親の着物を強く握っていた。
迅はその子の目を見た。
小夜より少し小さいくらいだろうか。
顔が泥だらけだった。
「沢村からか?」
黒羽が聞く。
母親はうなずいた。
「火が……急に……三つも……」
迅の背中に冷たいものが走る。
小夜が言った通りだった。
燃え広がった火ではない。
誰かが火をつけた。
「他に逃げた者は?」
瀬川が尋ねる。
「分かりません。皆、ばらばらに……父と、義母は……」
母親はそこで言葉を飲んだ。
男の子が下を向く。
喜助が息をのんだ。
黒羽は短く判断した。
「この者たちは城へ戻す。喜助、子どもを背負え。火守、母親の肩を持て」
「はい」
迅はすぐに動いた。
母親の肩を支える。
熱がある。
体が震えている。
母親は申し訳なさそうに言った。
「すみません、私が歩ければ」
「歩けねえ時は、誰かが支えりゃいいんです」
迅は言ってから、少し照れた。
言い方が思ったよりまともだった。
喜助が背中の子どもを受け取る。
「軽いな」
思わずこぼした声だった。
母親が顔を曇らせる。
迅は喜助を肘で小突いた。
「馬鹿」
「悪い」
喜助は小さく謝り、子どもを背負い直した。
黒羽は沢の奥を見ていた。
その目が細くなる。
「急ぐ」
声が変わった。
迅も気づいた。
水の音に混じって、別の音がする。
金属の触れる音。
足音。
人が、こちらへ来る。
*
足軽たちが槍を構えた。
瀬川も刀の柄に手をかける。
迅は母親を支えたまま、息を止めた。
沢の向こう。
木々の間から、三人の男が現れた。
武士ではない。
鎧も揃っていない。
持っているのは槍と短い刀。
背中には、どこかの村から奪ったらしい荷がくくりつけられている。
だが、ただの逃げる民ではない。
目が違った。
こちらを見た瞬間、笑った。
「いたぞ!」
一人が言った。
「女と子どもだ!」
迅の手に力が入った。
母親の肩が震える。
男の子が声を押し殺した。
黒羽が低く言う。
「荒砥の者か?」
相手の一人が唾を吐いた。
「さあな」
瀬川が前に出る。
「下がれ!」
これは迅に向けた言葉だった。
迅は母親を支えたまま、後ろへ下がろうとした。
その時、一番若い敵兵が横へ走った。
母親と子どもの方へ回り込もうとしている。
足軽の一人が止めようとしたが、沢の石で足を滑らせた。
敵兵が抜ける。
迅の目の前に、槍の穂先が向いた。
逃げろ。
頭の中で声がした。
逃げればいい。
自分だけなら走れる。
母親の肩を離せば、すぐにでも下がれる。
だが、背後には男の子がいた。
母親は歩けない。
喜助の背中には子どもがいる。
迅は、槍を握った。
手が震えた。
敵兵が迫る。
若かった。
烈より少し上くらいに見えた。
顔に泥がつき、目が血走っている。
敵。
敵なのか。
それとも、自分と同じようにどこかの村から集められた男なのか。
そんなことを考えた瞬間、敵兵が叫んだ。
「どけ!」
槍が突き出される。
迅はとっさに、母親を後ろへ押した。
自分の槍を前へ出す。
狙ったわけではなかった。
ただ、来るものを止めようとした。
木と鉄がぶつかる音がした。
手がしびれる。
足が滑る。
迅は泥に膝をついた。
「迅!」
喜助の声がした。
敵兵がもう一度踏み込む。
迅は立てなかった。
だが、槍だけは離さなかった。
小夜の声が頭に響く。
手にも、足にも。
逃げ道がないと転ぶでしょ。
迅は槍を強く握りすぎていることに気づいた。
力を抜く。
柄を滑らせる。
敵兵の槍を横へ流す。
偶然だった。
だが、敵兵の体が崩れた。
瀬川が踏み込んだ。
一閃。
敵兵が倒れた。
迅の目の前に、血が落ちた。
赤い。
沢の水に混じって、広がっていく。
迅は動けなかった。
自分が斬ったわけではない。
それでも、自分が止めた。
止めたから、瀬川が斬った。
敵兵は倒れている。
動かない。
迅の喉が詰まった。
「見るな!」
瀬川の声が飛んだ。
だが、遅かった。
迅は見てしまった。
人が死ぬところを。
黒羽たちは、残る二人を素早く押し返していた。
一人は逃げた。
一人は足軽に槍を向けられ、武器を捨てた。
沢の音だけが、また戻ってくる。
喜助は子どもを背負ったまま震えていた。
男の子は泣いていない。
泣けない顔だった。
母親は、口元を押さえている。
迅は立ち上がろうとして、失敗した。
膝が笑っている。
「火守」
瀬川が近づく。
「立てるか?」
「……立てます」
嘘だった。
瀬川は迅の腕を掴み、引き上げた。
「今のは、お前が止めた」
「俺は……」
「母子は助かった」
迅は何も言えなかった。
助かった。
その言葉だけなら、良いことのはずだった。
でも、足元には死んだ敵兵がいる。
助かる者がいて、倒れる者がいる。
それを選ぶのが戦なのか。
黒羽が戻ってきた。
「長居はできん。逃げた一人が戻れば、仲間を連れてくる」
瀬川がうなずく。
「負傷者を連れて退きます」
「火守」
黒羽が迅を見た。
「歩け」
「……はい」
「吐くなら歩きながら吐け。止まるな」
乱暴な言葉だった。
だが、迅には少しありがたかった。
立ち止まれば、もう動けなくなりそうだった。
*
帰り道は、来た時よりも長かった。
母親は瀬川と迅が交代で支えた。
喜助は小さな子どもを背負い、何度も息を切らした。
男の子は黙って歩いた。
敵の気配は、いつまた背後から来るか分からない。
足軽たちは何度も振り返った。
黒羽は、先頭と後ろを何度も行き来した。
迅は足元を見ていた。
転びそうな石。
折れた枝。
滑りやすい泥。
見なければならないものは、いくらでもあった。
だが、目の奥には、さっきの血が残っていた。
赤い色。
沢の水に薄まっていく色。
敵兵の顔。
若かった。
あいつにも、母親がいたのだろうか。
弟や妹がいたのだろうか。
迅は考えないようにした。
でも、考えてしまった。
「迅」
喜助が小声で呼んだ。
「大丈夫か?」
「大丈夫に見えるか」
「見えない」
「じゃあ聞くな」
「でも、聞くだろ」
迅は喜助を見た。
喜助は泣きそうな顔で笑っていた。
その背中の子どもは眠っている。
小さな手が、喜助の肩を握っていた。
「重くないのか?」
「重い」
「さっき軽いって言ってただろ」
「あれは馬鹿なこと言った」
「分かってるならいい」
喜助は少し黙ってから言った。
「でも、あったかい」
迅は答えられなかった。
背負われた子どもの体温。
倒れた敵兵の冷えていく体。
その両方が、戦場にはある。
そんなことを知りたくなかった。
*
灰ヶ峰城の門が見えた時、迅はようやく息を吐いた。
門の前では、すでに避難民を受け入れる準備が始まっていた。
西の馬場へ向かうよう、足軽が声を上げている。
粥を炊く釜が並び、水桶が運ばれていた。
母親は馬場へ運ばれた。
男の子は、そこで初めて泣いた。
声を出して、泣いた。
迅はその声を聞いて、胸の奥が苦しくなった。
泣ける場所まで来られたのだ。
そう思った。
黒羽は、門の内側で瀬川と短く話していた。
「敵は三。うち一を討ち、一を捕らえ、一を逃がした。沢道に逃げる民あり。沢村南側は危険。北の林道はまだ使える可能性がある」
瀬川がうなずく。
「報告します」
「急げ。逃げた一人が戻る前に、道を押さえる必要がある」
迅は、そのやり取りをぼんやり聞いていた。
戦は終わっていない。
むしろ、今の出来事が次の命令になる。
人が逃げ、敵が追い、誰かが報告し、誰かが地図の石を動かす。
そうやって戦は進んでいく。
迅は、槍の柄を見た。
手のひらが赤くなっている。
血ではない。
強く握りすぎたせいだ。
それでも、赤く見えた。
「火守」
瀬川が声をかけた。
「はい」
「怖かったか?」
迅は顔を上げた。
答えようとして、言葉が出なかった。
怖かった。
足が動かなかった。
手が震えた。
死ぬと思った。
人が死ぬのを見た。
全部、怖かった。
「……怖かったです」
やっと言った。
瀬川はうなずいた。
「忘れるな」
「え?」
「怖いと思えるうちは、無駄に人を殺さない」
瀬川は門の外を見た。
「だが、怖いだけでは守れない時もある」
迅は黙った。
「今日は、お前が止めたから母子が助かった」
「でも」
「でも、ではない。助かった者がいる。それを数えろ」
迅は唇を噛んだ。
「死んだ者は」
「それも忘れるな」
瀬川の声は、冷たくはなかった。
「両方持て。戦に出るならな」
迅は槍を握った。
重かった。
昨日よりも、ずっと重い。
同じ古い槍なのに、まるで別のものになっていた。
喜助が隣に来る。
「迅」
「なんだ」
「俺、もう山道は嫌だ」
「俺もだ」
「でも、あの子、助かったな」
迅は西の馬場を見た。
男の子が、粥の椀を両手で持っていた。
その横で、母親が泣きながら頭を下げている。
迅は、目をそらした。
「……助かったな」
小さく言った。
胸の奥に、また火のようなものが落ちる。
熱いのに、冷たい。
怖いのに、消えない。
徒火。
その言葉を、迅は思い出した。
誰かを守ろうとして灯す火。
けれど、その火はきれいなものではなかった。
泥が混じる。
血が混じる。
泣き声が混じる。
それでも、消してはいけないものなのかもしれない。
迅はまだ、そう思い始めたばかりだった。
*
その日の夕方。
灰ヶ峰城の本丸では、再び地図が広げられていた。
燧景胤は上座に座り、報告を聞いていた。
板の間には、真木重頼、黒羽甚内、倉橋正継、坂部角兵衛、鷹見左近がそろっている。
瀬川源次郎は、下座に控えていた。
その隣に、迅も座らされていた。
本当は外で待っていたかった。
だが、黒羽に「見た者は話せ」と言われ、逃げられなかった。
地図の上には、沢道を示す細い線が引かれていた。
黒羽が言う。
「沢村南の沢道に敵の小勢あり。三名を確認。一名を討ち、一名を捕らえ、一名は東へ逃走。敵は村を焼くだけでなく、逃げる民を追っております」
景胤の顔が険しくなる。
「逃げる民を、か」
「はい」
真木が地図を見る。
「ならば、単なる脅しではない。避難民の流れを乱し、我らの誘導を崩すつもりだ」
坂部が腕を組んだ。
「逃げる民が道を詰まらせれば、荷駄も動けませぬ」
倉橋が続ける。
「馬場の粥も足りなくなります。今日だけで避難民は百を超えました。明日には倍になるやもしれませぬ」
鷹見が言った。
「ならば、城内へ入れる数を絞るべきです」
景胤は即座に顔を上げた。
「門前で民を止めるのか」
「無制限に入れれば混乱します」
真木が静かに割って入った。
「止めるのではなく、分けるべきです。怪我人、子ども連れ、老人を優先。歩ける者は西の馬場からさらに奥の寺へ送る」
「浄火寺か」
景胤が言う。
「はい。寺には井戸と広場があります。僧兵が中立を保つと言っておりますが、避難民の受け入れなら拒みますまい」
倉橋が帳面を開いた。
「米は薄粥にしても限りがあります。城だけで抱えれば、五日もたぬ可能性があります」
景胤は地図を見た。
村の印。
道の線。
火の印。
白い石。
黒い石。
「迅」
突然、名を呼ばれた。
迅は肩を跳ねさせた。
「は、はい」
「沢道は、民が通れる道だったか」
景胤の声は静かだった。
迅は、地図を見た。
皆の目が自分に向いている。
逃げたい。
だが、聞かれているのは、見たことだ。
迅は唾を飲んだ。
「足の悪い人には、きついです。石が滑ります。子どもも転びます。でも、木が多いから、上からは見えにくいです」
言いながら、沢の音を思い出した。
「急いで逃げる道には向いてません。でも、隠れて進むなら……使えると思います」
黒羽がうなずいた。
「同じ見立てです」
真木が地図に小石を置いた。
「ならば沢道は、歩ける者の退避路にする。怪我人は北の林道。そこへ護衛をつける」
坂部が言う。
「荷駄は林道へは入りにくい。人だけなら通せます」
倉橋が続ける。
「水場は沢道が近い。炊き出しを一箇所増やすなら、沢の出口です」
鷹見は眉をひそめた。
「分散すれば守りが薄くなります」
真木が答えた。
「一箇所に集めれば、一度崩れた時に全て失う」
板の間が静まった。
景胤はしばらく地図を見つめていた。
そして、言った。
「決める」
全員が姿勢を正す。
「一つ。避難民は西の馬場で受け、怪我人と子ども連れを優先して休ませる」
「一つ。歩ける者は、浄火寺へ送る。真木、使者を出せ」
「一つ。北の林道と沢道に、それぞれ護衛を置く」
「一つ。沢の出口に小さな炊き出し場を作る。倉橋、米の配分を決めよ」
「一つ。黒羽は明朝も物見を出せ。逃げた敵の行方を探る」
景胤は最後に、迅を見た。
「火守迅」
「はい」
「今日は、よく戻った」
迅は何と答えればいいか分からなかった。
褒められるようなことをした気がしない。
ただ怖くて、泥に膝をついて、必死に槍を握っていただけだ。
「……俺は、何も」
「戻った」
景胤は言った。
「見たことを持ち帰った。それは、戦の中では大きい」
迅は黙った。
胸の奥が、また熱くなる。
嬉しいのか、苦しいのか、分からない。
真木が迅を横目で見た。
黒羽は何も言わない。
瀬川は、ただ静かに座っていた。
その夜。
迅は城の隅で、ようやく座り込んだ。
手の震えは、まだ止まっていなかった。
けれど、槍は離していない。
離せなかった。
遠くで、避難民の泣き声が聞こえる。
釜の湯気が上がる。
足軽たちの足音が続く。
戦は、まだ始まったばかりだった。
そして迅は、もう知ってしまった。
敵を止めなければ、守れない命があることを。




